妖魔夜行 戦慄のミレニアム(下) 山本弘 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)過冷却《かれいきゃく》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)海底|敷設《ふせつ》式水中固定|聴音網《ちょうおんもう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------   目次  7 天より来たるもの  8 ニューヨーク・バケーション  9 モントークの遺産  10 神の軍団  11 地球最後のパーティ  12 「それは、からし種に似ている」  13 空が開く  14 今夜かぎり世界が……  15 結晶核  エピローグ ミレニアム   妖怪ファイル   あとがき [#改ページ]    7 天より来たるもの  アメリカ・ロードアイランド州・ナンタケット島——  二〇〇〇年六月一八日・午後七時五分(東部標準時)—— 「ペトルーソさんですね?」  戸口に立った中年男性は、身分証明書を提示しながらそう言った。白い半袖《はんそで》の制服を着て、ブリーフケースを提げている。肩《かた》の黒い階級章には黄色い三本のストライプ。胸には鷲《わし》のマーク。制帽にもいかめしい銀色の鷲が光っている。もっとも、銀縁《ぎんぶち》眼鏡をかけた温厚そうな顔、ひょろりとした体格は、あまり軍人らしく見えない。隣《となり》にはやはり眼鏡をかけた若い女性士官を従えている。 「お休みのところを失礼します。海軍法務局の者です」 「JAGの?」  ジム・ペトルーソは目を丸くした。こんな田舎町《いなかまち》には大事件などめったに起きない。だから中央の人間が訪れることもまずない。十数年前、逃亡犯《とうぼうはん》を追ってFBIの捜査官《そうさかん》が来たことがあるぐらいだ。ましてやJAGだなんて……。 「私はジョン・クエンティン・フェラー少佐《しょうさ》。こちらはリン・エリス大尉《たいい》」 「よろしく」  女性士官は生真面目《きまじめ》な表情で挨拶《あいさつ》した。東洋系の血が混じっているのか、ちょっとエキゾチックな顔立ちをしている。制服は上司と同じものだが、胸が大きいため、今にもボタンがはじけ飛びそうに見えた。 「ある事件を捜査しています。中でお話ししたいのですが、よろしいでしょうか?」 「あ……ああ」  とまどいながらも、ペトルーソはドアのチェーンをはずし、二人を家の中に入れた。小さな応接間に案内し、ソファを勧《すす》める。 「すまないね。女房《にょうぼう》が近所の寄り合いに行ってるもんで——コーヒーか何かは……?」 「いえ、すぐに失礼しますので」  フェラー少佐と名乗る男は、さっそく用件を切り出した。 「これからお話しすることは海軍の極秘事項《ごくひじこう》に属します。秘密を守っていただけますか?」  ペトルーソは緊張《きんちょう》し、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。何かえらく大げさな事件のようだ……。 「ああ……守れるよ」 「よろしい——実は三か月前、このナンタケット島の沖合《おきあい》四〇マイル(約六四キロ)の海上で、海軍が極秘に開発中の小型|潜航艇《せんこうてい》が、テスト航行中に事故を起こしまして……」 「潜航艇?」 「新型の試作機です」女性士官が補足説明をした。「電磁水流推進システムを搭載《とうさい》。スクリュー音を立てずに海中を長時間航行できます」 「それが事放った?」 「誤って暗礁《あんしょう》に激突《げきとつ》したのです」とフェラー少佐。「無論、マスコミには伏《ふ》せられています。  幸い、緊急浮上《きんきゅうふじょう》装置が作動して、パイロットは無事に脱出《だっしゅつ》したのですが、事故の状況《じょうきょう》に疑問が持たれていましてね。パイロットの操船ミスではないかと。本人はナビゲーション・システムの故障だと主張しているのですが、証拠《しょうこ》がない。回収された船体からはログが発見されていないのです」 「ログ?」 「航行データを記載した日誌です。手帳サイズの。試験機のパイロットは記録を義務づけられています」 「それがこの田舎町に何の関係が……?」 「無人で漂流《ひょうりゅう》していた船体は、強風でこの先の海岸に打ち上げられていたのです。海軍によって回収される直前、ハリー・ウェンズワースという漁師によって目撃《もくげき》されています」 「ちなみに」と女性士官。「潜航艇は円盤《えんばん》型をしています」 「ああ!  ペトルーソは声を上げた。突然《とつぜん》、頭の中で、「手帳」「円盤」「ウェンズワース」というキーワードがひとつにつながったのだ。 「ちょっと待っててくれ!」  そう言うと、彼は奥《おく》に引っこみ、すぐに黒い手帳を持って戻《もど》ってきた。 「あんたらが探してるのはこれだろ!?」  ペトルーソが嬉《うれ》しそうに手渡《てわた》した手帳を、フェラーはぱらぱらとめくってみた。横にいた女性士官も覗《のぞ》きこむ。最後のページに描《えが》かれた立方体の図と、 <1380M> という文字を見て、二人とも軽く眉《まゆ》を寄せた。 「どう? それかい? 俺《おれ》には何が書いてあるのかさっぱりだが……」 「そうでしょうね」フェラーはうなずいた。「海軍が使う特別のコードです」 「やっぱりなあ!」ぺトルーソは勝ち誇《ほこ》ったように言った。「ハリーが円盤の中で拾ったんだそうだ。奴《やつ》はエイリアンの文字に違《ちが》いないってぬかすんだけど、俺は言ってやったんだよ。エイリアンがアルファベットなんか使うわけないだろって!」 「ずっとあなたが保管を?」 「ああ。ほんとなら拾得物は署で保管するところなんだが、この件で調書なんか作りたくなかったからな……分かるだろ? UFOの墜落《ついらく》だなんて、バカらしくってさ」 「分かりますよ」 「かと言って、捨てちまうのも気が引けたもんでね。もしかしたら大事なものかもしれないし、何となく取っておいたんだ。いや、捨てちまわなくてよかったよ」 「誰《だれ》かに見せましたか?」  フェラーは手帳から顔を上げもせずに訊《たず》ねた。ペトルーソは肩をすくめる。 「いや、俺とハリーだけだ。女房にも見せてない」 「それは良かった。この件は内密に願えますか? 何しろ海軍の……」 「極秘事項だろ。分かってるって」  ペトルーソは嬉しそうにウインクした。彼は若い頃《ころ》からバリバリのタカ派で、軍隊には好感を持っている。 「そう言や」彼はふと思いついた。「海軍はIBMのパソコン使ってんのかい?」  フェラーは思いがけない質問に当惑《とうわく》した。「えっ? なぜです?」 「いや、ハリーの野郎《やろう》、円盤の中にIBMのパソコンがあったって言うもんだからさ……それも極秘事項かい?」 「えーと……」 「いえ、極秘ではありません」女性士官が助け船を出した。「一部の艦船のオペレーティング・システムは、IBMのハードを使っています」 「なるほど」咽喉《のど》につかえていた疑問が氷解し、ペトルーソは明るく微笑《ほほえ》んだ。「いや、ハリーを嘘《うそ》つき呼ばわりして悪いことしたな。あいつ、本当のことを言ってたんだ!」 「彼にもこの件は……」 「ああ、そうだな。奴には気の毒だが、墜落した円盤を目撃したと思わせとく方がいいだろうな」ペトルーソはくすくすと思い出し笑いをした。「あいつ、FBIにはX—ファイル課が本当にあると思ってやがるんだ。ドゥカブニーとアンダースンがこの件で捜査《そうさ》にやって来るってな。ところがどうだい! 本当に来たのは『ネイビー・ファイル』だ!」  二人の士官はつられて苦笑した。 「では、この手帳はいただいて帰ってもよろしいですね?」 「いいとも。あんたらのだしな」  フェラーは手帳をブリーフケースにしまうと、そそくさと立ち上がり、握手《あくしゅ》を求めた。 「ご協力を感謝します」 「デビッド・ジェームズ・エリオットに会ったら、よろしく言っといてくれや。俺、あの番組のファンなんだ」  フェラーは微笑んだ。 「会ったらね」 「ふう……」  JAGの士官が去った後、ペトルーソは窓際《まどぎわ》のソファに寄りかかり、一人でグラスを傾《かたむ》けながら、ガラスの外の暗い夜空を見上げていた。 「 <天使《エンジェル》> ……か」  彼《かれ》はつぶやいた。それはあの手帳の中に何度も出てきた単語である。書き手の興奮が伝わってくる乱暴な殴《なぐ》り書きで、読み取るのにかなり苦労した。中には <何千もの天使> <天使による攻撃> と読める箇所《かしょ》もあった。  もちろん、本物の天使のはずがない。フェラーが言った通り、海軍の使うコードで、おそらく何か技術的な問題点を意味しているのだろう。 「ほんと、どういう意味だったのかねえ?」  それは彼にとって永遠の謎《なぞ》となった。 「……ああ、分かった。それじゃ」  携帯《けいたい》電話を切ると、「フェラー少佐《しょうさ》」と名乗った男は、ハンドルを握《にぎ》っている「リン・エリス大尉《たいい》」に言った。 「ノエルが取りに来る。ランデヴーは例の地点で。一五分後だ」 「ずいぶん急ぐんですね?」  海岸沿いの田舎道《いなかみち》にジープを走らせながら、「エリス大尉」が言った。片手でカーナビを操作し、あらかじめセッティングしていた座標への道順を表示する。 「ああ。彼らにとってはかなり大事なものらしいな。回収できて良かったよ」 「どうです? JAGってのはうまいアイデアだったでしょ?」 「まあ、そうだがね」  計画がうまくいったというのに、助手席の「フェラー少佐」は少し不機嫌《ふきげん》だった。彼は役人や軍人が大嫌《だいきら》いなのである。やらねはならなかったこととはいえ、軍服を着て軍人のふりをするのは気が滅入《めい》る。早く脱《ぬ》いでしまいたい。 「私としては、やはりテレビ局かFBIの方が良かったと思うんだが……」 「嫌《いや》ですよ、そんなダサいの!」眼鏡の娘は笑って一蹴《いっしゅう》した。「それにこの制服、作るの苦労したんですから。『ネイビー・ファイル』のビデオじっくり見て作ったんですけど、細かい刺繍《ししゅう》までバッチリ! 特にこの胸の鷺《わし》は自信作で……」  彼女のお喋《しゃべ》りに、男はうんざりとなっていた。「君は仕事に趣味《しゅみ》を持ちこみすぎるんじゃないかね、ジャム?」 「あら、ミスターW、あなたがそんなこと言います?」 「私は仕事そのものが趣味なんだ」  ミスターW—— <Xヒューマーズ> のリーダーは真面目《まじめ》な顔でそう言い放った。 「ところで、海軍は本当にIBMのハードを使ってるのかね?」 「さあ? 知りませんね、そこまでは」  そうこうするうち、カーナビの誘導《ゆうどう》に従って、ジープは本道をはずれ、人気《ひとけ》のない脇道《わきみち》に人っていった。樹々《きぎ》の合間をうねうねと続く石ころだらけの細い道で、しだいに傾斜《けいしゃ》し、小高い丘《おか》に登ってゆく。  丘を半分ほど登ったところで、道は急に狭《せま》くなり、車ではそれ以上進めなくなった。 「時間だな」ミスターWは時計を見て言った。「合図を」  ジャムはヘッドライトを点滅《てんめつ》させた。長く二回、続けて短く三回——それを何回か繰《く》り返す。  ジープは傾斜した道に停《と》まっているので、光は夜空に向かって放たれる。今夜はほぼ満月だが、月はまだ東の水平線から昇《のぼ》ってきたばかりで、星の光を妨《さまた》げるほどではない。雲はまばらで、北の空には北斗七星《ほくとしちせい》がはっきり見える。  ほどなく、夜空から返答があった。それまで牛飼い座のアークトゥルスの隣《となり》で星のように輝《かがや》いていた光点が、やはり長く二回、短く三回、繰り返し明滅したかと思うと、すっと降りてきたのだ。 「行こう」  ミスターWはジャムとともにジープから降り、フラッシュライトとブリーフケースを手に山道を登っていった。ほの白く光る物体は、しだいに大きさと明るさを増しながら、丘の頂上めざしてぐんぐん降下してくる。  二人が丘の頂上にある空き地に到着《とうちゃく》した時、それはちょうど着陸するところだった。 「うわあ、初めて見ました!」  ジャムは子供のようにはしゃぎ、歓声《かんせい》を上げた。  UFOである。  高さは五〜六メートル、直径はその二倍以上はあろうか。機体の上半分は缶詰《かんづめ》のような平たい円筒形《えんとうけい》で、ドーム形の屋根があり、側面には小さな丸窓が並んでいる。下半分はスカートのように広がっており、底部には大きな三個の球体が見えた。アダムスキー型と呼ばれるタイプだ。かすかにブーンという蜜蜂《みつばち》のようなうなりを発しているだけで、風も起こさず、重力を無視して空中に浮遊《ふゆう》している。屋根の頂部から突《つ》き出た水晶《すいしょう》のような球体と、屋根の緑《へり》をぐるりと取り巻くコイル状の部分から、まばゆい光を発していた。  円盤《えんばん》はゆっくりと高度を下げ、底部の三個の球体をクッションに使ってふわりと着地した。パワーが落ち、コイルが少し暗くなる。すぐに側面が開き、中から男が現われた。上品そうな顔立ちの金髪《きんぱつ》の白人青年で、明るい茶色のジャンプスーツを着ている。 「やあ、ノエル!」 「お久しぶりです、ミスターW」  ノエルと呼ばれた青年は、円盤の縁の傾斜したスカート部分をすたすたと降りてきた。二人は親しげに握手《あくしゅ》を交《か》わす。 「こちらは私の新しいアシスタントだ。コードネームはジャム」 「よろしくゥ!」  初めて目にするUFOと�宇宙人�に、ジャムは興奮を隠《かく》しきれず、黒い瞳《ひとみ》をきらきらさせて観察している。無理もない。外見は大人だが、彼女はまだ生まれてから数年にしかならず、精神|年齢《ねんれい》はまだ子供なのである。 「ね、ね、中見ていいですか!?」  ノエルは穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》む。「いいですよ。外で話もなんですから」 「やったあ! それじゃ遠慮《えんりょ》なく」  ジャムはいそいそとスロープを登り、円盤の中に入っていった。ミスターWとノエルも苦笑しながら後に続く。  円盤の中には円形の小部屋がひとつあるだけだった。どこにも光源が見当たらないのに、穏やかな光に満たされている。部屋の直径は六メートルほどで、円柱が中央にそそり立っている。床《ゆか》の中央には直径二メートルほどの透明《とうめい》なレンズがあり、柱はそれを貫《つらぬ》いて床下に伸《の》びていた。ノエルの他にもう一人、パイロットが操縦席《そうじゅうせき》に座《すわ》っている。他にもレンズをはさんで二つのベンチが備えつけてあり、五人ぐらいまで乗れるようだった。  ミスターWが勧《すす》められたベンチに座ると、柔《やわ》らかいゴム状のバーが自動的に降りてきて、腰《こし》を固定した。ノエルはその隣《となり》に座る。ミスターWはさっそくブリーフケースを開け、例の黒い手帳を取り出した。 「これかね?」 「そうです。ご無理を言って申し訳ありません」  ノエルは丁重《ていちょう》に礼を言うと、すぐに受け取った手帳をめくりはじめた。 「へえ、中はこんな風になってるんだ」  ジャムだけは椅子《いす》に座らず、物珍《ものめずら》しそうにコクピット内を見回していた。彼らが入ってきたドアはすでに閉じているが、不思議なことに壁《かべ》には継《つ》ぎ目ひとつ見当たらない。ドアがあったはずの場所の左右には、幅《はば》一メートルほどの地図のようなものが貼《は》ってあり、色とりどりの光点や幾何学《きかがく》図形がその上を動き回ったり、明滅したりしていた。何かのディスプレイのようだが、何を意味しているのかさっぱり分からない。  彼女は振《ふ》り返り、操縦席の方を見た。バカバカしいことに、操縦装置らしきものはオルガンそっくりで、鍵盤《けんばん》の代わりに旧式のレジスターのようなボタンや、安っぽい豆電球が何列も並んでいる。潜水艦《せんすいかん》の潜望鏡のような装置や、水道管みたいなレバーもあった。こんな単純な仕掛《しか》けで宇宙を航行できるとは信じがたい。  イメージとしては、五〇年代のSF映画に出てきた宇宙人の円盤の内部——まさにそんな感じのレトロな雰囲気《ふんいき》だ。  唯一《ゆいいつ》ジャムにも理解できるものがあった。後から備えつけられたらしい小型のテーブルと、その上に置かれたデスクトップ・パソコンである。 「あー、ソニーの最新機種ですね!?」  ジャムは嬉《うれ》しそうに駆《か》け寄った。パソコンは機体の揺《ゆ》れで落ちないよう、金具で固定されており、タワー部分が薄《うす》い鋼のメッシュで包まれている。 「CD—RWかあ。メモリは増設してます?」 「いや、予算がきびしいもんでね」パイロットがぼやいた。「消耗《しょうもう》が激《はげ》しいんですよ。前のやつがダメになったので、買い換《か》えたばかりなんですが、これもいつまで保《も》つことか」 「やっぱ、電磁効果?」 「ええ。このタイプのUFOの電磁効果は最小限なんですが、それでもしょっちゅうフリーズします。あと、急な機動をするとハードディスクがGでクラッシュしたり」 「大変ですねえ」ジャムはしみじみと言った。  彼《かれ》ら�宇宙人�は本物の地球外生命体ではない。ミスターWやジャムと同じく妖怪《ようかい》——人間の妄想《もうそう》が生み出した存在なのだ。  ひとくちに�宇宙人�といっても、何十という種族がいる。ノエルたち「スペース・ブラザー」は、一九五〇年代、ジョージ・アダムスキーの著書から生まれた。カルト教団の教祖であったアダムスキーは、信者|獲得《かくとく》のため、「砂漠《さばく》で金屋人に会った」「円盤に乗って月や金星に行った」という作り話を本に書き、出版したのである。その本には模型《もけい》のUFOを撮影《さつえい》したトリック写真も載《の》っていた。  アダムスキーの荒唐無稽《こうとうむけい》な体験談は、様々な言語に翻訳《ほんやく》されて何百万という人に読まれ、信じられた。彼は世界各国を精力的に回って講演を行なった。当時、オランダのユリアナ王女もアダムスキーを招いて会見したほどである。アダムスキーの成功に便乗して、同様の体験談を発表する者も続出した。 「宇宙人はすでに地球に来ている」——そう信じている人間は、今では全世界に何億人もいる。彼らの信念が結集して、実際に宇宙人やUFOを生み出したのだ。最初はスペース・ブラザーのような人間そっくりな宇宙人が多かったのだが、一九七八年に『未知との遭遇《そうぐう》』が公開され、胎児《たいじ》のように無毛で頭の大きい、いわゆる「グレイ・タイプ」のイメージを世界的に広めてからは、グレイの数が爆発的《ばくはつてき》に増えた。  現在、スペース・ブラザーとグレイは宇宙人妖怪の二大勢力である。スペース・ブラザーが温厚で、人間に対して常に好意的であるのに対し、グレイは人間に悪意を抱《いだ》き、頻繁《ひんぱん》に誘拐《ゆうかい》や人体実験を行なう。そのため両者は犬猿《けんえん》の仲で、地球の上空を回りながら、お互《たが》いの活動を監視《かんし》し合っている。  彼らの知能は平均的な人間よりは高いものの、決して人類を上回る高度な科学知識など有してはいない。そう信じられているというだけだ。UFOもやはり妖怪の一種であり、人間が馬を乗りこなすように、宇宙人妖怪は本能的にUFOを乗りこなす。当然、飛行原理など知るはずもない。  工業力を持たない彼らは、自力でパソコンなどの電子機器を製造することもできない。航法計算などに用いる機器は、人間から買うしかないのだ。その際、ネックになるのが電磁効果である。UFOが接近すると電灯がちらついたり、自動車の電気系統が故障したりする(と信じられている)。UFOの中で用いる電子機器も、当然、その影響《えいきょう》を受ける。鋼のメッシュは電磁波をさえぎってパソコンを保護するためのものだが、それでも完全には防げない。 「これでも昔に比べれば楽になった方ですよ」ノエルが説明を引き継いだ。「昔はパソコンやGPSなんてありませんでしたからね。六分儀《ろくぶんぎ》と計算尺を頼《たよ》りに飛行してたんです」 「うわあ、そりゃたまんないなあ!」  ジャムは頭を振った。電子の世界から生まれた彼女には、コンピュータのない暮らしなど想像もつかない。 「ハードディスクなどの磁気記録も失われやすいんです。それでこんな風に——」ノエルは手にした手帳を掲《かか》げた。「大事なことは紙に記録することにしています」 「なるほど」 「その手帳だが——」ミスターWが身を乗り出した。「そろそろ説明してくれてもいいんじゃないかね? いったい何が書いてあるんだ?」  彼も手帳には目を通したのだが、殴《なぐ》り書きだらけのうえ、略号や符丁《ふちょう》が多く使われていて、ざっと見ただけでは内容がよく分からなかったのだ。 「そうですね。お話ししてもいいでしょう」  ノエルはベンチから立ち上がり、パソコンに歩み寄った。マウスを操作して何かのプログラムを立ち上げる。 「ここ数年、あの海域で航空機事故が続発しているのはご存知ですね?」 「ああ」  一九九六年七月一七日、ニューヨークのケネディ国際空港を飛び立ったTWAのボーイング747型機がロングアイランド島|沖《おき》で墜落《ついらく》、二三〇人が死亡する惨事《さんじ》があった。その後も、九八年九月にはスイス航空機が、九九年一〇月にはエジプト航空機が同じ海域で墜落しているし、九九年七月にはジョン・F・ケネディ・ジュニアの乗ったハイパー・サラトガ単発機が、やはりナンタケット島の近くで墜落している。そのいずれも、遭難信号《メイデー》を発信する暇《ひま》もない突然《とつぜん》の出来事で、原因はまったく不明のままだ。  特に奇妙《きみょう》なのはエジプト航空機の事故である。回収されたボイスレコーダーには、混乱したアラビア語の会話に混じって、副操縦士が口走った「神」や「死」を意味する不可解な言葉が録音されていたのである。 「私たちは事件に興味を持ちました。それで昨年暮、一機の偵察機《スカウト》をあの海域に派遣《はけん》して調べさせたのです。海面には何の異状も見られませんでした。しかし——」  ノエルはマウスを操作し、画像データを呼び出した。ニューヨークからナンタケット島にいたる海域の地図が表示される。 「スカウトは北緯四一度三〇分の線に沿って、この海域を西から東へ、高度二万フィート(約六一〇〇メートル)をマッハ〇・五で二〇〇マイル(約三二〇キロ)飛行しました。そうしたら、奇妙なことが分かったのです」  地図上に飛行ルートが示される。 「慣性航法装置によればスカウトは直進したはずですが、GPSによる測定では、コースが北に〇・八度ずれていたのです」  地図の東の端《はし》が拡大される。ミスターWは液晶《えきしょう》モニターに顔を近づけた。飛行予定ルートは青、実際のルートは赤で示されている。二本の線は途中《とちゅう》までは重なり合っているが、しだいに赤い線のほうが上にずれ、最終的に約一マイルの誤差が生じている。 「さらに奇妙なのは飛行|距離《きょり》です。GPSのデータを元に飛行距離を算出してみると、二〇〇・〇一〇マイルでした。しかし、慣性航法装置のデータによれば、二〇〇・二〇八マイルだったのです」 「計器の故障の可能性は……」 「ありません。コースを変え、何度も同じ海域を飛行しましたが、同様の結果が出ています。風速、重力異常、機体の揺れなどの要因も考慮《こうりょ》に入れ、チェックしましたが、五分の一マイルもの誤差は説明がつかないのです」 「ふうむ……」  ミスターWは地図を見つめてうなった。カーナビにも応用されているGPSは、人工衛星からの信号を元に現在位置を算出するシステムで、本来は軍事用に開発されたものであり、その精度はきわめて高い。一方、最新の航空機用の慣性航法装置はレーザー・ジャイロを組みこんでおり、どんな微小《びしょう》な加速度や回転運動も検知して、機体の速度や方向を算出する。どちらも〇・二マイルもの誤差を生じるはずがないのだ。  地図の上では二〇〇マイルだが、実際の飛行距離は二〇〇・二マイル——この海域を飛行する航空機は、約三二〇メートルの存在しない空間を飛んでいることになる。 「空間の歪《ゆが》みか……」彼《かれ》は興味深そうにつぶやいた。「妖精境《ようせいきょう》の周囲によく見られる現象だ。しかし、これほど大規模なものは例がない……」  妖精境——日本では「隠《かく》れ里」と呼ばれる。現実の空間と隣接《りんせつ》して存在する異世界の総称《そうしょう》で、目に見えないゲートによってこちらの世界とつながっている。ゲートの周囲では空間が歪んでいることがあるが、普通《ふつう》はせいぜい数メートルの単位だ。数百メートルもの歪みを生じさせるとすると、ゲート自体の直径は何キロもあることになる。当然、その向こうにある隠れ里のサイズは、さらに大きいに違《ちが》いない。  ゲートは誰《だれ》でも通り抜《ぬ》けられるわけではない。たいていの場合、普段は閉ざされており、特定の条件に合致《がっち》しないと開かない。 <うさぎの穴> に行くためのエレベーターのボタンが人目に触《ふ》れなかったのと同様、直径何キロもある巨大《きょだい》なゲートが空に存在しているにもかかわらず、飛行機が何も気づかずに通り過ぎることもあり得るのだ。 「でも、どうして誰も計器の異状に気がつかないの?」ジャムが疑問を呈した。「毎日、何十機っていう飛行機がここを飛んでるはずなのに……」 「最近の航空機はほとんどすべて、慣性航法装置をGPSで自動的に補正するようになっているのです」とノエル。「誤差が生じても修正されてしまうので、気づかれないのでしょう。私たちはそれを別々に測定したので気がついたわけです」 「でも、昔の飛行機なら……」 「そう、〇・八度もコースにずれがあれば、誰か気がついたはずです。つまり、この現象はここ数年以内に表面化したものと見ていいでしょう」 「これ以前、この海域で、原因不明の事故のデータは?」とミスターW。 「あまり多くありません。一九六二年の給油機KB50の遭難《そうなん》。一九六三年の原潜《げんせん》スレッシャー号の沈没《ちんぼつ》……」  地図にはそれらの事故の地点も表示されたが、問題の海域からはかなり離《はな》れており、関連性はなさそうだ。 「つまりこういうことだな。この海域に妖精境のゲートが存在する。しかも、それはきわめて大きなもので、近年になって急に活動を活発化した……」 「じゃあ、飛行機の墜落はそのせい?」とジャム。 「おそらくな。たまたまゲートが開いた瞬間《しゅんかん》に通りかかって、空間の歪みに巻きこまれたか。あるいは、見てはならないものを見てしまって、口封《くちふう》じのために撃墜《げきつい》された……」  ノエルはうなずいた。「私たちもそう考えました。そして、ゲートの正確な位置と大きさを確認するため、その後、何度もスカウトを派遣しました……」 「それが消息を絶った?」 「はい。三月一三日のことです。ただちに徹底《てってい》的な捜索《そうさく》を行なったのですが、あいにくの悪天候のために難航しました。ようやく二日後になって、残骸《ざんがい》がこの島の南端《なんたん》に打ち上げられているのを発見し、回収したわけです」 「乗員の姿は?」  ノエルは悲しそうにかぶりを振《ふ》った。「ありません」  意外なことではない。彼ら妖怪はこの世界の物理法則に反した存在であり、その姿が保たれているのは生命力によって支えられている間だけなのだ。死ぬと同時に、妖怪の肉体は分解をはじめる。早いものなら瞬時に、遅《おそ》くても数時間で完全に消えてしまうのだ。  もっとも、器物系の妖怪の中には、死んでも残骸の残るものがある。空飛ぶ円盤《えんばん》もそのひとつだ。一九四〇年代末から五〇年代にかけて、生まれたはかりでまだ飛ぶのに不慣れだった円盤が墜落するという事件が、アメリカをはじめ世界各地で起きている。米軍によって極秘裏《ごくひり》に回収された残骸は、ライトパターソン基地の地下|施設《しせつ》で保管され、この半世紀、科学者や技術者によって徹底的な分析《ぶんせき》を受けているという。しかし、その努力にもかかわらず、円盤の飛行原理は謎《なぞ》のままである——まあ、当然だが。 「スカウトの外壁《がいへき》には攻撃《こうげき》を受けた痕跡《こんせき》がありましたが、しばらくは飛行できたようです。おそらく乗員の死因は海面に叩《たた》きつけられた際の衝撃《しょうげき》と思われます。強い電磁場にさらされたらしく、搭載《とうさい》されていた機器のデータはすべて壊《こわ》れ、テープレコーダーにも何も録音されていませんでした。だから何者がスカウトを攻撃したのか、まったく謎だったのです」 「しかし、たまたまその手帳が漁師に拾われていたのを、最近になって耳にしたわけだな?」 「ええ。それであなたにお願いした次第《しだい》です。こういう活動は <Xヒューマーズ> の方が向いていると思いましたので」 「光栄だね」ミスターWはうなずいた。「で? 敵の手がかりは書いてあったのかね?」 「ええ」ノエルは手帳をめくりながら言った。「彼らはゲートを通り抜けて向こうの世界に行ったようです」 「ほう?」 「間違いありません。彼らはそこでとんでもない構造物を目にしたのです。そして、測距儀《そくきょぎ》と三角法を使ってその大きさを測定し、メモしました。その後、敵に発見されて攻撃を受け、再びゲートを通り抜けて逃亡《とうぼう》したものの、力|尽《つ》きて墜落したのでしょう——これです」  ノエルは最後のページに記された <1380M> という数字を示した。 「この <M> はマイルの略です」  さしもの冷静なミスターWも顔色を失った。 「それはつまり……」 「メートル法だと二二二〇キロ。古代の単位に換算《かんさん》すると、一万二〇〇〇スタディオン」  ミスターWは勢いよく立ち上がった。 「この発見はすぐに全世界のネットワークに流す必要がある!」 「同感です」 「ねえ、どういうこと?」ジャムはまだ事情が呑《の》みこめない。「その数字っていったい何なんですか?」 「神の国だ」ミスターWは緊迫《きんぱく》した表情で言った。「神の国はここに——北米大陸の東海岸に降りてくる!」  オレゴン州・ポートランド——  二〇〇〇年七月六日・午後三時三〇分(西部標準時)——  はるか下の歩道に数百人の野次馬が蟻《あり》のように群がっているのが見えた。何事かと車を止めて見上げる者もいるらしく、ちょっとした交通|渋滞《じゅうたい》が生じている。この高さからだと、人の頭は色とりどりのピンのよう、車はミニカーのようだ。誰《だれ》かが通報したのか、ライトを点滅《てんめつ》させてパトカーが到着《とうちゃく》し、降りてきた警官が野次馬の整理をはじめている。 (そう言えば、子供の頃《ころ》、親父《おやじ》がパトカーのおもちゃを買ってくれたっけな)  地上一八階の張り出しの上で、壁《かべ》に背中を押《お》しつけて立ち、高層ビルの間を吹《ふ》き抜ける風に髪《かみ》をあおられながら、アル・ジェンセンは遠い昔のことを思い出していた。  愛犬が死んでしょげかえっていた幼い息子《むすこ》を見かねて、父はパトカーを買ってきてくれたのだ。スイッチを押すとサイレンが鳴り、ライトが点滅するすごいやつで、さぞ高かったに違いない。だが、彼《かれ》はそれを壁に投げつけ、壊してしまった。こんなのいらない、と泣きながらわめき散らした。本当は欲《ほ》しかったのにそう言った。彼はスニッピーが大好きだった。おもちゃなんかであっさり機嫌《きげん》を直してしまったら、スニッピーに注いだ愛情が嘘《うそ》になってしまうと思ったのだ。父は何も言わず、飛び散ったおもちゃの部品を拾い集め、捨てに行った。叱《しか》られなかったことで、彼はかえって罪悪感にかられた。父の好意を踏《ふ》みにじってしまったことに気づき、長いこと小さな胸を痛めたものだ……。 「はは……おかしいな」ジェンセンは涙《なみだ》をぬぐい、声に出して笑った。「どうしてこんな昔のことを思い出すんだろうな……」  人は死ぬ前、人生を走馬灯のように回顧《かいこ》するという。もしかしたら、これがそうなのかもしれない。だとすれば、さっさと飛び降りてしまうべきだろう。これ以上、余計なことを思い出してしまう前に。  彼が壁から背中を離《はな》し、虚空《こくう》に向かって一歩を踏み出そうとしたその時—— 「待って、ジェンセンさん!」  彼は振り返った。開いたままの窓から、若い婦人警官が顔を出していた。明るい金髪《きんぱつ》に午後の太陽が反射し、伝説に出てくる黄金の羊毛のようにきらめいている。 「死んではだめ!」 「止めないでくれ!」ジェンセンは怒鳴《どな》った。「俺《おれ》はもう、こうするしかないんだ!」 「あなたがつらいのは分かります。でも——」 「分かるだって? いいかげんなこと言わないでくれ!」  興奮してそう叫《さけ》んだとたん、思い出したくなかった悲しい記憶《きおく》がどっと押し寄せてきて、彼の咽喉《のど》を詰《つ》まらせた。 「あ、あんたに何が分かるってんだ!? 俺には……俺にはもう何も残ってないんだ! 職も、女房《にょうぼう》も、娘《むすめ》も……みんな俺の……俺のせいで!」  厳密に言えば、職場を解雇《かいこ》されたのは彼のせいではない。会社の経常|不振《ふしん》でリストラされたのだ。しかし、自暴|自棄《じき》になって酒に溺《おぼ》れたのは彼の責任だ。あげくに妻に暴力をふるい、娘も殴《なぐ》ってしまった。  妻が裁判所に離婚《りこん》を申し立てた時、ジェンセンは狼狽《ろうばい》した。自分がどんなに妻や子供を愛していたか、彼女《かのじょ》らが自分の人生にどれほど大きなウエートを占《し》めていたか、ようやく気がついたのだ。だが、遅すぎた。泣いて懇願《こんがん》しても、妻は許してくれず、八歳の娘も冷ややかな視線で父を見つめるばかりだった。  判決が出る直前、彼は混乱のあまり愚《おろ》かな行動に出た。娘を誘拐《ゆうかい》して逃《に》げようとしたのだ。寸前になって彼自身の小心が原因で未遂《みすい》に終わり、情状|酌量《しゃくりょう》の余地ありと認められて実刑はまぬがれたものの、この一件は裁判官に決定的な心証を与《あた》えてしまった。離婚が認められたばかりか、養育権も、娘に会う権利さえも剥奪《はくだつ》されたのである。  ジェンセンは絶望した。職を失ったのは我慢《がまん》できる。金がないのにも耐《た》えられる。だが、妻と娘がいない生活には耐えられない。空っぽの部屋にうずくまっていると、人生からすべての輝《かがや》きが失われてしまったかのようだ。しかし、いくら後悔《こうかい》しても遅《おそ》い。もはや二人は永遠に戻《もど》ってこない……。 「俺が馬鹿《ばか》だったんだ。俺のせいで……」  ジェンセンはぼろぼろと涙を流した。風に吹き散らされたしずくは、はるか下の地上へはらはらと落ちてゆく。 「どうしてあんなことしちまったんだろう? どうして殴っちまったんだろう? 愛していたのに……女房も子供も……嘘じゃない……愛していたのに……」 「だから死ぬんですか?」婦人警官は静かな声で言った。「自ら生命を絶つ人を、天国は迎《むか》え入れてはくれませんよ」 「それがどうした!? どうせ死後の世界なんてありゃしないんだ! みんな作り事さ。人間は死ねばそれっきりなんだ。真っ暗さ! 何も考えられなくなり、何も感じなくなる……それが俺の望みなんだ! この苦しみを終わらせたいんだ!」 「……スニッピーの時もそうでしたね?」  ジェンセンはぎょっとして、一瞬《いっしゅん》、自分の境遇《きょうぐう》を忘れた。振《ふ》り返り、呆然《ぼうぜん》とした顔で婦人警官を見つめる。 「スニッピーを失った時も、あなたは悲しみ、生きてゆくのがつらくなった——そうではありませんか?」 「どうして……あんたがそんなことを……?」 「ねえ、思い出してごらんなさい、ジェンセンさん」彼女は夏の空のように澄《す》んだ瞳《ひとみ》で見つめ返した。「あの時もあなたはこう思ったはずです。『もう生きていたくなんかない。僕《ぼく》はもう一生、笑うことなんかないだろう』……実際、スニッピーを失ったばかりのあなたは、沈《しず》みこみ、くすりとも笑いませんでした。でも、一週間が過ぎ、二週間が過ぎる頃には、だんだん気持ちが軽くなってきた。四週間が過ぎた頃には、またカートゥーンを見て笑えるようになったじゃありませんか」 「それはそうだが……」 「ねえ、ジェンセンさん。心の傷というのは肉体の傷と同じようなものです。最初は痛くてたまらなくても、時が経《た》ては自然に癒えてゆくんです。古い傷がいつまでもずきずきと痛むことはあるでしょう。でも、今のその苦痛は、そんなに長くは続かないものです」 「しかし……」 「もちろん、今のあなたの苦しみが深いのは分かります。犬を失った時よりもずっと苦しいでしょう。傷が癒えるのにも、ずっと長い時間がかかるでしょう。でも、それはいつかは癒えるんです。きっとまた笑えるようになるんです」 「本当か……?」彼はまだ信じられなかった。「この苦しみが消えるのか? 本当にまた笑えるようになるのか?」 「なりますとも」女は力強くうなずいた。「もちろん、それまでは苦しいですよ。スニッピーの時の五倍、もしかしたら一〇倍もかかるかもしれません。四週間の一〇倍の四〇週間——二八〇日。それだけ耐えてみませんか?」 「……長いな」 「新しい生命が受胎《じゅたい》してから、生まれてくるまでの時間です。あなたが新しく生まれ変わるのだから、それぐらいはかかって当然でしょう。でも、今から二八〇日後には、あなたはまた笑えるようになっています。生きていて良かったと思うようになっています」 「……そんなに耐えられそうにない」彼は弱音を吐《は》いた。「俺は……俺は駄目《だめ》な男だから、また飛び降りたくなっちまうかも……」 「私が助けてあげます」 「本当か? 本当に助けてくれるのか……?」 「ええ。いつも見守っていてあげますよ」  その時、ドンドンという乱暴な音がした。誰《だれ》かがドアを叩《たた》いているのだ。女はちょっと慌《あわ》てたような顔をした。 「さあ、ジェンセンさん、中に入って」  そう言うと、彼女は首をひっこめた。数秒だけ迷ってから、ジェンセンは返事をした。 「……分かった」  彼は壁《かべ》に沿ってそろそろと横に歩き、窓に達した。開いた窓から室内に滑《すべ》りこむ。  ほとんど同時に、ドアが蹴破《けやぶ》られ、二人の男性警官が乱入してきた。ジェンセンは彼らを見て、警官たちは立ちつくしているジェンセンを見て、お互《たが》いにぽかんと口を開ける。 「……あの女の人は?」 「何?」 「婦人警官ですよ。さっきまでここにいた……」  二人の警官は顔を見合わせた。 「婦人警官なんか来ていない。通報を受けて来たのは我々だけだ」 「そんな……」  ジェンセンはようやく異常な状況《じょうきょう》に気がついた。この部屋には内側から鍵《かぎ》がかかっていた。  誰かが出入りすることはありえない。おまけに彼女は初対面のはずなのに、彼《かれ》の子供の頃《ころ》のことまでよく知っていた……。 「まさか……」  呆然と室内を見回した彼は、床《ゆか》に落ちていた白いものに目を止めた。信じられない思いでそれをつまみ上げ、しげしげと見つめる。  純白の羽根だった。  彼女の言葉が脳裏《のうり》によみがえった——「いつも見守っていてあげますよ」 「ああ……!」  ジェンセンの声は感動のあまりかすれていた。大人になってからの彼は、神や天国の存在を信じたことはない。そんなのはおとぎ話にすぎないと思っていた。しかし、その身で奇跡《きせき》を体験しては信じないわけにはいかない。 「天使様……!」  羽根を強く握《にぎ》り締《し》め、ジェンセンは熱い感動に包まれた。 「彼、耐《た》えられると思うかい、ジル?」  向かいのビルの屋上。若い男女が腰《こし》を下ろし、警官に懸命《けんめい》に事情を説明しているジェンセンを眺《なが》めていた。さすがに声は聞こえないが、彼が思いがけない体験で興奮しているのと、警官たちが困惑《こんわく》している様子はよく分かる。 「思うわ——と言うより、耐えてほしいわね」  そう答えたのは、ついさっきまで警官の制服を着ていた女である。今は白く長い衣《ころも》をまとい、背中から純白の翼《つばさ》を生やしている。男も同じ姿だった。  無論、二人の姿は地上の人間たちには見えはしない。 「彼のことは子供の頃から見守っていた。彼は覚えていないだろうけど、犬をなくしてしょげていたのを慰《なぐさ》めてあげたことがあるのよ」 「君の管轄《かんかつ》というわけか?」 「ええ。結婚《けっこん》して幸せな家庭を築いていたから、すっかり安心していた。でも、何年か目を離《はな》している間に、こんなことになってしまって……」ジルは爪《つめ》を噛《か》んで悔《くや》しがった。「私がちゃんと見守っていれば……」 「自分を責めてもしかたがない。僕たちはすべての人間に目が届くわけじゃない。できることも限られている」 「それは分かってるわ。でも……」  反論しようとして、ジルはやめた。そう、すべての人間を幸せにするなど無理なのだ。この地上に人間はあまりにも多く、不幸の種はどこにでもある。ジェンセンのように、ほんのちょっとしたつまずきで不幸になってしまう者も多い。結局、自分の目に入る範囲《はんい》で最善を尽《つ》くすしかないのだ。  一人でも多くの人を幸せにする——それが彼ら天使の務めなのだ。 「さ、行こうか」 「……ええ」  二人の天使は翼を広げ、大都会の空に飛び立った。 [#改ページ]    8 ニューヨーク・バケーション  アッパー・ニューヨーク湾《わん》——  二〇〇〇年八月二一日・午後二時二〇分  マンハッタン島をはさんで流れてきたイースト河とハドソン河が合流し、外洋へと流れ出している小さな内海である。東側をブルックリン、西側をニュージャージーとスタテン島に囲まれ、自由の女神《めがみ》のあるリバティ島や、移民博物館のあるエリス島が浮《う》かんセいる。マンハッタン島の南端《なんたん》にあるバッテリー・パークからは、二つの島をめぐるフェリーが出ている。ニューヨークの絶景を海から満喫《まんきつ》できるとあって、この季節には観光客で賑《にぎ》わう。  今日は快晴。湾の上には穏《おだ》やかな風が吹《ふ》いており、ニューヨークの酷暑《こくしょ》に音を上げていた観光客たちをほっとさせていた。リバティ島が近づき、自由の女神が大きく見えてくるにつれ、ベストな写真を撮《と》ろうと、乗客は前に移勤しはじめた。 「……平和だな」  フェリーの前の方で若い日本人女性グループが交替《こうたい》で写真を撮り合ってはしゃいでいる光景を、後部デッキのベンチに座《すわ》って眺《なが》めながら、ミスターWはひとり言のようにつぶやいた。人類の大多数はまだ世界の危機に気づいていない。ここにいる観光客たちにしても、まもなくこのニューヨークの近くで史上最大の激戦が繰《く》り広げられることになるとは、夢にも思っていないだろう。 「できれば、彼《かれ》らにはずっと気づかないままでいてほしいものだ。戦いの結果がどうなるにせよ、何も知らないまま終わる方が、彼らにとって幸せというもんだろう——なあ、そうは思わないかね、ストラトイーグル?」  彼のすぐ後ろで、手すりに寄りかかり、他人のふりをしてニュージャージーの街並みを眺めていた男は、仏頂面《ぶっちょうづら》で「まあな」と答えただけだった。外見の年齢《ねんれい》は三〇代前半といったところか。スポーツ選手のようなたくましい体格で、長く伸《の》ばした黒髪《くろかみ》をポニーテールにしている。サングラスをかけているので分かりづらいが、風貌《ふうぼう》からするとネイティブ・アメリカンの血が混じっているようだ。 「平和とはいいもんだ」ミスターWはかすかに潮の香《かお》りのする風を吸いこみ、心地よさそうに言った。「そうだろう? 何年もいがみ合っていた私と君が、こうしてのんびりと同じフェリーに乗る日が来るなんて、想像もしなかったじゃないか」 「誤解するな、W」ストラトイーグルは不機嫌《ふきげん》そうだった。「俺《おれ》はのんびりしているわけじゃない。今も貴重な時間を割《さ》いて抜《ぬ》け出してきたんだ。あんたらと和解した覚えもない。これは一時的な休戦だ」 「休戦でも、平和は平和だ——このまま仲良くできないものかね?」 「それはこっちの台詞《せりふ》だ。あんたこそなぜ国家に忠誠を誓《ちか》わない? なぜアメリカのために働こうとしない?」 「正義と真実とアメリカン・ウェイを守るため、か」自由の女神を眺め、ミスターWは皮肉っぼくつぶやく。「しかし、君が忠誠を誓った国家は、これまで数々の愚行《ぐこう》を繰り返してきたんじゃないのかね? <フェニックス計画> にしたって——」 「誰《だれ》でも間違《まちが》いは犯《おか》す」ストラトイーグルはさえぎった。「 <フェニックス計画> は確かに誤りだった。だからこそ一七年前に封印《ふういん》されたんだ。この国にはたくさんの間違いがはびこっている。その間違いを正すために、俺たち <ベクター・アルファ> は存在する……」 「正すためじゃなく、隠《かく》すためだろう?——いや、失敬。言いすぎた」 「情報の隠蔽《いんぺい》も任務のひとつだ——社会の秩序《ちつじょ》を保つために必要なことだ」  ストラトイーグルは確信のこもった口調で言った。 <ベクター・アルファ> ——それはCIA直属の妖怪《ようかい》だけからなる少数|精鋭《せいえい》の特殊《とくしゅ》部隊である。アメリカ国内で起きる超常《ちょうじょう》現象事件の捜査《そうさ》をはじめ、対テロ活動、国外での諜報《ちょうほう》活動を任務としている。もちろん、公式にはその存在は明らかにされていない。  彼らはかつて、 <Xヒューマーズ> のメンバーにヘッドハンティングをかけてきたことがある。国防のために貢献《こうけん》してくれるなら、国家が妖怪を保護し、生活を保障するというのだ。だが、ミスターWは思想上の理由からその申し出を拒絶《きょぜつ》した。以来、両者は険悪な関係にあり、事件をめぐってしばしば対立もしている。  ストラトイーグルはさりげなく周囲を見回し、乗客の視線が自由の女神や周囲の風景に向けられているのを確認すると、上着の内ポケットに手をやった。ミスターWの横を通り過ぎるふりをして、煙草《たばこ》の箱をベンチの横に落とす。ミスターWはすかさずそれを拾い上げた。 「ここで中を見るな」ストラトイーグルは小声で注意した。「空軍の極秘《ごくひ》ファイルにアクセスする手順が入っている。URLに偽《にせ》IDにパスワード、ファイヤーウォールの回避《かいひ》法、検索《けんさく》用のコード……その通りにすれば、 <フェニックス計画> に関するクリアランスAのファイルをダウンロードできる」 「すまない」 「絶対に足跡《そくせき》は残すなよ。他のファイルにも手をつけるな。それから、アクセスは今日の真夜中までにしろ。午前〇時ジャストに管理パスワードが変更《へんこう》される」 「注意するよ」ミスターWは煙草の箱をポケットにしまいこんだ。「これでスタテン島事件での借りは返してもらったことになるな」 「貸し借りの問題じゃない。国防上、必要な行為《こうい》と判断したまでだ」ストラトイーグルはきっぱりと言った。「今、 <ベクター・アルファ> は大忙《おおいそが》しだ。メンバーはアメリカ全土に散らばっていて、別件の調査に割いている人的|余裕《よゆう》がない。だからこの件はあんたらに一任する。この非常時に、いちいち上層部の判断を仰《あお》いではいられないからな」 「忙しいというと……やっぱり不穏《ふおん》分子の洗い出しかね?」 「ああ。�汚染《おせん》�は予想以上に広がっている」  ストラトイーグルは苦々しげに言った。二か月半前、東京での <稀文堂《きぶんどう》> の一件がきっかけで、一部の人間が天使に操《あやつ》られている可能性が急浮上《きゅうふじょう》した。事態を重く見たCIAは、軍関係者、特に大量|殺戮《さつりく》兵器の管理に関《かか》わる人物を中心に、思想的背景の徹底《てってい》的な洗い直しを開始したのだ。 <ベクター・アルファ> のメンバーの中には、人の心が読める者や、姿を消して監視《かんし》できる者もおり、この大仕事に狩《か》り出されていた。 「これまでのところ、陸軍に一六人、海軍に七人、SAC(戦略空軍司令部)に一三人、SMW(戦略ミサイル航空団)に四人、国防総省に一人……」  ミスターWはショックを受けた。「そんなに?」 「ああ。これでもまだ氷山の一角だろう。冷や汗《あせ》もんだったのは、フォート・デトリックの陸軍生物化学研究室の研究者だ。保存されていたエボラ・ウイルスを外部に持ち出そうと計画していた。大都市でばらまけという『神のお告げ』があったそうだ。もちろん、ただちに拘束《こうそく》したが……」  湾を渡《わた》る風が急に寒くなったように、ミスターWには感じられた。一九九五年にザイールで猛威《もうい》を振《ふ》るったエボラ出血熱は、死亡率が九〇パーセント近いという恐《おそ》ろしい病気で、まだ治療法《ちりょうほう》が存在しない。 「……核《かく》はだいじょうぶなのか?」 「ヴァンデンバーグのICBM基地で�汚染�されていた士官が発見されたが、幸い、核のキーを持つ立場にはなかった。だが、他の基地はどうだか……」  ミスターWはうなった。「現有の核はすべて凍結《とうけつ》した方がいいな。なるべく早く。連中に利用されないように……」 「もちろんだ。だが、それには大統領の承認が必要だ」 「大統領はまだ……?」 「木曜にペンタゴンで緊急《きんきゅう》会議が開かれる。そこで大統領に事情を説明するとともに、対応策が協議される」 「今さらそんなのんきなことをやってるのか?」ミスターWはあきれた。「今年はあと一三〇日しかないんだぞ!?」 「分かっている」ストラトイーグルは悔《くや》しそうに唇《くちびる》を歪《ゆが》める。「政治屋のやることはいつでも遅《おそ》すぎるし、的はずれだ。だから俺たちは、自分ができる範囲《はんい》でベストを尽《つ》くすしかない——あんたらも自分の守備範囲でがんばってくれ」  フェリーはリバティ島に到着《とうちゃく》した。用の済んだストラトイーグルは、観光客に混じって降りようと、昇降口《しょうこうぐち》に向かおうとする。それをミスターWが呼び止めた。 「すまん。もうひとつだけ、無理を言ってもいいか?」 「何だ?」 「海軍の古い記録を調べてほしい。キャメロン・ハワードという人物の思想的背景について知りたい」 「何者だ?」 「海軍の技術者だ。一九四三年、フィラデルフィアで失踪《しっそう》した」 「それはつまり……?」 「そう、 <エルドリッジ> に乗っていたんだ——あの実験の時にね」  イースト・ビレッジ——  二〇〇〇年八月二二日・午前一〇時四〇分(東部標準時)——  グリニッジ・ビレッジの東側、東一四丁目とイースト・ハウストン・ストリートにはさまれたこの区画は、複雑な歴史を持つ街だ。一九世紀前半までは大富豪《だいふごう》の瀟洒《しょうしゃ》な邸宅《ていたく》が並んでいたのだが、一八四〇年|頃《ごろ》から貧しい移民が大量にニューヨークに流入してきて、環境《かんきょう》は急速に悪化した。上流階級はアップタウンに移り住み、イースト・ビレッジは陽《ひ》の当たらない貧民街《ひんみんがい》に転落していった。二〇世紀後半に入ると、ビート族やヒッピーの根城にもなった。芸術の街として世界的に有名だったグリニッジ・ビレッジの華《はな》やかさに比べると、印象はひどく悪く、当然のことながら犯罪も多発した。日本のガイドブックなどでは、少し前まで、同じマンハッタンのハーレムと並んで「決して近づいてはいけない場所」と書かれていたほどだ。  七〇年代あたりからグリニッジ・ビレッジの地価が高騰《こうとう》しはじめると、若い芸術家たちは家賃の安さに目をつけ、隣接《りんせつ》するソーホーやトライベッカ、そしてこのイースト・ビレッジにこぞって移ってきた。パンク発祥《はっしょうち》の地もイースト・ビレッジである。ソーホーやトライベッカも近年は家賃の値上がりが激しく、芸術家の多くはすでに逃《に》げ出している。そのため、今やイースト・ビレッジがニューヨークの芸術の中心になりつつあるのだ。大通りにはおしゃれなブティックやレストランも増え、観光客も訪《おとず》れるようになった。  もっとも、街がすっかり生まれ変わったわけではない。特に一番街よりも東、アベニューAからDまでのいわゆる「アルファベット・シティ」は、今でも貧しい人々がひしめき合って暮らす地区で、治安も悪い。近年は都市の再開発、警察の取り締《し》まり強化によって、かなり雰囲気《ふんいき》が変わり、犯罪も減ってきているものの、依然《いぜん》として観光客が遊び半分に足を踏《ふ》み入れるべき場所ではない。  そんな街の片隅《かたすみ》、トンプキンス・スクエア・パークに近い東九丁目に、煉瓦壁《れんがべい》の倉庫と安アパートにはさまれて、古い小さな教会が建っている。ゴスペルで観光客を集めるような教会ではなく、出入りするのは地元の人たちだけだ。小さな前庭には楡《にれ》の木が立っており、白い木の柵《さく》に囲まれた花壇《かだん》は手入れが行き届いている。周囲の街並みとはあまりにも異質で、まるでその一画だけ別の空間がはめこまれているかのようだ。どこかから響《ひび》いてくる騒々《そうぞう》しいストリートミュージックや、屋根の向こうに見える摩天楼《まてんろう》がなければ、ニューイングランドあたりの片田舎《かたいなか》と思ってしまいそうな風情《ふぜい》である。 「ねえ、牧師様。こんな感じでどう?」  正面入口の横、壁《かべ》に立てかけられた梯子《はしご》の上から、アリッサ・メイベルは声をかけた。レナード・バレンタイン牧師は、庭を掃除《そうじ》していた手を止め、デニムのオーバーオールを着た少女と、アーチに吊《つ》るされた白い看板を見上げた。ポップな字体で <チャリティ・バザー 今週土曜午後> と書かれている。 「おお、いいねえ」  老いた黒人牧師は小さな眼鏡の奥《おく》で目を細め、深い皺《しわ》の刻まれた顔をさらにくしゃくしゃにして、嬉《うれ》しそうにうなずいた。 「立派なもんだ。芸術家の才能はお母さん譲《ゆず》りかな?」 「おだてたってギャラは安くなんないぜ」 「ボランティアだろう?」 「だからさ。ゼロより安くするなんてできねえだろ?」  そう言うなり、アリッサは軍手をはめた手で梯子の左右を握《にぎ》り、さっと滑《すべ》り降りてきた。牧師の横に立ち、自分が書いた看板をあらためて見上げる。 「うーん。オレとしちゃあ、もうちっとパンチの利《き》いたコピーが必要じゃないかと思うんだけどさ。 <野郎《やろう》ども、来やがれ!> とか」  牧師は声を上げて笑った。「ユニークではあるが、ちょっと型破りすぎるな」 「いいじゃん。どうせ牧師様、『型破りだ』ってひんしゅく買ってんだろ?」 「それはそうだが、やはり古い形式というものも大事にしなくてはな」 「古い形式ねえ……」  アリッサは教会全体を見渡した。禁酒法時代に建てられたという古い建物だ。かつては白かったであろう外壁《がいへき》は、排気《はいき》ガスで汚《よご》れた都会の雨に七〇年以上も打たれ続け、灰色と茶色のまだらに染まっている。屋根も傷《いた》みがひどく、雨の激しい日には雨漏《あまも》りもする。 「もう二〇〇回ぐらい言ったと思うけどさ」とアリッサ。「いいかげん改築しないの、これ?」 「もう二〇〇回ぐらい答えたと思うが」と牧師。「そんな金があるなら貧しい人に回すよ」 「オルガン弾《はじ》いたら壁がびりびり震《ふる》えるじゃん。そのうち、ミサの最中に屋根が落ちるぜ」 「壁が震えるのは君の生まれる前からずっとだよ。まあ、七〇年も保《も》ったんだし、あと二〇年やそこらはだいじょうぶだろう。私が生きている間はね」 「その後は?」 「二〇年|経《た》てば、この街は今よりずっと豊かになっているよ。建て直す費用を寄付してくれる人も現われるさ」 「誰《だれ》?」 「そう、たとえば君がビジネスで成功して、ビル・ゲイツ並みの億万長者になっているかもしれない」  アリッサは噴《ふ》き出した。「オレ、さすがにそこまで楽天的にはなれねえなあ」 「若い者が未来に希望を抱《いだ》かなくてどうするね」牧師はそう言って、親しげに少女の肩《かた》を叩《たた》いた。「とにかく、ご苦労様だった——中でクッキーでも食べるかね?」 「ああ。ちょっと待って。梯子、片付けたらね」  老いた牧師は紅茶とクッキーの用意をするため、教会の中に入っていった。アリッサは梯子を倒《たお》し、一人で苦労して折り畳《たた》んだ。  梯子を物置にしまいに行こうとした時、ポケットの中で『タイプ:ワイルド』のメロディが鳴った。担《かつ》ぎ上げていた梯子をいったん下ろし、携帯《けいたい》電話を取り出す。 「アリッサです」 <はあい、ガンチェリー>  陽気な女の声がした。ガンチェリーはさっと緊張《きんちょう》する。彼女《かのじょ》をそのコードネームで呼ぶ者は限られている。 「ジャムか? 何だよ?」 <今年の夏休み、どっかバケーション行った?> 「行けるわけねえだろ。金ないのに」 <じゃあさ、みんなでお出かけしない?> 「いいねえ。どこ?」 <ロングアイランド> 「だっせえ! せめてディズニーワールドとか言えねえのかよ。仮にもオレ、女の子だぜ」 <あらあ、ディズニーワールドより空《す》いてるし、絶対楽しいわよ。本物のホーンテッドマンションに、スターツアーズ真っ青のアドベンチャー……>  ガンチェリーは舌打ちした。「要するに、仕事なんだな?」 <そういうこと> 「いつ?」 <今日の午後> 「えらく急ぐんだな」 <ミスターWがね、金曜のパーティの前にどうしても片付けておきたいって> 「友達と <エイス・ストリート・ラブ> にショッピングに行く約束してんだけど……」 <お願い。この前からお客様がじゃかすか到着《とうちゃく》してるでしょ? サヴェッジバイトもロードレイザーも警護とか交渉役《こうしょうやく》に走り回ってて、人手が足りないのよ> 「その仕事って、例の件と関係あり?」 <ええ、とっても>  ガンチェリーは大きなため息をついた。さすがにショッピングと世界の危機を秤《はかり》にはかけられない。 「分かったよ。その代わり、いつか本物のディズニーワールドに連れて行けよ」 <ええ。世界がまだあればね——じゃ、一時に例の場所に集合ってことで、よろしく>  電話は切れた。 「世界がまだあれば……か」  彼女は薄汚《うすよご》れた小さな教会を見上げてつぶやいた。天使が世界を破壊《はかい》すれば、この教会も跡形《あとかた》もなく破壊されるのだろう。この街を良くするために尽力《じんりょく》してきたバレシタイン牧師の功績も、すべて無に帰すのだろう。もちろん、母や友人たち、愛する者もすべて……。 「……させるわけにゃいかねえよな」  決意を新たに、彼女は梯子を担ぎ上げた。  ジョン・F・ケネディ国際空港——  同日・午後二時一〇分(東部標準時)——  ひっきりなしに国際線旅客機が発着するニューヨークの玄関口《げんかんぐち》。白人、黒人、アジア人……世界中からやってきたありとあらゆる人種で、ターミナルビルの到着ゲート付近はごった返している。  その一角で、コントを繰《く》り広げているグループがあった。 「もーう! 流《りゅう》くん、いつまでもたついてんのよ!」 「しょうがねえだろ! バゲージから荷物がなかなか出てこないんだから! おまけに入国|審査《しんさ》の列は長いし、あげくに税関に回されるし……」 「荷物が多いから怪《あや》しまれたんでしょ! だいたい男のくせに何でそんなに荷物が多いの!? あたしなんかこれだけだよ!」  そう言って、かなたはピンクのトートバッグをぽんぽんと叩いた。外見が中学生の小柄《こがら》な彼女にはぴったりのサイズだ。それに対し、筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》な流は、大きなスーツケースを引きずっているうえ、リュックまで背負っている。 「俺《おれ》のせいじゃないぞ! こっちに何日|滞在《たいざい》することになるか分かんないからって、おふくろがあれもこれも詰《つ》めこみやがったんだ」 「あれもこれもって?」 「カップラーメンとかインスタント味噌汁《みそしる》とかゴマふりかけとか……税関でゴマふりかけが何か説明するの、大変だったんだぞ!?」 「どうでもいいけど、眠《ねむ》いよお」  二人の会話に割って入ったのは湧《ゆう》である。高校では柔道《じゅうどう》をやっているぐらいで、体力に自信はある方なのだが、さすがに一三時間の時差はきつく、しきりに目をこすっている。本当なら寝《ね》ている時間なのだ。 「その続き、ホテルに行ってからにしない?」 「まったくですわ」神谷《かみや》聖良《せいら》が自慢《じまん》の黒髪《くろかみ》を神経質にいじりながら、困った顔で言った。「飛行機の中が乾燥《かんそう》していて、髪がかさかさ。早く洗わないと」  彼女の正体は毛羽毛現《けうけげん》——髪の毛の妖怪《ようかい》である。髪は彼女の生命そのものであり、一日一回、シャンプーとリンスをたっぷり使って洗わないと生きていけない。長いこと髪を洗わずにいると、しだいに衰弱《すいじゃく》し、死んでしまうのだ。 「俺としては、セントラルパークにでも行って昼寝がしたいところだけど」  加藤《かとう》蔦矢《つたや》もいつになく元気のない声で言った。藤《ふじ》の木の精である彼《かれ》の場合は、太陽の光を定期的に浴びないと生きられないのだ。おまけに時差のせいで体内リズムがすっかり狂《くる》い、体調は最悪である。 「まあまあ」大樹《だいき》がみんなをなだめた。「じきに迎《むか》えが来るから。マンハッタンまでほんの二四キロだよ」  今回のツアーの面子《メンツ》は彼ら六人。 <うさぎの穴> ——厳密に言えば旧 <うさぎの穴> ——の主要メンバーである。教授は高所|恐怖症《きょうふしょう》なので飛行機には乗れない。蜃《しん》(蛤《はまぐり》の妖怪)の朧《おぼろ》孝太郎《こうたろう》も、海水に毎日浸《つ》からないといけないという体質のため、海外旅行は苦手だった。その他の者も、正式な国籍《こくせき》を持たないのでパスポートが取れないとか、旅費が工面できないとかで、参加できなかった。 「そう言えば」流はきょろきょろと周囲を見回した。「空港まで出迎えをよこすとかいう話だったけど……いったいどこだ?」  あたりはまさに人の洪水《こうずい》。見覚えのある顔があったとしても、発見するのは難しい。 「そもそもどんな人が来るんですの?」  聖良が根本的な疑問を口にする。 「さあ……」 「さあって……」 「だって、 <Xヒューマーズ> からは『空港まで出迎えをよこす』としか言ってこなかったんですよ」大樹がすまなさそうに弁解する。「どんな人かまでは……」 「それじゃ分かんないじゃない!?」湧がすっとんきょうな声を上げた。「向こうもこっちの顔、知らないんじゃないの!?」 「えー……?」  一同は不安な気分で人の波を見回した。当たり前の話だが、周囲は知らない外国人ばかりで、人間に化けた妖怪が混ざっていても見分けられるはずがない。まさか <うさぎの穴ご一行様> という旗を立てているはずもないし……。 「はあい、かなた!」  聞き覚えのある声に、一同は振《ふ》り向いた。  どきっとするほど美しい女性が、腰《こし》をリズミカルに振りながら、人波を縫《ぬ》って大股《おおまた》でこちらに歩いてくる。ハイヒールのブーツを履いていても、背の高いアメリカ人たちの間ではかなり小柄だが、それでも充分《じゅうぶん》すぎるほど目立つ。肌色《はだいろ》のストッキングに包まれたすらりとした脚《あし》。黒いレザーのスカートは下着が見える寸前の凶悪《きょうあく》な短さだ。黒いキャミソールはシースルーで、肩《かた》や腕《うで》が大胆《だいたん》に露出《ろしゅつ》しているのはもちろん、下に着けているストラップレスブラや、へそまで透《す》けて見えていた。肩には炎《ほのお》をアレンジしたタトゥーシール。手首にはめた鋲《びょう》つきの派手なブレスレットは、いざとなると武器になりそうだ。  唖然《あぜん》として見つめる一同の目の前で、彼女《かのじょ》は立ち止まり、腰に片手を当ててポーズを取った。目蓋《まぷた》には薄い紫《むらさき》のシャドー、両耳には銀のピアスが光っている。鮮血《せんけつ》のようなルージュを塗《ぬ》った唇《くちびる》がなまめかしく動き、聞き慣れた声をつむぎ出す。 「みなさんもお久しぶり。お元気でした?」  六つの口がぽかんと開いた。スーツケースのハンドルを握《にぎ》っていた流の手が滑《すべ》り、スーツケースが派手な音を立てて空港の床《ゆか》に転がる。 「あの……ひょっとして……摩耶《まや》ちゃん?」 「印象、変わりました?」  摩耶は長い黒髪をかき上げ、妖《あや》しく微笑《ほほえ》んだ。  すぐにタクシー・ステーションに行き、配車係《ディスパッチャー》の誘導《ゆうどう》で二台のイエローキャブに分乗する。摩耶、かなた、流、湧が前の車、他の三人は後ろの車である。日本のタクシーのようにドアが自動で開くものと勘違《かんちが》いして、かなたが車の横で立ちすくむという一幕もあったが、どうにか全員が乗りこみ、ケネディ空港を後にした。 「運転手さん、足元に二〇ドル札が落ちてますよ」  車がスタートするとすぐ、助手席に座《すわ》った摩耶が日本語で言った。しかし、無愛想な運転手は前を向いたまま、運転に専念している。摩耶は安心して振り向いた。 「だいじょうぶよ、何|喋《しゃべ》っても。この人、日本語分かんないから」  前部と後部の座席の間には、強盗《ごうとう》対策の厚い透明《とうめい》プラスチック板があるので、彼女の声はかなたたちにはくぐもって聞こえた。 「それにしても……雰囲気《ふんいき》変わったねえ、摩耶ちゃん」  かなたがしみじみとつぶやくと、摩耶は少しはにかんだ。その横顔は、まだ昔のままの摩耶だ。 「彼《かれ》がね、『俺《おれ》のパートナーになったかぎりは、野暮《やぼ》ったい格好は絶対に許さん』って言うの。最初は慣れなくて、ちょっと恥《は》ずかしかったけど、彼がいろいろ手ほどきしてくれて。だんだん板についてきたわ」 「……さすが、コーチがいいんだ」  湧はなかばあきれながらも、羨《うらや》ましそうに言った。服もそうだが、化粧《けしょう》でここまで雰囲気が変わるというのは驚《おどろ》きだ。伝説によれば、女性に化粧を教えたのはアザゼルだとされているが、まんざら根拠《こんきょ》のない話でもないらしい。 「かなたも元気になったみたいね。安心したわ」 「そりゃまあ、いつまでもしょげてられないものね」  松五郎《まつごろう》が死んだ直後、食事も口にできないほど沈《しず》みこんでいたかなただが、何週間も経《た》つうち、しだいに持ち前の陽気で積極的な性格が頭をもたげてきた。閉じこもって泣いているだけでは何も解決しない、と気がついたのだ。父の死を無駄《むだ》にしないためにも、何か行動を起こしたかった。  東京の惨劇《さんげき》が天使のしわざだという情報はひそかに伝わり、全世界の妖怪ネットワークを震撼《しんかん》させた。さらに、神の国が存在するのがニューヨーク沖《おき》であることが確実になり、危機感をつのらせた妖怪たちが、最終決戦に参加するために続々とニューヨークに集まりはじめた。それを耳にしたかなたは、矢も盾《たて》もたまらず、流たちを説得して今回のツアーに強引に参加したのである。無論、自分が妖怪としては非力であり、天使たちと対等に戦えないことはよく知っている。しかし、それでも何かがしたかった。ほんの一〇〇万分の一でいい、戦いに何か貢献《こうけん》したかったのだ。 「そうよね。もう二か月になるんだものね」摩耶は遠い昔を懐《なつ》かしむように言った。「それとも、たった二か月……かな?」  親友を日本に残し、後ろ髪引かれる思いでアザゼルとともに日本を発《た》ったのが六月二日。それ以来、ヨーロッパやアメリカを目まぐるしく飛び回っていたので、時間の感覚があいまいになっていた。あまりにも多くのことがあったので、かなたと別れてたった七〇日しか経っていないとは信じられない。 「それにしても、ニューヨークでいきなり摩耶ちゃんに会うとはねえ」  流はまだ最初のショックから立ち直っていなかった。 「ニューヨークにはつい二日前に着いたとこ。本当は <Xヒューマーズ> の誰《だれ》かが出迎えに行くはずだったんだけど、急な作戦が入ったとかで、人手が足りなくなって……それで私が代役を買って出たの」 「二か月間、ずっと彼と?」 「ええ。ヨーロッパの古いネットワークを訪ねたり、彼の昔の友達に会ったりして、説得に回ってたの。戦いに参加してくれるように——あ、そうそう、これ」  摩耶は目薬の瓶《びん》を取り出し、プラスチック板越《ばんご》しに三人に示した。 「おみやげ。後で渡《わた》すから、みんな一滴《いってき》ずつ目に点《さ》しておいて」 「何なの?」 「見えないものが見えるようになる魔法《まほう》の薬。一滴で二週間ぐらい効果あるらしいわ」 「へえ、そりゃ便利だ!」  流は目を丸くして、無邪気《むじゃき》に喜んだ。天使と戦う際の最大のネックは、相手の姿が見えないことだ。渋谷《しぶや》での戦いは霧香《きりか》の妖術に助けられたが、その霧香はもういない。しかし、魔法の薬があれば、そのハンデは解消される。 「でも、全員の分、あんの?」 「量産は難しいんだって。でも、決戦までにできるかぎりの量は調達するって、ティル・ナ・ノーグの女王様が約束してくれたわ」 「摩耶ちゃん、ティル・ナ・ノーグまで行ったの!?」  かなたが驚きの声を上げた。神話や伝承にはうとい彼女だが、ティル・ナ・ノーグの名はマンガで読んで知っている。アイルランドの西の海にあるという妖精の国だ。 「入口までよ。中には入らなかったの。中では時間が速く過ぎるそうだから」 「でも……すごいじゃん、それって!」 「他にもいろんなところに行ったわ。ブルターニュの西の海の底にモルガン(水の精)の国があってね。あそこはすごくきれいだったなあ。あと、トランシルバニアにも行ったし、イタリアのムリネッロ(つむじ風の妖精)の国に、グルジアのダリ(山の女神)に……」 「二か月でそんなに回ったの!? すっごくハードなスケジュールじゃん」 「ええ。さすがに疲《つか》れちゃった。移動の間もずっと勉強ばっかりだったし」 「勉強?」 「私、英語しか喋れないでしょ? 不便だから、フランス語とかイタリア語、少しでも喋れるようになっておこうと思って。飛行機や列車の中で、会話集や単語帳、読みまくったの」摩耶は苦笑した。「今さら受験勉強してるみたい」 「そりゃ大変だなあ……」  摩耶の勉強がどれほど大変なものか、かなたには想像もつかない。彼女は英語さえ苦手で、今回のニューヨーク旅行に備えて英会話の本を読んでいるうち、頭の中がこんがらがってしまったぐらいだ。 「大変だけど、すごく面白《おもしろ》いわ。誰かに強制されてやる勉強じゃなくて、自分の意思でやってる勉強だもの」そう言い切る摩耶の表情は晴れ晴れとしており、自信に満ち溢《あふ》れていた。「少しでも彼を手伝いたいの。足手まといにだけは絶対にならないって決めたから」 「まあ、摩耶ちゃんならあいつの足手まといにはならないだろうな」流がはげまそうとして言った。「いざとなれば、夢魔も呼べるわけだし」 「ああ、それがね……」  摩耶は急に口ごもった。 「どうしたの?」 「夢魔ね……呼べなくなっちゃったの」 「はあ!?」 「この前から何度も召喚《しょうかん》しようとしてるんだけど、だめみたい。出てこないの」 「どうして……?」 「ほら、夢魔って要するに、私の思春期の性的欲求不満が生んだものでしょ?」摩耶は恥《は》ずかしそうに笑った。「それが解消されちゃったから」 「は……はあ、そう」  流は座席からずり落ちそうになった。彼もプレイボーイを自認《じにん》しており、女性を喜ばせる方法については人よりもよく知っているという自負がある。しかし、二五〇〇年も生きてきた悪魔の知識とテクニックは、そんなものとは比較《ひかく》にならないに違《ちが》いない。欲求不満なぞあっさり解消されるだろう。 「その話はとりあえずこっちに置いといて……」湧は気を取り直して言った。「で、どうなの、状況《じょうきょう》は? どれぐらいの戦力が集まりそう?」 「北アメリカとヨーロッパに関しては、ほとんどのネットワークから協力が得られたみたい。あと、南アメリカ、アフリカ、アジアの一部も。ここ一週間ほどの間に、世界中からニューヨークに集まってきてるって」 「日本はもちろん全面協力よ。 <海賊《かいぞく》の名誉亭《めいよてい》> でしょ、 <摩周《ましゅう》> 、 <並木屋《なみきや》> 、 <高峰塾《たかみねじゅく》> 、 <メロウ> に <かすみ> ……」かなたは指を折ってゆく。「あと、 <陽閑寺《ようかんじ》> の守綱《もりつな》もじきに来るって言ってた。本当は莫庵《ばくあん》和尚《おしょう》が来てくれると心強いんだけどね……」 「無理だろうなあ」と流。「あの人も教授と同じ、高所|恐怖症《きょうふしょう》だそうだし」  京都のネットワーク <陽閑寺> の莫庵和尚は、京都に千数百年も住んでいるという霊亀《れいき》である。自分で戦うことはほとんどないが、噂《うわさ》では日本でも五本の指に入る実力の持ち主だという。しかし、何しろ性格が基本的に亀《かめ》なもので、速い乗り物を嫌《いや》がるのと、高いところが苦手なのが玉に疵《きず》だ。 「まったく。亀だったらジェット噴射《ふんしゃ》で空飛んで来いっつーのよ」 「あ、そうそう」流がぽんと手を叩《たた》く。「日本を出るちょっと前、親父《おやじ》の親戚《しんせき》から連絡《れんらく》があった」 「お父さんの?」  流の父、威星《ウェイシン》は中国の龍王《りゅうおう》である。現在はある事件が原因で謹慎中で、彼の弟や甥《おい》(流から見れば叔父《おじ》と従兄弟《いとこ》に当たる)が実権を握《にぎ》っている。 「うん。龍族もようやく重い腰《こし》を上げるみたいだ」 「本当?」摩耶は顔を輝《かがや》かせた。「それはいいニュースね」  龍族のような古い種族は、とてつもなく強大な力を有している反面、山奥《やまおく》や隠《かく》れ里に隠棲《いんせい》していて、人間界の動向にはほとんど関心を持たない。彼らが動いてくれるかどうかで、今度の大戦の行方《ゆくえ》が大きく左右される。 「となると、後はやっぱりヴィシュヌとシヴァね」 「ヒンドゥー教の神様?」とかなた。 「ええ。ヨーロッパや中東の古い神様の半分以上は、前の大戦で消滅《しょうめつ》しちゃったんだって。残ってる神様も、崇拝者《すうはいしゃ》が少なくなって、力が落ちてるそうなの。だから今のところ、敵に少しでも対抗《たいこう》できそうなのは、仏教とヒンドゥー教の神様だけなのよ」 「でも、ヴィシュヌはともかく、シヴァって基本的に破壊神《はかいしん》でしょ?」と湧。「世界を救うために動いてくれるかなあ?」 「分からない。あれぐらい格が高くなっちゃうと、俗世《ぞくせ》のことに心を動かされなくなるらしいの。解脱《げだつ》っていうのかな? かなり気難しいみたい」 「それにしたって、世界の危機だろ、危機」流は腹を立てていた。「神様ならどうにかしろよ、まったく」 「あのさ、基本的疑問なんだけど」とかなた。「アラーの神はどうしたの? イスラム教の神様は?」 「あのね、かなた。『アラーの神』って言い方は変なのよ」湧が受験勉強で覚えたばかりの知識を披露《ひろう》する。「アッラーっていうのはアラビア語で『神』っていう意味なの」 「あ、そうなんだ?」 「そう。ユダヤ教やキリスト教の神様——エホバとかヤハウェとか呼ばれている神様を、イスラム教ではアッラーと呼んでるわけ」 「じゃあ、同じ神様なの?」 「基本的にはね。ただ、神様についての解釈《かいしゃく》とか、教義とかが違うの」 「どういう風に?」 「たとえば聖典。ユダヤ教の聖典は旧約聖書と『タルムード』。キリスト教は旧約聖書と新約聖書。イスラム教は旧約と新約の一部、プラス『コーラン』」 「ふーん」 「あと、安息日がユダヤ教は土曜で、キリスト教が日曜で、イスラム教が金曜とか。ユダヤ教とイスラム教では割礼をするけど、キリスト教はしないとか……」 「それってさあ、そんなに大きな違いなの?」かなたは首をかしげた。「どの本を読むかとか、いつ休むかとか、皮をちょん切るかどうかが?」 「大きな違いみたいね。それが原因で、イスラム教徒とキリスト教徒、キリスト教徒とユダヤ教徒が何百年も争ってきたんだから」  無論、他にも違いはいろいろある。たとえばイエス・キリストについての解釈だ。キリスト教ではイエスは神の子とされているが、イスラム教では預言者の一人にすぎない。ユダヤ教ではイエスを偽《にせ》預言者とみなしている。三者とも自分たちの解釈こそ絶対正しいと信じており、異なる解釈を認めようとしない。  ちなみに、イスラム教徒も天使の存在を信じている。ミカエルはミーカーイール、ガブリエルはジブリールと呼ばれているが、基本的には同じ存在だ。 「キリスト教徒同士でも、カトリックとプロテスタントって、しょっちゅう戦争してるじゃないか」と流。「北アイルランドの紛争《ふんそう》とか、そのせいだろ?」 「ボスニアだってそうよ。狭《せま》い地域の中で、カトリックとセルビア正教とイスラム教がお互《たが》いに反目し合ってるのが争いの原因だし。あと、イスラム教の中でも、シーア派とスンニー派は昔から対立してるし……」 「どう違うの、それ?」とかなた。「殺し合いをしなきゃいけないほどの違いなの?」 「うーん、よく分かんない」湧は正直に答えた。「あたしはどっちでもいいと思うんだけど、当事者にとっては重大問題なんだろうなあ、たぶん」 「人間って、ほんと、身勝手だよねえ!」かなたは憤然《ふんぜん》として腕組《うでぐ》みをした。「しょーもないことばっかり考えついて、しょーもないことばっかり信じこんで……それで厄介《やっかい》な妖怪《ようかい》が次から次に生まれてくる。おかげで、あたしたちが尻《しり》ぬぐいしなくちゃいけないんじゃない!」 「はいはい、人間で悪うござんした」  かなたの軽率《けいそつ》な言動に、湧はさすがに不機嫌《ふきげん》になった。一六|歳《さい》になるまで人間として育ってきた彼女《かのじょ》には、自分が妖怪だという意識が薄《うす》い。 「あ、ごめん、そういう意味じゃ……」 「その言い方はないだろ、かなたちゃん」流が珍《めずら》しく諭《さと》す側に回る。「人間がいなけりゃ、俺《おれ》たちだって存在してないんだぜ?」 「そりゃそうだけどさ、でも……」 「いえ、かなたの言う通りだと思う」摩耶が悲しげな表情で言った。「みんな人間がいけないのよ……」 「摩耶ちゃん……」 「私だってその一人よ。だから、どうにかしたいの」  前方に見えてきたマンハッタンの摩天楼《まてんろう》を見つめ、摩耶は静かな声で、しかし強い意志をこめて言った。 「かなたたちにだけ責任は取らせない。人間にもできることが何かあるはず——私はそう信じてるの」  これほど力強い摩耶を、かなたは見たことがない。少なくとも、二か月前までは決して見られなかった姿だ。東京での体験、そしてアザゼルとともに世界を回った体験が、彼女の内に眠《ねむ》っていたものを目覚めさせたのだろう。 「幸せなんだ、摩耶ちゃん……」 「幸せ? うーん、どうかな」唐突《とうとつ》な質問を受け、摩耶はあいまいな笑みを浮かべた。「幸せかどうかは分からないけど、少なくとも充実《じゅうじつ》はしてる。この二か月、本当にいろんなことがあったから」 「そっかあ……」  かなたはふと、寂《さび》しい思いがした。これまで、不安におびえる摩耶、くじけそうになる摩耶を支えるのが、彼女のポジションだった。だが、今の摩耶にはもう支えはいらない。自分の脚《あし》で歩いていける。それは喜ぶべきことのはずなのだが、かなたは素直に祝福できなかった。 (摩耶ちゃん、大人になったんだ……)  人間は成長する。少女は、いつまでも少女のままではいられない。それが人間と妖怪の大きな違《ちが》いだ。自分はいつまでも子供のままだが、摩耶はどんどん離《はな》れてゆく……。  今の自分と摩耶の間には壁《かべ》があるように、かなたには感じられた——防弾《ぼうだん》プラスチック板よりも厚い、見えない壁が。 [#改ページ]    9 モントークの遺産  ニューヨーク州ロングアイランド——  同日・午後三時一五分(東部標準時)——  その名の通り東西に細長いこの島は、さながら北米大陸の脇腹《わきばら》に突《つ》き刺《さ》さったナイフのように、大都市ニューヨークから大西洋に二〇〇キロも突き出している。ニューヨークの住民が夏のバカンスを過ごす場所として名高い。  今は夏の真っ盛《さか》り、長い海岸線に沿って何万というビーチパラソルとデッキチェアがひしめき、紫外線《しがいせん》をたっぷり含《ふく》んだ陽光の下、大勢の裸《はだか》の男女が肉体美を競《きそ》い合っている。海には数え切れないほどのヨットとモーターボートが行き交《か》い、空には色とりどりのハングライダーが舞《ま》っている。世界の終わりが近いなど嘘《うそ》のような賑《にぎ》わいだ。  そのロングアイランドの東端《とうたん》、風光|明媚《めいび》なモントーク岬《みさき》の灯台の西側に、かつてフォート・ヒーローと呼ばれた古い空軍基地の跡《あヒ》がある。閉鎖《ヘいさ》されたのは公式には一九六九年とされている。錆《さ》びついたフェンスに囲まれ、「立ち入り禁止」の札もかかっているが、ゲートは近所の子供たちのいたずらによって壊《こわ》されており、出入りは自由だ。いちおう管理人はいるものの、監視《かんし》はないも同然である。広い敷地内《しきちない》にはカマボコ形の兵舎や空っぽの格納庫が点在している。ひび割れた滑走路《かっそうろ》には雑草が生え、送信|塔《とう》の屋根の上では用済みになったレーダーが雨ざらしになっていた。  一九八〇年代前半、この閉鎖された基地がちょっとした話題になったことがある。閉鎖されたというのは表向きで、今でも軍の技術者が活動しているらしいというのだ。基地周辺では落雷《らくらい》や強風などの異常気象が頻発《ひんぱつ》し、八月に雪が降ったこともあった。精神が不安定になる住民が続出して犯罪が増加した。動物たちもしばしは異常な行動を起こした。基地から発信されている奇妙《きみょう》な電波を受信したという話もあった。そのため、基地の中で何か危険な実験が行なわれているのではないかという噂《うわさ》が流れた。  その後、ある人物が驚《おどろ》くべき話をマスコミにリークした。モントーク基地では一九八三年まで、超能力《ちょうのうりょく》やマインド・コントロール、タイムワープなどの研究が極秘裏《ごくひり》に行なわれていたというのだ。人間の発する思念波を人工的に増幅《ぞうふく》することにより、遠く離《はな》れた人間の精神を操作したり、思考を物質化したり、時空を歪《ゆが》めてタイムトラベルも可能になるという。  その研究はいわゆる「フィラデルフィア・エクスペリメント」——一九四三年、フィラデルフィアの海軍|工廠《こうしょう》で、駆逐艦《くちくかん》 <エルドリッジ> を使って行なわれた�透明化《とうめいか》�実験を発展させたものだとされた。伝説によれば、 <エルドリッジ> の姿は海上から完全に消え失《う》せたばかりか、一六〇〇マイルも離れたノーフォーク沖《おき》までテレポーテーションしてしまったという。この伝説は有名になり、映画の題材になったほどだ。  無論、あまりにもバカバカしい話で、ほとんどの人は信じなかったが、オカルト・マニアの中には真に受けた者も多く(彼《かれ》らはたいていの話を真に受けるのだ)、政府が隠蔽《いんぺい》している事実を暴《あば》こうと、モントーク基地に忍《しの》びこむ者が続出した。当然のことながら、彼らが目にしたのはただの廃墟《はいきょ》と、廃棄《はいき》されて錆びついたガラクタの山だった。屋内に残されていた通信機や発電機の中には、まだ使えるものもあったが、どれもこれも時代遅《じだいおく》れな代物《しろもの》ばかりであった。それでも科学にうといオカルト・マニア(彼らはたいてい科学にうといのだ)の中には、何の変哲《へんてつ》もない機材を超テクノロジーの産物と信じこみ、写真に撮《と》って悦《えつ》に入る者もいた。  その後、「モントーク・プロジェクト」をめぐる話はさらに荒唐無稽《こうとうむけい》さを増していった。それらの超テクノロジーはオリオン星人から与《あた》えられたものだとか、被験者《ひけんしゃ》がタイムトンネルを通って火星にいるキリストに会いに行った、などという話も飛び出した。研究が中止になった理由は、基地内に毛むくじゃらの巨大《きょだい》な「イドの怪物《かいぶつ》」が出現して暴れまわったせいだという。さすがのオカルト・マニアたちもあきれかえり、しだいにモントークへの興味をなくしていった。ついには、ごく一部の狂信者《きょうしんしゃ》しか信じなくなってしまった。  今ではもう、モントーク基地を訪《おとず》れる者は誰《だれ》もいない。  噂の仕掛《しか》け人たちは、してやったりと思ったことだろう。疑惑《ぎわく》を躍起《やっき》になって否定するのは得策ではない。かえって「何かある」と怪《あや》しまれるだけだ。真実とかけ離れた荒唐無稽なストーリーを流せば、良識ある人間は信じないし、狂信者は逆にそれを鵜呑《うの》みにしてしまう。いずれにせよ、大衆を真実から遠ざけることができる……。  こうしてモントークの秘密は守られてきたのである。 「うん、夕食までに帰れるか分かんねえから、悪いけど先に食っててよ……え? 分かってるって! 生命と処女膜《しょじょまく》は粗末《そまつ》にしねえよ! じゃな!」  陽気な口調で携帯《けいたい》電話を切ると、ガンチェリーは急に一三|歳《さい》の少女の顔に戻《もど》った。カーテンで仕切られたコンパートメントの中で、「はあ……」と悲しげなため息をつく。電話を脱《ぬ》いだズボンのポケットに戻し、黙々《もくもく》と着替《きが》えを続行する。 「お母さんかね?」  飛行船のゴンドラの最前部に立ち、クラシックなデザインの舵《かじ》を操りながら、ミスターWが声をかけた。今、飛行船はモントーク岬の灯台が見えるところに差しかかり、モントーク基地の廃棄された滑走路に向かって、ゆっくりと降下を開始している。右手には青い大西洋が広がり、夏の陽射《ひざ》しをいっぱいに浴びてきらめいている。 「ああ。やっぱ、オレのこと心配してるみたい……」  用意されたズボンに脚を通しながら、ガンチェリーは元気のない声で言った。 「当然だろう。母親なら」 「本心はきっと、オレにやめてほしいんだろうなあ、こんなこと……」  アリッサ・メイベルがガンチェリーであるという事実は、 <Xヒューマーズ> のメンバー以外では、彼女の母親アンナだけが知っている。世の中の決まりきった枠組《わくぐ》みというものを軽蔑《けいべつ》しているミスターWだが、さすがに未成年者に親の許可なく危険な仕事(それもとびきり危険な仕事!)をさせるほど無頓着《むとんちゃく》ではない。一年前、妖銃《ようじゅう》シルバーバレルがアリッサを新たなガンマンとして選んだ時、事情をアンナに打ち明けて承諾《しょうだく》を求めたのである。もちろん彼女《かのじょ》は強硬《きょうこう》に反対したのだが、「正義を守るために生きたい」という娘《むすめ》の強い意志に根負けし、 <Xヒューマーズ> に入ることを認めたのだ。 「君はどうなんだ? やめたいのかな?」 「あんたはどうなんだよ? オレにやめてほしい?」 「難しい質問だな」ミスターWは複雑な表情でうなった。「君が貴重な戦力であることは確かだ。君の力なしでは解決できなかった事件もたくさんある。だが、もしものことがあった場合、君のお母さんを悲しませることになる。それを考えると胸《むね》が痛む……」 「オレもだ。アニーを悲しませるのは絶対に嫌《いや》だ」そう言いながら、ガンチェリーはブーツのベルトをきつく締《し》めた。「……だから絶対に死にたくねえ」  その言葉には一三歳の少女とは思えない強い決意と自信がこめられている。その人並みはずれた意志の強さこそ、シルバーバレルが彼女を選んだ理由のひとつなのだ。 「私も君を死なせないために、できるかぎりのことはするつもりだ——どうだね? その新しいCID(コンバット・インファントリー・ドレス)も、なかなかのもんだろう?」 「ああ、これねえ……」  着替えを終えたガンチェリーは、カーテンを開けて出てくると、自分の格好を見下ろした。|SWAT《スワット》隊員が着用するような、ものものしいボディ・アーマーである。胸から股間《こかん》にかけては特殊鋼《とくしゅこう》とケブラー繊維《せんい》のプロテクターに覆《おお》われ、四五|口径弾《こうけいだん》も通さない。腕《うで》や脚もプラスチックのプレートや特殊繊維で強化されている。今回は省略しているが、未来的なデザインのフルフェイスのヘルメットを着用すれば、NBC(核《かく》・生物・化学)戦にも対応できるすぐれものだ。もちろん、彼女の体格に合わせて作られている。  だが、彼女には不満がいろいろあった。 「前のより重いんだけど……」  大人用より軽いものの、全装備重量は一四キロにもなる。シルバーバレルの妖力で筋肉を強化されているとはいえ、ちょっとつらい。 「防御力《ぼうぎょりょく》を六〇パーセントも高めたんだ。多少の重量増加は大目に見てくれ」 「それに暑いし……」 「防弾性能と通気性はなかなか両立しにくいんだよ」 「でも、最大の問題は……」 「よお、ガンチェリー、太ったな!」  背後から声をかけてきたエッジを、ガンチェリーは即座《そくざ》にしばき倒《たお》した。 「こう言われることなんだよ!」  飛行船は音もなくモントーク基地の滑走路《かっそうろ》に着陸した。無論、透明化《とうめいか》しているので、誰にも目撃《もくげき》される心配はない。  側面の扉《とびら》が開き、ガンチェリー、エッジ、シャドーキック、ジャムの四人が、次々に飛び降りた。その場に居合わせた者がいたとしたら、彼らが無の中から忽然《こつぜん》と出現する瞬間《しゅんかん》を目撃し、驚《おどろ》いたことだろう。もっとも、ガンチェリーはSWATもどき、エッジは白い防護服にフルフェイスのヘルメット(彼の場合は太陽光線を防ぐためのものだ)、シャドーキックは真っ昼間だというのに目立つ黒装束《くろしょうぞく》、ジャムも女怪盗《おんなかいとう》を気取って紫色《むらさきいろ》のレオタード姿でデジタルビデオカメラを持っており、あまり真剣《しんけん》そうに見えない。万が一、見つかっても「自主製作映画のロケをしてました」という言い訳が通用しそうだ。  四人はただちに目標の建物に向かって走った。すでに船内で詳《くわ》しいレクチャーを受け、建物の位置と内部構造は完全に頭に叩《たた》きこんである。  入口の扉には鍵《かぎ》がかかっていたが、破るのは造作もないことだった。四人は内部に滑《すべ》りこむと、フラッシュライトを手に通路を進んだ。曲がり角には古い火災報知器のボタンに偽装《ぎそう》した監視《かんし》カメラが仕掛けられていたが、ジャムが電気信号を探《さぐ》り当て、あっさり無効にした。 「ここか……?」  長い通路の突《つ》き当たりで、エッジはつぶやいた。古ぼけたコンクリートの壁《かべ》が立ちはだかっている。ひび割れから雨水が染《し》み出し、黴《かび》も生えていた。 <そこだ。間違《まちが》いない>  全員の耳につけたインカムから、ミスターWの声が聞こえた。彼は飛行船内に待機しており、ジャムの腰《こし》に提《さ》げたモバイルに接続されたカメラを通して、現場の映像をモニターしている。 <その建物の南北の長さは一〇九フィートだが、通路の長さは八八フィート。壁の厚さを考慮《こうりょ》に入れても、約一五フィートの空間が隠《かく》されているはずだ> 「ほんじゃ、行ってみっか」  エッジはナイフを取り出すと、壁に向かって何度も振《ふ》った。銀色の妖《あや》しい光が刃先《はさき》からほとばしり、壁に叩きつけられる。一撃ごとに火花と破片《はへん》が飛び散り、コンクリートが深くえぐれてゆく。切断されたコンクリートの塊《かたまり》がばらばらと落下すると、その向こうにシャッターか扉らしい金属板が塗《ぬ》りこめられているのが明らかになった。 「……これって、立派な国有財産の損壊《そんかい》だよねえ?」とガンチェリー。 「いつものことでござる」シャドーキックがあきらめたように言う。 「正義と法を同時に守るのは難しいわ」ジャムがとぼける。  ほどなく、コンクリート壁《へき》に幅《はば》二メートル半ほどの四角い穴が開き、黄色く塗られたエレべーターの扉が現われた。全員で隙間《すきま》に指をひっかけ、左右に引っ張る。 「サヴェッジバイトかパワーフェアリーがいれば一発なのに!」エッジがぼやく。 「愚痴《ぐち》ってないでやる!」とガンチェリー。  四人の努力の甲斐《かい》あって、一七年も閉ざされていた金属の扉は、がりがりという不快な音を立て、ゆっくりと開きはじめた。 「うわっと!?」  扉が急に大きく開いた。指にかかっていた抵抗《ていこう》が不意に消失し、ガンチェリーは勢い余ってエッジの腕の中に倒れこんだ。  ジャムはおそるおそる扉の向こうを覗《のぞ》きこんだ。ライトのビームが闇《やみ》の奥《おく》を探《さぐ》る。一辺が五メートルほどのエレベーター・シャフトで、使用できないようにケージは最下層に下ろされ、上から数十トンのコンクリートを流しこんで封印《ふういん》してある。 「深さは六〇フィートってとこですね」  カメラでシャフト内部を撮影《さつえい》しながら、ジャムが報告する。 <注意して降りたまえ> ミスターWが言った。 <中継《ちゅうけい》アンテナの設置を忘れずに> 「了解《りょうかい》」  身軽なシャドーキックが先に降り、安全を確認《かくにん》することになった。彼《かれ》は垂直の壁を黒い蜘蛛《くも》のように伝い降り、暗いシャフトの底に降り立った。敵の気配、警報装置の有無《うむ》、有毒ガスの有無を確認してから、OKのサインを送る。  ジャムはエレベーターの扉の傍《わき》に、携帯《けいたい》電話のように見える小型の中継アンテナを設置した。これから地下に入るので、電波状態が悪くなることが予想されるからだ。要所要所にアンテナを置き、電波をリレーすれば、地下深く潜《もぐ》ってもミスターWとの通信は確保されるはずである。ミスターWはあらゆる障害物《しょうがつぶつ》を突《つ》き抜《ぬ》けて信号を送れるエーテル発信器も開発しているが、これはまだ音声や画像が送れないという欠点がある。 「これ、お願いね」  ジャムはもう一個の中継アンテナをガンチェリーに手渡《てわた》した。 「行くぜ」  ガンチェリーはためらうことなくエッジの腕に身を委《ゆだ》ねた。エッジは彼女の腰《こし》を抱《だ》き、壁際《かべぎわ》の闇の中に後退した。そのまま闇に溶けこむように姿を消す。一瞬ののち、二人の姿は二〇メートルの深さのシャフトの底、シャドーキックのすぐ横に出現した。 「着いた?」ジャムが穴の底に呼びかける。 「ああ。いつでも来いよ」ガンチェリーの声がシャフトの闇に反響《はんきょう》する。 「じゃあ……」  ジャムのほっそりした身体《からだ》が小さな無数のスパークに覆《おお》われたかと思うと、人型をした青い光の集合体になり、中継アンテナにすっと吸いこまれた。ほとんど同時に、ガンチェリーの持っているもう一個のアンテナから青い光が飛び出し、人間の姿になる。スパークが消えると、レオタード姿で眼鏡をかけたジャムが立っていた。  影《かげ》から影への移動がエッジの特殊《とくしゅ》能力であるように、通信回線(有線、無線を問わず)を通して高速で移動できるのがジャムの能力なのである。ただし、エッジと違って移動できるのは自分だけ。他人を運ぶことはできない。 「次はここ、掘《ほ》るのかよ?」かなりの厚みがありそうなコンクリートを靴底《くつぞこ》で蹴《け》って、エッジが面倒臭《めんどうくさ》そうに言った。「たまんねえなあ」 「掘らなきゃ入れないでしょ?」とジャム。 「エッジ、これはおぬしの仕事でござる」とシャドーキック。 「期待してるぜ」ガンチェリーは笑って肘《ひじ》で小突く。 「まったく……俺《おれ》のナイフはこんな土木作業のためにあるんじゃないんだぜ!」  そう言いながらも、エッジは光の刃《やいば》を床《ゆか》に叩きつけはじめた。  少しコンクリートを砕《くだ》いてほ、他の三人が破片を取り除く。穴が少し大きくなったところで、エッジがさらに攻撃《こうげき》を加える——その地道な作業の繰《く》り返しで、一五分ほどもかかって、人が通れるほどの穴が開いた。  モントーク基地の封印は一七年ぶりに解かれたのである。 「ちくしょう。やっはこの服暑いぜ、ミスターW……」  妖銃《ようじゅう》シルバーバレルを構えて油断なく進みながら、ガンチェリーが小声で毒づいた。地下二〇メートルのこの通路は、地上よりいくぶん涼《すず》しいとはいえ、やはり真夏、気温は摂氏《せっし》三〇度近い。飛行船を出てまだ三〇分も経《た》っていないというのに、もう腋《わき》の下や胸《むね》が汗《あせ》でぐっしょり濡《ぬ》れている。  もっとも、汗ばむのや息苦しいのは、服のせいばかりではない。 「しっかし、派手にやったもんだなあ……」  床に散乱する軍服の切れ端《はし》、砕《くだ》けた白骨、壁に飛び散った茶色い染《し》みなどを見回し、エッジはあきれ顔だった。通路はどこもかしこもこの状態なのだ。遺体の数は数えようがないが、犠牲者《ぎせいしゃ》は少なく見積もっても二〇人は下らないはずである。 「あのファイルによれば、何十匹っていうモンスターが同時に出現して、暴れ回ったそうだから……」  そう解説するジャムの顔は蒼《あお》ざめており、今にも吐《は》きそうだった。現場に出ることの少ない彼女《かのじょ》は、こうした光景に慣れていない。 「かなりのパニックだったようでござるな」壁に残っているマシンガンの弾痕《だんこん》を見て、シャドーキックはうなった。「軍が慌《あわ》てて封印したのも無理ないでござる」 「……ほんと、ホーンテッドマンションよりスリルあるぜ」  ガンチェリーの声はかすかに震《ふる》えている。くだらないジョークでも言っていないと、精神の平衡《へいこう》が保てないのだ。 「しかしよお、そのモンスターども、どこに行っちまったんだ?」  エッジだけは他の三人と違《ちが》い、少し拍子抜《ひょうしぬ》けしていた。派手なバトルを覚悟《かくご》していたのに、ここに入ってからまったく動くものの気配を感じないのだ。 「分からないわ」とジャム。「もしかしたら、テスラ・ジェネレーターが停止したせいで消滅《しょうめつ》したのかも……」 <それはないな> 会話をモニターしていたミスターWが口をはさんだ。 <ジェネレーターは単なるきっかけにすぎない。ひとたび実体化したモンスターは、装置とは関係なしに存在し続ける> 「だったら……?」 <私の考えでは、おそらく地下に閉じこめられた彼《かれ》らはお互《たが》いに殺し合ったんだろう。生き残ったものも飢《う》えで全滅——>  その解説は、まだ終わってもいないのに、間違いであることが証明された。  ジャムが悲鳴を上げた。いきなり側面の扉《とびら》が開き、毛むくじゃらの黒い怪物《かいぶつ》が飛び出してきたのだ。体格はゴリラのようで、顔はボリス・カーロフ演じるフランケンシュタインの怪物のようだ。ガンチェリーは銃を向けたが、間にエッジが立っているので撃《う》てない。怪物は恐《おそ》ろしい咆哮《ほうこう》を上げ、丸太のような腕《うで》を振《ふ》り上げて、エッジに殴《なぐ》りかかってきた。  エッジは冷静に対処した。怪物の攻撃《こうげき》を見切ってかわすと、風のような素早さでその懐《ふところ》に飛びこみ、左手の手刀を叩《たた》きこんだのだ。怪物の厚い胸板に、少年の手が肘のあたりまでめりこむ。そのまま心臓をつかみ、一気に引きずり出す。  不思議なことに、怪物の胸には穴どころか傷ひとつなく、血の一滴《いってき》も流れていなかった。怪物はさすがに面食らった様子で、自分の胸と、少年の手の上でどきどき脈打っている灰白色《かいはくしょく》の心臓を見比べている。 「一度だけ改心のチャンスをやる!」ガンチェリーはポジションを変え、怪物の頭部に狙《ねら》いをつけた。「二度はやらねえ! 心を入れ替《か》えるなら——」  あいにくと怪物には英語を理解できるほどの知能もないようだった。振り返ると、今度はガンチェリーに襲《おそ》いかかろうとする。  ガンチェリーは迷わず発砲《はっぽう》した。コルトピースメーカーのすさまじい銃声が地下通路に響《ひび》き渡り、ジャムは思わず耳を押《お》さえた。頭部を吹《ふ》き飛ばされた怪物は、そのままよたよたと歩き続け、ガンチェリーの横を通り過ぎ、壁にぶつかってようやく倒《たお》れた。同時に、エッジが手にしていた心臓が鼓動《こどう》を止める。 「……全滅した、とか言ったっけ?」  エッジは怪物の心臓を無造作に床に投げ出した。べちゃりと床に落ちた心臓は、早くも空気が抜《ぬ》けたようにしぼみはじめた。怪物の巨体《きょたい》もぐずぐずと崩《くず》れ落ち、灰の山に変化してゆく。食料もなしに一七年間も生き続けた頑強《がんきょう》な怪物にしては、あっけない死に方だ。 <私もたまには間違《まちが》える> ミスターWは平然としていた。 <まあ、今のが最後の一匹だろう> 「……そうあってほしいもんだな」  ガンチェリーは切実にそう願っていた。  さらに地下|施設《しせつ》を探索《たんさく》すること数分、意外にあっさりと目的の場所が見つかった。 「これだわ!」  ジャムは恐怖《きょうふ》を忘れ、歓声《かんせい》を上げて駆《か》け寄った。  そこは小型飛行機が三機ぐらい格納できそうな巨大な空間で、床面積のほとんどは大がかりな古臭い装置に占拠《せんきょ》されており、まるで何かの工場のようだった。馬がくぐり抜けられるほど大きなコイルが二基、向かい合って設置されており、その間にはなぜか木製の椅子《いす》が置かれている。周囲には小型のコイル、コンデンサ、変圧器、計器類がごちゃごちゃと並んでおり、複雑にからみ合ったケーブルで接続されていた。それらの背後には、箱型のディーゼル発電機が黒々とそびえ立っている。 「何だよ、このガラクタ? こんなのが探《さが》してたものなのか?」  エッジは軽蔑《けいべつ》の視線を周囲に投げかけた。無理もない。装置はどれもこれも半世紀前の代物《しろもの》で、埃《ほこり》が積もり、オイルで汚《よご》れている。価値があるとはとても思えない。 「すごい発見よ!」ジャムは眼鏡の奥《おく》で瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせた。「テスラ・ジェネレーター! あのニコラ・テスラの生涯《しょうがい》最後の発明——博物館で保存すべき逸品《いっぴん》だわ!」  一九四〇年代前半、第二次世界大戦が激しさを増していた頃《ころ》、アメリカ海軍はドイツ軍が敷設《ふせつ》した磁気|機雷《きらい》に悩《なや》まされていた。  地球は巨大な磁石であり、北極から南極へ、磁力線が走っている。鉄は海水よりも透磁率《とうじりつ》が高いため、何万トンという鉄の塊《かたまり》である軍艦《ぐんかん》の周囲では、地磁気の磁力線に歪《ゆが》みが生じる。特に歪みが集中するのは艦首と艦尾《かんび》だ。磁気機雷はその磁力線の歪みを感知して爆発《ばくはつ》するのである。歪みの大きさからは艦の大きさが推測できるので、大きな軍艦だけを狙って爆発するようにセットしたり、艦が通り過ぎる瞬間を狙って爆発し、スクリューを破壊《はかい》することも可能だった。当時としては最新の科学技術を結集したこの兵器のおかげで、多くの軍艦や商船が犠牲《ぎせい》になったのだ。  事態を重く見た海軍は、磁気機雷を無効化する研究に乗り出した。船に強力なコイルを搭載《とうさい》して、大きな磁場を発生させ、地磁気の歪みを修正してやれば、原理的には磁気機雷のセンサーをあざむくことが可能だ。艦は磁気機雷に対して�透明�になるわけだ。この極秘《ごくひ》プロジェクトは <レインボー計画> と名づけられた。  地磁気の歪みを修正するには、強力なコイルと、コンパクトで大電力を供給できる発電機が必要であった。海軍が目をつけたのは、電磁気学の専門家であり発明家でもあった奇才《きさい》ニコラ・テスラである。彼は晩年、発電機の改良に取り組んでいたのだ。だが、海軍と仲が悪かったテスラは <レインボー計画> への協力を拒《こば》み、自分の研究している新型発電機の秘密を軍に渡《わた》そうとしなかった。  一九四三年一月、テスラが死亡すると、FBIがただちに彼の残した大量の書類を押収《おうしゅう》。その中から発見された新型発電機の設計図は海軍の手に渡り、 <レインボー計画> に利用されることになった。  かくして一九四三年一〇月、フィラデルフィアの海軍|工廠《こうしょう》で、のちに伝説となる実験が行なわれた。設計図通りに組み立てられたテスラの発電機は、駆逐艦《くちくかん》 <エルドリッジ> に積みこまれた。発電機のスイッチが入れられると、艦の各所に設置されたコイルに電流が流れ、艦を強い磁場で包みこんだ。  結果は——大失敗であった。地磁気の歪みを修正することができなかったばかりか、乗員に体調の異状を訴《うった》える者が続出したのだ。幻覚症状《げんかくしょうじょう》に見舞《みま》われ、身体《からだ》が燃え上がったり、同僚《どうりょう》が壁《かべ》の中に消えるのを見たと報告する者もいた。彼らの証言が誇張《こちょう》されて洩《も》れ伝わり、やがて「フィラデルフィア・エクスペリメント」の伝説を生むことになる。  実験の最中、コイルの傍《そば》にいたキャメロン・ハワードという技術士官が忽然《こつぜん》と姿を消した。消える瞬間《しゅんかん》は誰《だれ》も見ておらず、発作的に海に飛びこんだのではないかと推測されたが、死体は発見されなかった。  海軍はこの現象を、強い磁場が人体の神経組織にもたらした悪影響《あくえいきょう》と結論した。研究は見こみがないと判断され、 <レインボー計画> は中止された。  一九六九年、空軍がこの埋《う》もれた計画に目をつけ、 <エルドリッジ> から下ろされた古い機材一式を閉鎖《へいさ》されたモントーク基地に運びこみ、研究を再開した。今度の目的は磁気機雷対策ではない。磁場が人体に与《あた》える影響の研究である。時はベトナム戦争のさなか、密林に潜《ひそ》むゲリラを攻撃《こうげき》するのに磁力兵器が使えないか、と考えられたのだ。  この研究は <フェニックス計画> と名づけられた。  磁場が周囲に悪影響を及《およ》ぼさないよう、実験は地下深くの秘密施設で行なわれた。慎重《しんちょう》に発電機の出力を絞《しぼ》って、人体実験が繰り返された。すぐに分かったのは、幻覚症状をもたらすのはテスラ・ジェネレーターとコイルの組み合わせだということだ。不思議なことに、他の発電機からの電流では、何も奇妙なことは起こらないのだ。  この発電機には他にもいくつか不可解な点があった。基本的にはディーゼル・エンジンを利用した発電機なのだが、時として異常に高い電圧——理論上ありえないような電圧を発生させるのだ。測定器が急に反応しなくなったり、装置の写真を撮影《さつえい》しても何も写っていなかったことがあった。設計図を元に、まったく同じ発電機を組み立ててみたが、同じ現象は起きなかった。技術者は首をひねり、現代科学では説明できないこの怪現象《かいげんしょう》の解明に挑《いど》んだ。  そして一九七二年、ついに彼《かれ》らは真相を探《さぐ》り当てた。無生物の妖怪化《ようかいか》——日本でいう「付喪神《つくもがみ》」という現象だったのだ。  テスラは奇行が多く、他の惑星《わくせい》との無線交信を構想したり、「電気の力を使えば地球を割ることもできる」などと豪語《ごうご》する人物であった。そのため、人々から奇異の目で見られ、多くの荒唐無稽《こうとうむけい》な伝説が生まれた。  ある時、彼がニューヨークのビルの中で、電気式のバイブレーターで鋼材を振動《しんどう》させる実験を行なっていたところ、周囲のビルにも振動が伝わって住民が驚《おどろ》き、警官が出動する騒《さわ》ぎになった。この珍事件《ちんじけん》はのちに「テスラが地震《じしん》兵器を発明した」という伝説を生んだ。  彼はまた、電線を使わずに電力を移送する研究に取り組んでおり、一八九九年にはコロラドスプリングスの高原に実験のためのタワーを建設した。テスラの理論そのものは決して非現実的なものではなかった。だが、人々はそのタワーが画期的な新兵器だと噂《うわさ》し合った。その年にアメリカ西部に異常気象が起きると、「テスラが発明したのは気象をコントロールする兵器だ」という伝説が生まれた。  こうしたナンセンスな伝説の数々は、彼の晩年までついて回った。テスラは「数百マイル先の爆弾《ばくだん》を溶《と》かすことのできる特殊《とくしゅ》光線を発明した」とか「燃料の要《い》らない画期的な発電機を開発している」とか噂されたのである。  そうした人々の妄想《もうそう》が、テスラが生涯最後に取り組んでいた研究——新型発電機に妖怪としての生命を与《あた》えてしまった。テスラ・ジェネレーターは設計図通りの働きをするだけではなく、まさに人々が思い描《えが》いた通り、物理法則を無視して無からエネルギーを生み出すことのできる魔法《まはう》のマシンになったのだ。  この研究により、妖怪が人の想《おも》いから生まれることが立証された。宇宙人、UFO、ビッグフット、ネッシー、悪魔、妖精、天使……それらの存在は、すべて人の心から生まれたものだったのだ。  この間題について、空軍上層部はCIAと協議した。時あたかもニクソン大統領のウォーターゲート・スキャンダルが明るみに出て、アメリカ全土が揺《ゆ》れていた頃《ころ》。混乱を避《さ》けるため、この事実は外部には絶対に公表しないことが決定された。  CIAは人間に混じって暮らしている妖怪をひそかに探し出す作戦を開始、八〇年代前半までには、アメリカ全土で九〇体の妖怪を確認《かくにん》した。のちに彼らのうち何人かがスカウトされ、特殊部隊を結成することになる—— <ベクター・アルファ> の誕生である。  一九八三年、悲劇《ひげき》が発生した。  空軍は七二年以降も、モントーク基地でテスラ・ジェネレーターの兵器への転用の可能性を研究していた。やがてレーガン大統領の時代になり、SDI構想とのからみで、宇宙兵器の開発に多額の予算がつく見こみが出てきた。  功をあせった研究者たちは、取り返しのつかないミスを犯《おか》した。それまで万一の事態を警戒《けいかい》して一度も試《ため》していなかった実験——テスラ・ジェネレーターを最大出力で運転する実験をやってしまったのである。  ファイルによれば、この後に起こったことはかなり混乱している。ジェネレーターが最大出力に達した瞬間《しゅんかん》、地下|施設内《しせつない》に何十体もの怪物が出現し、人間を襲《おそ》いはじめたらしい。怪物は大きさも姿も様々で、人間のようなものもいれば、野獣《やじゅう》のようなもの、骸骨《がいこつ》のようなものもいたと報告されている。兵士たちは銃《じゅう》で対抗《たいこう》したが、倒《たお》しても次から次に現われる怪物たちには手の打ちようがなかったようだ。  技術者はジェネレーターを止めようとしたが、驚いたことに、スイッチを切っても、ケーブルを切断しても、マシンは動き続けた。制御《せいぎょ》装置の真空管を片《かた》っ端《ばし》から叩《たた》き壊《こわ》すと、ようやくジェネレーターは沈黙《ちんもく》し、怪物の発生は止まった。しかし、すでに生み出された怪物たちによって、地下施設の機能は完全に麻痺《まひ》してしまった。  ついに撤退《てったい》命令が出された。生き残った兵士と技術者たちがどうにか脱出《だっしゅつ》した後、地下施設はコンクリートで閉ざされ、モントークの悪夢は封印《ふういん》されたのである。 「じゃあ、これがモンスターを生み出すマシンってわけ?」  ガンチェリーは警戒を緩《ゆる》めることなく、銃を構えて油断なくあたりを見回しながら、ゆっくりとジェネレーターに歩み寄った。マシンは完全に沈黙しており、危険はないように見える。  彼女が興味をそそられたのは、コイルの間に置かれた椅子《いす》だった。どうしてこんなところに椅子があるのだろう? 「変ですね」装置を観察しながら、ジャムが首をひねる。「ファイルでは、技術者がジェネレーターを破壊《はかい》したことになっていますが、それらしい痕跡《こんせき》がありません」 <やはりな> ミスターWの声は、予想が当たって満足そうだった。 <まだジェネレーターは生きている。一七年の間に再生したに違《ちが》いない>  エッジは驚いた。「再生って、機械がか?」 <何も驚くことはなかろう。私やロードレイザーのような例がある> 「あ、そっか」 「では、こいつも人間に変身するのでござるか?」  沈黙したマシンを見渡《みわた》しながら、シャドーキックは気味悪そうに言った。 「どうかしら。見たところ知能はなさそうだけど……だめ、触《さわ》っちゃ!」 「え?」  ジャムの警告は遅《おそ》すぎた。ガンチェリーが子供らしい好奇心を発揮《はっき》し、椅子に触ってしまったのである。  ぶん……。  低いハム音とともに、装置のランプが次々に点灯した。真空管が熱を帯び、赤く光りはじめる。テスラ・ジェネレーターの発する振動が床《ゆか》を震《ふる》わせる。  ガンチェリーの愛らしい顔が蒼白《そうはく》になった。 「オ、オ、オレ、オレ、何にもしてねえぞ! ちょ、ちょっと触っただけなのに……」 「知ーらねっと……」  エッジは気楽な口調でつぶやきながらも、ナイフを構え、いつでも戦える体勢に入っていた。シャドーキックも手裏剣を構える。ジャムもカメラを手に、あたりをきょろきょろ見回した。静電気が発生しているらしく、ガンチェリーの銅色の髪《かみ》が逆立っている。  ジェネレーターのうなりはぐんぐん高まってゆく。一七年間|眠《ねむ》り続けていた機械が、人に触《ふ》れられたことで目覚めたのだ。メーターの針が跳《は》ね上がり、誰《だれ》も触っていないのにナイフスイッチが持ち上がる。 <実験開始> と書かれたライトが点灯する。  うなりがひときわ高まったかと思うと、コイルの間に激しい放電が走った。 「うわっ!?」  ガンチェリーはびっくりして飛びすさった。放電が消えた後、たった今まで空っぽだった椅子の上に、人影《ひとかげ》が出現していたのだ。  異変はどうやらそれだけのようだった。メーターの針がゆっくりと元に戻《もビ》ってゆく。ジェネレーターのうなりは急速に小さくなり、ランプも消えてゆく。 「そんな……」ガンチェリーは息を呑《の》んだ。 「悪い冗談だな、おい……」エッジも唖然《あぜん》となっている。  椅子にはもう一人のガンチェリーが座《すわ》っていた。鋼色の髪も、特製のCIDを着ているのも同じなら、だらんと垂らした右手に銃《じゅう》を握《にぎ》っているのも同じ——違うのは、頭の右半分を吹《ふ》き飛ばされ、眼《め》をかっと見開いて息絶えていることだ。  いくら意志の強い少女でも、さすがに自分の死体に近づく勇気はない。代わりにエッジが近づき、左手から手袋《てぶくろ》を脱《ぬ》がせて脈を調べた。 「……どう?」ガンチェリーがおそるおそる訊《たず》ねる。 「見事に死んでるな」少年は言わずもがなのことを言った。「まだ温かいし、血も固まってない。ついさっき死んだとこだ……うん?」  彼は死体の手首にはまった腕時計《うでどけい》に気づいた。 「今、何時だ?」  ガンチェリーは自分の時計を見た。「四時三分」 「こっちの時計は四時一三分一三秒になってるな。衝撃《しょうげき》で止まってる」 「つまり……」ガンチェリーはからからに乾《かわ》いた口の中を舌で舐《な》め回し、どうにか言葉を絞《しぼ》り出した。「つまり、タイムスリップ? オレは一〇分後に死ぬってこと……?」 <違う!> ミスターWの声がインカムから響《ひび》く。 <騙《だま》されてはいかん! モントーク実験はタイムトラベルとは何の関係もない! タイムトラベルがどうこうという話は、空軍が真相を隠蔽《いんぺい》するために流した偽《にせ》情報だ!> 「だ、だってげんに……」 <そいつは君の未来の姿なんかじゃない。モントーク・モンスターそのものだ! テスラ・ジェネレーターが生み出した怪物《かいぶつ》だ!> 「だって……何でそれがオレの格好してんだよ!? しかも死体……脳ミソまで見えてるじゃん! X指定だぜ、こんなの!」  ガンチェリーはパニックを抑《おさ》えるのに懸命《けんめい》だった。意志の強い彼女だからこそ、この異常事態に耐《た》えられたとも言える。普通《ふつう》の女の子なら、失神するか狂乱《きょうらん》していただろう。 <落ち着きなさい——講義が少し長くなるが、聞くかね?> 「早くしてくれよ」彼女はまた時計を見た。「オレの人生、あと九分しかねえから」 <量子力学は知っているかね?> 「マジ!? オレ、一三|歳《さい》だぜ!」 <なるべく分かりやすく説明しよう。よく聞きたまえ> ミスターWはこほんと咳払《せきばら》いした。 <現代物理学によれば、物質を構成する電子やクオークといった素粒子《そりゅうし》は、ビリヤードボールのような硬《かた》いものではない。雲のようなぼんやりとしたもので、空間に確率的に広がって存在している。ある電子は、ここに存在すると同時に、別の場所にも存在している> 「幽霊《ゆうれい》みたいなもんか?」 <そう思えば間違いない。一個の電子がどの地点に存在し、どの方向へどんな速度で動いているか、特定することはできない。素粒子の状態は確率的にしか表現できないんだ。専門用語で「波動関数」という。この宇宙のすべての物質は波動関数で構成されている——ここまでのところは分かったかな?> 「分かったことにしとくよ」  ガンチェリーは苛立《いらだ》っていた。自分の死が数分後に迫《せま》っているのかもしれないというのに、なぜ物理学の講義を聞かされなくてはならないのか? だが、ミスターWはマイペースで説明を続けている。 <波動関数の不思議さを的確に表現したのが、物理学者シュレディンガーが提唱した「シュレディンガーの猫《ねこ》」のパラドックスだ。波動関数を猫の生死に当てはめてみると、�生きていると同時に死んでいる猫�という奇妙《きみょう》なものを想定することもできる> 「半死半生ってこと?」 <違う。生きた猫と死んだ猫が重なり合って確率的に存在しているんだ。五〇パーセント生きていて、五〇パーセント死んでいる。あるいは、三〇パーセント生きていて、七〇パーセント死んでいる……といった具合に> 「そんな変な猫、見たことないぜ」 <当然だ。「シュレディンガーの猫」は箱の中に閉じこめておくことはできるが、決して見ることはできない。箱の蓋《ふた》を開けて中を覗《のぞ》いたとたん、波動関数は収束する。つまり、猫は見られた瞬間《しゅんかん》、一〇〇パーセント生きているか、一〇〇パーセント死んでいるか、どちらかに決定されてしまう。だから誰も�生きていると同時に死んでいる猫�を見ることはできない……> 「どうして?」 <分からない。それは現代物理学の最大の謎《なぞ》だ。人間が何かを観測するという行為《こうい》が、なぜか波動関数を収束させる。だから人間の目に見える範囲《はんい》の宇宙は、常にかっちりしていて、決定論的で、筋が通っているように見える——だが、それは錯覚《さっかく》なんだ。宇宙の実相は波動関数であり、すべての物質は「シュレディンガーの猫」なんだ> 「ふーん……」 <さて、ここでちょっと話を飛躍《ひやく》させてみよう> 「まだ飛躍してなかったのかよ!?」 <本題はここからだよ> ミスターWはなぜか楽しそうだった。 <この世界の裏側に、もうひとつの宇宙——�|影の宇宙《シャドー・ユニバース》�とでも呼ぶべき世界が存在すると仮定してみよう。シャドー・ユニバースは無人で、混沌《こんとん》とした波動関数の集まりであり、実体を持たない膨大《ぼうだい》なエネルギーが渦巻《うずしま》いていると仮定してみよう) 「『スタートレック』にそんなの出てこなかったっけ?」 <あったかもしれんな。いいかね、人間はこの宇宙だけではなく、シャドー・ユニバースの波動関数をも収束させる。ただし、収束のメカニズムが微妙《びみょう》に異なる。この宇宙の波動関数を収束させるのは人間の観測という行為——「ここに猫がいる」と確認《かくにん》する行為だ。それに対し、シャドー・ユニバースの波動関数を収束させるのは、人間が「ここに猫がいる」と信じる行為だ。実際には何もいなくても、人間は「いる」と信じてしまうことがある。信念が強くなると、シャドー・ユニバースのエネルギーは形となり、こちらの世界に実体化する……>  ようやくガンチェリーたちにも話の筋道が見えてきた。 「つまり、俺《おれ》たちはそうやって生まれたってわけか?」とエッジ。 <あくまで仮説ではあるが、それで多くの謎の説明がつく。私たちの肉体は、半分はシャドー・ユニバースに属しているんだ。たとえばエッジ、君の放つ破壊《はかい》エネルギーは、通常のエネルギー保存則では説明がつかない。シャドーキックの手裏剣《しゅりけん》はどこからともなく無尽蔵《むじんぞう》に出てくる。シルバーバレルの銃弾《じゅうだん》もそうだ) 「確かに」シャドーキックは神妙《しんみょう》にうなずいた。「拙者《せっしゃ》らはシャドー・ユニバースのエネルギーを汲《く》み出し、形にしているのでござるな?」 <少なくとも空軍の科学者たちはそう推論している> 「じゃあ、このジェネレーターも?」とガンチェリー。 <ああ。シャドー・ユニバースから取り出したエネルギーを電気に変換《へんかん》することで、入力を上回る電力を発生させている。ただし、ジェネレーター自身には意思も知能もないので、エネルギーには形も方向性もなく、発生パターンも不規則だ。それなら、人間の意志によってエネルギーに方向性を与えてやったらどうだろう? 無尽蔵のエネルギーを自由に操ることができれば、強力な破壊兵器になるのではないか——軍の連中はそう考えた> 「それで実験をしてみた……」 <危険な実験をな。その椅子《いす》に被験者《ひけんしゃ》を座《すわ》らせ、意志の力でジェネレーターを操ろうとした……その結果が例の惨事《さんじ》だ。ジェネレーターが暴走し、地下|施設内《しせつない》にいたすべての人間の恐怖心《きょうふしん》や妄想《もうそう》を実体化させてしまったんだ> 「ということは……」ガンチェリーは自分そっくりの惨殺死体に目をやった。「これはオレの心が生んだってこと?」 <ああ——さっきの会話を思い出してみたまえ。君が最も恐《おそ》れていることは何だ?> 「自分が死ぬこと……」  ガンチェリーは正直に答えた。死ぬのはこわい。やるべきことをやり残したまま人生を絶たれるのは、たまらなく恐ろしい。それ以上に恐ろしいのは、母を悲しませてしまうことだ。「生命を粗末《そまつ》にしない」という約束を破ってしまうことだ……。  約束は絶対に守る——それは彼女にとって誇《ほこ》りであるばかりか、強迫《きょうはく》観念に近いものだった。 <同時にそれは君の願望でもあるはずだ。死ねば楽になる。よけいなことで悩《なや》まなくて済むようになる——違《ちが》うかね?> 「……あんた、セラピストになるか?」  心の中のプライバシーを見透《みす》かされているような気がして、ガンチェリーは少し不愉快《ふゆかい》になった。 <まあ結論としては、その死体は君の未来ではない、ということだ> 「それは分かったけど……じゃあ、具体的にどうすりゃいいんだよ?」またちらっと時計を見て、「もうあと四分もねえぞ」 <君が信じなければいい。四時一三分一三秒に何も起きないと信じれば、何も起きない。だが、もし信じられなかったら……> 「どうなる?」 <現実になる可能性があるな>  ガンチェリーは大きくため息をついた。これまで多くの敵と戦ってきたが、これほど厄介《やっかい》な敵は初めてだ——自分自身の心とは。 「……あのさ、ここから離《はな》れた方がいいんじゃないかな?」ジャムの顔にもあせりの色が浮《う》かんでいた。「できるだけこの機械から離れたら……」 「いや、オレは逃《に》げねえ」ガンチェリーはきっぱりと言い切った。 「だって……」 「ここで逃げたら、オレ、負け犬だからな。一生、自分の心に自信が持てなくなる。そんなの嫌《いや》だ」  彼女《かのじょ》はそう言うと、固い決意を秘めたエイプリルブルーの瞳《ひとみ》で、エッジ、シャドーキック、ジャムの顔を順々に見つめた。 「これ、たぶん、試練ってやつだと思うんだ。やらせてくれ」 「やれやれ」エッジは肩《かた》をすくめた。「好きにしろよ。どうせ言い出したら聞かねえんだから、お前って奴《やつ》は」 「そこがオレのいいところだ」 「自分で言うな!」  ジャムが時計を見た。「……あと二分よ」  シャドーキックがすっと進み出た。顔を覆面《ふくめん》で覆《おお》っているので、相変わらず表情はよく分からない。細く鋭《するど》い眼《め》でガンチェリーを見下ろし、肩に手をかける。 「よいか、『こわくない』と思ってはいかん。恐怖は誰《だれ》の心にもある。それを否定したり、ねじ伏《ふ》せようとしてはいかん。おのれの心をあざむくことは誰にもできぬ。おのれの内なる恐怖を肯定《こうてい》し、それと共存すること——それが真の勇気でござる」 「それって、ゼンってやつ? まあいいや。その方針でやってみるよ」  ガンチェリーは大きく深呼吸すると、眼を閉じ、瞑想《めいそう》に入った。 (<オレはこわい。死ぬのがこわい。すごくこわい。今にもションベンちびりそうだ。でも、死ぬわけにゃいかねえ。絶対に死ぬわけにゃ……だって、アニーを悲しませないって約束したんだから……ああ、でもこわい) 「俺との約束も忘れんなよ」彼女の心を読んだかのように、エッジが声をかけた。 「分かってる。忘れてねえよ」 「あと一分!」とジャム。「五九、五八、五七……」 「カウントダウンはやめろ!」エッジが怒鳴《どな》りつけた。「かえって緊張《きんちょう》しちまうだろうが!」 「……ごめんなさい」  ジャムはしゅんとなった。  暗い地下室の中、誰も身動させず、声も発しなかった。ジェネレーターも沈黙《ちんもく》しており、完全な静寂《せいじゃく》があたりを支配している。ガンチェリーの耳に入るのは、自分の息の音だけだった。 (そうだ。エッジとの約束もあるんだ。一八|歳《さい》になるまでは絶対に死ねねえぞ……そう、ものすごくこわいけど、それがどうした!? 恐怖なんかに呑《の》まれてたまるか。恐怖と共存してやる。恐怖と友達になってやるぜ)  だんだん気が楽になってきた。恐怖と友達になる——即興で思いついたフレーズにしては、自分でもしゃれていると思う。  ガンチェリーは眼を開けた。シルバーバレルのグリップを握《にぎ》り直し、全神経を集中して、あたりに油断なく目を配る。残り時間はあと二〇秒もないだろう。何か起きるなら、もうそろそろのはずだ。 「……Fear is my friend」を彼女は小声で歌うようにつぶやいた。「……Fear is my friend……Fear is my friend……」 「……何ぶつぶつ言ってんだ?」  エッジは心配になった。緊張のあまり、彼女が精神に異状をきたしたのではないかと思ったのだ。  実際には、ガンチェリーの心はこれ以上ないというぐらい平静で、澄《す》みきっていた。  時間がきた。  椅子の上の死体がむくりと起き上がり、彼女に銃《じゅう》を向けた。死体にしては驚《おどろ》くほど機敏《きびん》な動きだ。銃口がまっすぐに頭部を狙《ねら》う。だが、それよりもコンマ三秒早く、ガンチェリーは敵に狙いを定め、トリガーを引いていた。  一発目は死体の手にしていた銃を右腕《みぎうで》ごと吹《ふ》き飛ばした。二発目はCIDの厚いプロテクターをも貫通し、左胸の中で爆発《ばくはつ》した。この二発で、死体の上半身はほぼ消滅《しょうめつ》した。それでも下半身だけで立っており、かくかくと機械|仕掛《じか》けのような動作で歩いてくる。ガンチェリーは容赦《ようしゃ》なく三発目を撃《う》ちこみ、それを粉砕《ふんさい》した。  粉々になった少女の肉片《にくへん》と服の残骸《ざんがい》は部屋いっぱいに飛び散り、一同の頭の上からばらばらと降ってきた。  長い緊張から解放され、ガンチェリーはほっと力を抜《ぬ》いた。どうやら試練は乗り切った——恐怖に打ち勝ったのだ。 「おめでとう!」  気を取り直したジャムがぱちぱちと拍手《はくしゅ》する。 「拍手はやめろ」髪《かみ》の毛についた血まみれの肉片を払《はら》い落としながら、ガンチェリーは迷惑《めいわく》そうに言った。「最終回みてえだろ」 「ところで、エッジ」シャドーキックが訊《たず》ねた。「約束とは何でござる?」 「ああ、それはだな……」 「関係ねえだろ、そんなこと! うまくいったんだから!」  ガンチェリーは乱暴に二人の会話をさえぎった。  もし部屋がもう少し明るければ、彼女の頬《ほお》が赤らんでいるのが見えたはずである。 [#改ページ]    10 神の軍団  バージニア州アーリントン——  二〇〇〇年八月二四日・午後二時(東部標準時)—— 「これはフィンランドのヨエンスー大学のペンティ・セッターベルイが製作した、六世紀フィンランド北部における松の生長|状況《じょうきょう》を示すグラフです」  暗い室内。理知的な感じのする若い男の声だけが響《ひび》いている。壁《かべ》の大型スクリーンには無愛想な折れ線グラフが投影《とうえい》されていた。 「ご存じかとは思いますが、樹木の生長速度は気温や日照に大きく左右されます。日照時間の短い年は、樹木はあまり生長しません。ですから古い樹木の年輪を調べることで、その時代の気候が分かります。注目していただきたいのはここです」  レーザー・ポインターの矢印が円を描《えが》き、グラフが激しく上下している箇所《かしょ》を示す。 「五三五年には松はよく生育していますが、次の年には極端《きょくたん》に生長が停滞《ていたい》していることがお分かりと思います。その後、この停滞は五四二年まで続きます。これは北欧が五三〇年代後半に異常気象に見舞《みま》われたことを示します。次に——」  画面が切り替《か》わり、よく似た別のグラフが現われた。 「これはヨーロッパ全域のオークの生長状況です。やはり五三六年に生育が停滞しはじめ、五四〇年に最低になり、それからしだいに回復に向かっています」  また別のグラフ。 「これは南米チリの樹木の生長状況から割り出した気温グラフです。五三四年|頃《ごろ》に気温が一時的に高くなっていますが、それから急降下。やはり五四〇年に最低になっています」  他にも同様のグラフが次々に投影された。ペルーのマルカコチャ湖におけるカヤツリグサの繁殖《はんしょく》状況。アメリカ西部のバルフォア松とヒッコリー松の生長状況。シベリア中北部ハタンガの気温グラフ……そのいずれも、西暦五三〇年代中頃に大規模な気象異変が起き、その影響《えいきょう》が何年も続いたことを示していた。 「こうした異変は歴史的文書によっても裏づけられています。五三六年、東ローマ帝国《ていこく》の歴史家プロコピオスは、コンスタンティノープルにおいてこう書き記しています。『日光は一年中、輝《かがや》きを失って月のようだった。まったく日食のようだった』——同時代の歴史家、ヨーアンネースやスコラスティコスも、同じことを書いています。『太陽が暗くなり、その暗さが一年半も続いた。太陽は毎日、四時間ぐらいしか照らなかった』『昼の太陽は暗くなり、夜の月も暗くなった』……この年、ヨーロッパには夏が来なかったのです。このため、ヨーロッパ全域および中東で、旱魃《かんばつ》、豪雨《ごうう》、雹《ひょう》などの異常気象が続発し、農作物が壊滅《かいめつ》的な打撃《だげき》を受け、飢饉《ききん》が各地で発生しました。  ヨーロッパだけではありません。中国の年代記『南史《なんし》』には、五三五年一一月、『黄色い塵《ちり》が雪のように降った』と記録されています。中国北東部の両州《チンチョウ》では、真夏に雪が降りました。五三五年から翌年にかけて、中国各地が旱魃に見舞われ、大規模な飢饉が発生したことも、他の複数の史料によって裏づけられています。『北史《ほくし》』によれば、ある地方では人口の七〜八割が死亡し、人々は人肉を食べざるを得なかったそうです。朝鮮《ちょうせん》や日本の記録も同様で、やはり五三五年頃に大規模な飢饉が起きています。  これと関連しますが、やはり『南史』によれば、五三五年二月、南京《ナンキン》において、南西方向から巨大《きょだい》な雷鳴《らいめい》が二度聞こえたそうです。ただの雷鳴ならいちいち記録に残すはずはありませんから、よほど大きな爆発音だったのでしょう」 「火山の噴火《ふんか》じゃないのか?」  闇《やみ》の中から別の声が訊ねた。常識的な解釈《かいしゃく》に希望をつなごうとするかのように——だが、解説する男の声はその希望をあっさり打ち砕《くだ》いた。 「いいえ。中国の南西方向に火山はありません。それに、噴火があった年代は堆積物《たいせきぶつ》からすぐに分かります。地球全体の気象に影響を与えるほど大規模な噴火の痕跡《こんせき》を、地質学者が見逃《のが》すとは考えられません。現在までの調査では、世界のどの火山も、この時期に大噴火した形跡はないのです」 「では、何だというんだ?」 「唯一《ゆいいつ》、可能な解釈は『核《かく》の冬』です」 「何だと!?」 「『核の冬』です」解説者は冷静に繰《く》り返した。「核戦争、あるいはそれに匹敵《ひってき》する地球規模の大戦争により、大量の粉塵《ふんじん》と煤煙《ばいえん》が大気中に巻き上げられ、地球の空を何年も覆《おお》ったのです。それが全世界の気温を低下させ、異常な冷夏をもたらしたのです」 「信じられん……」暗闇から発せられる声は震《ふる》えていた。 「そんな大きな戦争があったのなら、どこかに記録が……」 「記録はあります。中世の史料によれば、ケント(現在のイギリス南東部)のオクタ王の治世、すなわち五二五年から五五〇年頃に、次のような事件が起きたと記されています。『ドラゴンやライオンなどの野獣《やじゅう》が空中で戦う奇景《きけい》が見えた。ケント国では大粒《おおつぶ》の血の雨が降った。その後、ひどい飢饉が続いた』……。同様に、中世の歴史家ロジャーは、五三五年のガリア(現在のフランス)で起きた事件について、こう書いています。『空全体が燃えているように見えた。雲から本物の血が落ちてきた。その後、恐《おそ》ろしい出来事が続々と起こった』……他にも、世界各地の伝承に、空で起きた大規模な戦争に関するものがI」 「もういい……」苦々しげな声が解説をさえぎった。「充分《じゅうぶん》に分かった——明かりを」  照明が点《つ》き、広い室内を照らし出した。重苦しい絶望の闇から解放された男たちほ、ほっと息をついた。 「以上が前回の大戦に関して、我々が知り得た概略《がいりゃく》です」そう言うと、NASAの科学|顧問《こしん》を務《つと》める天体物理学者は、手にしたファイルを閉じ、一同を見回した。「これまでのところで、何かご質問は?」  ここはポトマック河畔《かはん》に建つペンタゴン(米国防総省)の特別会議室。楕円形《だえんけい》のテーブルを囲んでいるのは、アメリカ合衆国の秩序《ちつじょ》と安全を守る各機関のトップクラスのメンバーである。陸・海・空軍および海兵隊の責任者。統合参謀議長。CIA(中央情報局)長官。NSA(国家安全保障局)長官。国防長官。ホワイトハウス首席|補佐官《ほさかん》。大統領補佐官……。  そしてもちろん、アメリカ大統領。 「何ということだ……」大統領は灰色の頭をかきむしり、蒼白《そうはく》な表情でつぶやいた。「何といぅことだ……」  アメリカの財政赤字を二九年ぶりに黒字に転じるなど、景気回復に尽力《じんりょく》した彼《かれ》だが、政治|献金疑惑《けんきんぎわく》と女性スキャンダルのせいで人気は急落。かろうじて罷免《ひめん》はまぬがれたものの、アメリカ大統領史にぬぐいがたい汚点《おてん》を残してしまった。このうえは、恥《はじ》の上塗《うわぬ》りをすることなく、ひっそりと残りの任期を終えてしまいたい——それが彼のささやかな願いだった。  だが、任期|満了《まんりょう》まであと半年足らずという時に、とてつもない大問題が降ってきた——まさに「天から降ってきた」のだ。アメリカの歴史上、これほど重大かつ不条理な問題を背負わされた大統領は、他にいまい。これに比べればキューバ危機など子供の遊びのようなものだ。 「君たちは!」彼は怒《いか》りと苛立《いらだ》ちを軍人たちにぶつけた。「いつから知っていたのだ、このことを!?」  軍人たちはばつが悪そうに顔を見合わせる。 「天使の復活が確認《かくにん》されたのは、六月一日の東京|大地震《だいじしん》の際です」答えたのはCIA長官だった。「それからただちに情報を収集し……」 「そんなことを訊《たず》ねてはいない!」大統領は興奮してテーブルを叩《たた》いた。「連中のことだ! あいつらが何千年も前から地球上に存在しているという事実を、いつ知ったのだ!?  <エンタープライズ> 事件の時も、私は背景について何も知らされなかったぞ!」 「空軍は四八年から注目していました」空軍情報部長がしぶしぶ口を開いた。「当時、墜落《ついらく》した未確認飛行物体の残骸《ざんがい》が回収され……」 「ロズウェルでか?」 「いいえ、アズテックです。当初はソ連の秘密兵器ではないかと思われ、のちには地球外生命体の可能性を真剣《しんけん》に考慮《こうりょ》するようになりました。しかし、七二年に <フェニックス計画> によってPNBの実在が明らかになり……」 「PNB?」 「パラノーマル・ビーイング(超自然的《ちょうしぜんてき》存在)です。それ以来、空軍およびCIAは彼らの軍事利用の可能性を研究してきました。その一方、一部のUFOマニアを操って、『空軍は異星人の死体を隠《かく》している』とか、『政府は異星人と密約を結んでいる』とか、『グルームレイクでひそかにUFOが開発されている』とかいったデマを流しました。MJ—12などという極秘《ごくひ》機関が存在するという偽《にせ》文書も創作しました。パラノーマル・ビーイングの正体が異星人だと、大衆に思いこませるためです」 「パラノーマル・ビーイング、ね」大統領は『イスラム原理主義者』と発音する時と同じような調子で、その言葉を口にした。「君たちはなぜそんなお上品な言葉を使いたがる? ストレートに言えばいいじゃないか——『悪魔《あくま》』と」 「彼らは悪魔ではありません」CIA長官が子供を諭《さと》すように言った。「悪魔も確かに彼らの一種ではありますが、それを言うなら天使もそうです。妖精《ようせい》も、巨人《きょじん》も、UFOも……」 「それに�神�も?」 「そう、�神�もです」長官は強くうなずいた。「CIAでは、彼らを『ヨウカイ』と呼称《こしょう》しています」 「ヨウ・カイ?」 「日本語です。直訳すればミステリアス・モンスターといったところですが、超自然的存在すべてを包含《ほうがん》した広い意味の言葉です。英語には適当な単語がありませんので。『モンスター』や『デーモン』や『ファントム』では意味が狭《せま》すぎます」 「まあいい」大統領は額に手をやり、ため息をついた。「スシやカラオケやピカチュウに続いて、日本語がもうひとつぐらい我々のボキャブラリーに増えても支障あるまい——で、そのヨウカイとやらは、君たちの友人なのかね?」 「ごく一部の者は我々に協力してくれています。八四年には、CIA内にヨウカイだけから編成された極秘チームが設立され、おもに超常現象事件の捜査《そうさ》に当たっています」 「そんな予算を誰《だれ》が認めた!? レーガンか?」 「彼に話すわけがないでしょう?」CIA長官は露骨《ろこつ》に軽蔑《けいべつ》の笑みを浮かべた。「あのがちがちのファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)に? 何をどう話せというのですか? 我々が�神�と呼んできたものは、我々の心が生み出した怪物《かいぶつ》にすぎないと? アメリカ国内には人間に化けた怪物がうようよ住んでいると? そんなことを言ったら、血迷って何をしでかすか分かったもんじゃありませんでしたよ!」 「正直、私も血迷いかけているよ」大統領は皮肉で応酬《おうしゅう》した。「こんな重大問題に関して、合衆国の最高権力者である歴代大統領だけが、蚊帳《かや》の外だったというわけか? 私や議会の許可なく予算を使っていたと? それは立派な背信|行為《こうい》だぞ!」 「必要な経費など、 <マンハッタン計画> に比べれば数千分の一です」CIA長官は平然と言い放った。「軍事予算のほんの一部を流用するだけで済んだのです」 「分かってください、大統領」首席補佐官がなだめた。「この件は絶対に大衆には知られてはならなかったのです。どんな混乱が起きるか予想できますか? 秘密の漏洩《ろうえい》を防ぐためには、真実を知る人間は少なければ少ないほどいいのです」  大統領は爆発《ばくはつ》しそうな怒りをどうにか抑《おさ》えた。言いたいことはいろいろあるが、ヒステリックにわめき散らしたところで、問題が解決するわけではない。 「まあいい。過去のことはこの際、不問に付すことにしよう。我々が考えねばならないのは、これから起きることだ」彼はNASAの科学者に向き直った。「一四〇〇年も前の戦争の記録など参考にならん。知りたいのは次の大戦のことだ。いったい何が起きるというのかね?」 「それについては、必要なデータがほとんどなく、憶測《おくそく》するしかありません」科学者は立ち上がって解説を再開した。「しかし、これだけは断言できます。彼らは『インデペンデンス・デイ』のように巨大なUFOに乗って攻《せ》めてくるわけではありません。あのような侵略《しんりゃく》方法はきわめて非効率的です。人類の滅亡《めつぼう》を企《たくら》むなら、もっと安上がりで効率のいい方法がいくらでもあるからです——明かりを」  また会議室が暗くなり、スクリーンに映像が投影《とうえい》された。今度は世界地図で、何百という赤い点が、おもに北半球に散らばっている。 「これは現在、全世界で稼動中《かどうちゅう》の原発です。全部で四三九基——これらがすべて破壊《はかい》されたと仮定しますと、放出された核分裂《かくぶんれつ》生成物によって、これだけの地域が汚染《おせん》されます」  地図上に汚染地域が毒々しい紫色《むらさきいろ》で表示された。北米大陸の広い範囲《はんい》、ヨーロッパのほぼ全域とロシアの一部、日本も含《ふく》めた極東地域……。 「言うまでもなく、これらは先進工業地域です。人体や農作物への直接的|被害《ひがい》はもちろん、何億という単位での住民の避難《ひなん》が必要となり、産業や経済が大打撃《だいだげき》を受けることは必至です。新たな大恐慌《だいきょうこう》が発生しますし、世界規模の飢饉《ききん》も起きるでしょう」 「チェルノブイリの四〇〇倍ものパニックか……」大統領はかすれた声でつぶやいた。「そう言えば、『黙示録《もくしろく》』にはチェルノブイリという単語が出てくるんだったな……」  チェルノブイリとはロシア語で「苦よもぎ」という意味である。『黙示録』の第八章には、たいまつのように燃えている「苦よもぎ」という星が天から落ちてきて、川の水を汚染し、多くの人間が死ぬというくだりがある。 「我々はチェルノブイリが彼らのテストケースではなかったかと考えています」そう言ったのはNSA長官である。「あの事故には不審《ふしん》な点があります。彼らが原発破壊による放射能汚染の影響《えいきょう》をシミユレートするため、また『黙示録』の預言を成就《じょうじゅ》するため、わざとチェルノブイリという名の原発を狙《ねら》ったのではないかと……」 「しかし、そう簡単に破壊できるものなのか? 原発には安全装置があるはずだ。テロ対策だって……」 「もちろんです。しかし、それらは予想される事故、予想されるテロへの対策にすぎません。姿が見えず、警報装置にもひっかからず、元素を変換《へんかん》し、人の心をも操る——そんな存在に対する備えなど、まったくないのです」  再び部屋が明るくなった。 「何ということだ……」大統領はまた頭を抱《かか》えた。「我々はせっせと原発を作って、彼《かれ》らが人類を滅《ほろ》ぼすための手助けをしていたのか……」  現在、世界で使われている商業用一次エネルギーのうち、原子力が占《し》める割合はわずか七パーセント。つまり、少し省エネを実行しさえすれば、世界は原子力なしでもやっていける。化石燃料には資源|枯渇《こかつ》や環境《かんきょう》汚染の問題もあるが、何十年もかけてゆっくりとソフトエネルギーに転換することは可能だ。  にもかかわらず、大国が原発を競《きそ》って建設したのは、核兵器開発とのからみや、電力業界の思惑《おもわく》があったからだ。それに気づいたヨーロッパ諸国は、脱《だつ》原発に向かって動き出している。九九年一二月に稼動したフランスのシヴォー原発二号|炉《ろ》を最後に、ヨーロッパでは新たな原発の建設計画はない。それでもなお、世界には四〇〇基以上の原発が稼動しており、危険な高レベル放射性|廃棄物《はいきぶつ》を休みなく生産している。  ちなみに、一〇〇万キロワットの原発一基が一年間で生み出す核分裂生成物は、広島に落ちた原爆がまき散らした量の一三〇〇倍に相当する。 「さらに危険なのは核兵器です」CIA長官が発言する。「ヴァンデンバーグ基地の例が示すように、彼らが核ミサイルに注目しているのは確実です。�汚染�された者への訊問《じんもん》からも、彼らのうち何人かが、『まもなく最終戦争が起きる』という預言を天使から授《さず》けられていたことが判明しています。すでに五〇人以上の�汚染者�を発見していますが、まだ少なからぬ数が核関連|施設《しせつ》にひそんでいると思われます。この危機が去るまで、すべての核弾頭から起爆装置を取りはずすことを提案します」 「それではアメリカは丸裸《まるはだか》になる!」戦略軍総司令官が抗議《こうぎ》した。「報復のために、最低限の核は残しておくべきだ!」 「報復ですと?」CIA長官は笑った。「誰に対してです? ロシア? 中国? 現在、我々が直面している敵に、核など通用しないのですよ。どうやって神の国にミサイルの照準を合わせるつもりですか?」 「しかし、核は我々だけが持っているのではない。他国のミサイルが合衆国に向かって発射されたらどうする?」 「モスクワや北京《ぺキン》には、すでに裏のルートから情報をリークしている」と大統領|補佐官《ほさかん》。「すでに彼らも対策を立てているはずだ」 「そう期待したいものですな」戦略軍総司令官は不満そうだった。「しかし万一、中国の核が我が国に落ちた場合、何の報復も行なわなければ、国民はどう思いますか? 現体制の弱腰《よわごし》を不服とし、アメリカ各地で保守派の怒《いか》りが爆発するのは目に見えている。下手をすれば内戦が勃発《ぼっぱつ》しますぞ!」 「それこそ彼らの思う壷《つぼ》ですな」とCIA長官。「報復すれば全面戦争に発展し、しなければ内戦——どっちに転んでも、利を得るのは彼らです」 「う……」  戦略軍総司令官もこの論理の前には沈黙《ちんもく》するしかなかった。 「おそらくそれが彼らのシナリオでしょう。どの国の体制にも�汚染�された者がひそんでいる。最初の核|攻撃《こうげき》と同時に、彼らはいっせいに立ち上がり、騒《さわ》ぎ立てる。『報復だ! 核のボタンを押《お》せ!』と——どの国のミサイルが最初に発射されるかは関係ない。一発でも発射されれば、彼らの勝ちなのです」 「やむをえない。この際、すべての核を一時|凍結《とうけつ》する」大統領は苦渋《くじゅう》に満ちた表情で決断を下した。「どれぐらいかかる?」 「ICBM(大陸間|弾道《だんどう》ミサイル)は二週間以内に」と国防長官。「問題はSLBM(潜水艦《せんすいかん》発射式弾道ミサイル)です。航行中の戦略|原潜《げんせん》をすべて呼び戻《もど》すのに時間がかかります」 「乗員がすでに�汚染�されている危険は?」 「SSBN(ミサイル原潜)の乗員は常に精神状態をきびしくチェックされています」海軍長官が自信たっぷりに言う。「異常があれば出港前に検査にひっかかっています」 「とりあえずそう信じておこう。できるだけ早く作業をはじめてくれ——他には?」 「まだまだあります」NSA長官が分厚いファイルをめくりながら、表情を曇《くも》らせた。「生物・化学兵器によるテロが心配です。『黙示録』には、疫病《えきびょう》や毒物による汚染が預言されています。天使たちはそれをヒントにするかもしれません」  大統領はうなった。「フォート・デトリックの例があるからな」 「あれからただちに、すべての生物兵器関連施設での管理を強化しました」陸軍参謀総長が弁明する。「二度と同様の不祥事《ふしょうじ》はないとお約束します」 「問題は軍関連の施設だけではありません」とCIA長官。「大学、病院、研究所……危険な病原体を入手できる民間施設は、国内だけでも五〇〇箇所《かしょ》以上あります。すでに彼らの手に生物兵器が渡《わた》っている可能性も考慮《こうりょ》すべきでしょう」 「対策は?」 「天使に操られている可能性のある組織の監視《かんし》を強化しています。イスラム原理主義者、ミリシア、プロ・ライフ派、カルト教団……」  それらはテロ事件を起こした、あるいは起こす可能性があるとして、以前から当局にマークされていた集団だ。九三年のニューヨークの世界貿易センタービル爆破《ばくは》事件は、イスラム過激派のテロリストのしわざだった。ミリシアはアメリカ各地に存在する民間武装組織で、キリスト教原理主義の思想がその中核にある。特に有名なのは九四年に結成されたミシガン・ミリシアで、銃《じゅう》規制反対、納税|拒否《きょひ》、反|連邦《れんぽう》、反国連、反銀行をスローガンに掲《かか》げて過激な活動を展開しており、九五年のオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の犯人として逮捕《たいほ》されたティモシー・マクヴェイは、ミシガン・ミリシアとの関係を取り沙汰《ぎた》されている。キリスト教の立場から妊娠《にんしん》中絶に反対するプロ・ライフ派は、中絶手術を行なっている病院への銃撃《じゅうげき》、医師の殺害、爆弾テロなどを続発させ、問題になっている。  彼らの共通点は、いずれも神の教えを盲信《もうしん》する一方、人命を軽視する傾向《けいこう》があることだ。天使が彼らの前に現われ、「時は来た。武器を持って立ち上がれ」と命じれば、何も考えずに従ってしまうかもしれない。  大統領は絶望的なため息をついた。「とてもじゃないが、すべてに目は届かんな」 「まったくです」 「それに消極的な対策ばかりだ。積極的な案はないのか? こちらから天使を攻撃することはできんのか?」  会議室を気まずい沈黙《ちんもく》が支配した。 「どうなんだね、ビジョンはないのか?」大統領は苛立《いらだ》って繰り返した。「海軍は? 空軍は? 天使に対してどう戦うつもりなんだね?」 「……率直《そっちょく》に申し上げますが」陸軍参謀総長が苦しそうに言った。「戦えません」 「何だと!?」 「まず技術的な問題があります。天使は目に見えないし、レーダーにも映らない。ミサイルもロックオンできません。我々の兵器では彼らを攻撃することは困難です。しかし、もっと大きいのは心理的問題です。我が国の兵士の大部分はキリスト教徒です。彼らに対して『天使を攻撃せよ』などと命じたら、どんな混乱が起きると思われますか?」 「その点については、空軍も検討を重ねました」と空軍作戦部長。「その結果、やはり攻撃は不可能という結論に達しました。下手に戦闘機《せんとうき》を出撃させても混乱を招くだけです。それどころか、パイロットたちは悪魔やドラゴンを——つまり我々の味方の側を攻撃しかねません」 「海軍も同じ結論です」と海軍長官。「 <エンタープライズ> 事件でも、艦長は艦を救おうとした側のヨウカイを攻撃しようとしました。同士討ちの危険を考慮すると、うかつに出撃命令は出せません」 「何ということだ……」  大統領は今日だけでもう二〇回目になるため息をついた。言うまでもなくアメリカは世界最大の軍事大国だ。冷戦時代に比べると大幅《おおはば》に国防予算が削減《さくげん》されたが、それでも年間二六〇〇億ドルを費《つい》やし、一四〇万人もの兵力を維持《いじ》している。  それが何の役にも立たないとは。 「ということは、ヨウカイどもにすべてまかせるしかないというのか? 我々は何もせずに戦いを観戦しているだけだと?」  国防長官がうなずく。「残念ながら、そういうことになります」 「彼らは勝てるのか?」 「分かりません。天使や、その背後にいる�神�の力はあまりにも強大ですので」 「彼らが敗れた場合はどうなる?」 「『黙示録』に書かれている通りになるでしょう」 「そんな抽象的《ちゅうしょうてき》なことでは分からん!」大統領は声を荒《あ》らげた。「もっと具体的に説明したまえ。我々は生き残れるのか? どうなんだ?」 「それについては、いちおうシミュレーションができています」  またNASAの科学者が立ち上がった。例によって部屋が暗くなり、スクリーンにCGが投影《とうえい》される。  北米大陸東海岸の地図だった。ニューヨークから東に二〇〇キロ、ロングアイランド沖《おき》を中心に、半透明《はんとうめい》の青い円が描《えが》かれている。半径は一〇〇キロ近くもあり、ロングアイランドの半分を覆《おお》っている。画面の端《はし》には <9/JUL> (七月九日)と表示されていた。 「これが神の国——ニュー・エルサレムに通じるゲートです。本来のゲートはイスラエル付近にあったのですが、前回の大戦で徹底的《てっていてき》に破壊《はかい》されました。なぜそれがロングアイランド沖に再出現したのかは、まだ分かっておりません。ゲートの存在が確認《かくにん》されたのは二か月前ですが、低高度を周回する軍事衛星の軌道《きどう》データの洗い直しを行なったところ、空間の歪《ゆが》みが原因と思われる摂動《せつどう》を発見しました。少なくとも第二次大戦中から存在したはずですが、ここ数年で急速に拡大したものと思われます。六週間前から、GPSとレーザー測距《そくきょ》システムによって歪みのサイズを計測していますが、加速度的に拡大を続けていることが判明しています」  映像が動き出した。カレンダーの数字が進むにつれ、風船が膨《ふく》らむように、青い円がゆっくりと膨張《ぼうちょう》してゆく。 <20/AUG> (八月二〇日)の時点では、円はロングアイランドの大半を覆い、ニューヨークにまで迫《せま》っていた。 「このままの割合で拡大を続けますと——」  カレンダーの数字が未来へ進む。青い円はさらに膨張を続け、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンを呑《の》みこんでいった。やがて東海岸全域を覆い尽《つ》くすが、それでもまだ拡大は止まらない。 <31/DEC> (一二月三一日)には、円の北側はカナダのオンタリオ州とケベック州の南半分を覆い、西はミズーリ州とイリノイ州の州境、南西端《なんせいたん》はフロリダ半島を越《こ》えてメキシコ湾《わん》にまで達していた。  映像は停止した。 「このように、今年の末にはゲートの直径は約二〇〇〇マイル(三二〇〇キロ)に達します。これによって、『黙示録』の最後の預言が成就《じょうじゅ》します」 「最後の預言?」 「『黙示録』第二一章にはこうあります」  科学者は手元にあったポケットサイズの聖書を取り上げ、読み上げた。 「『……更《さら》にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾《きかざ》った花嫁《はなよめ》のように用意を整え、神のもとを離《はな》れ、天から下って来るのを見た……都は神の栄光に輝《かがや》いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透《す》き通った碧玉《へきぎょく》のようであった……』」 「まさか……」  大統領はごくりと唾《つば》を飲んだ。彼《かれ》も聖書はひと通り読んだことがある。その後に続く文章を思い出したのだ。  科学者はさらに朗読を続ける。 「『……この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二〇〇〇スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、城壁《じょうへき》を測ると、一四四ペキスであった……』」  科学者の言葉とともに、画面にCGで描かれた立方体が現われた。クリスマス・プレゼントが入っていたのではないかと思えるカラフルな箱で、蓋《ふた》はなく、中は空っぽだった。虚空《こくう》でゆっくりと回転している。側面は、赤、青、緑、黄、紫《むらさき》など、一二色の縞模様《しまもよう》で塗《ぬ》られており、宝石のように美しくきらめいていた。  スクリーンの中で、箱が急に大きくなった。カメラが移勤し、中を覗《のぞ》きこむ。箱の底には地図か航空写真のようなものが貼《は》りつけられていた。カメラがぐんぐん降下するにつれ、白い雲、緑色の森と草原、四本の青い川などが見分けられるようになった。ミニチュアではない。広大な平野がすっぽり箱の中に入っているのだ。 「これが神の国、ニュー・エルサレムの想像図です」とてつもなく恐《おそ》ろしい事実を、科学者は淡々《たんたん》と解説した。「『黙示録』の記述によれば、一辺は一万二〇〇〇スタディオン。現代の単位に直すと一三八〇マイル(二二二〇キロ)。ゲートをくぐって向こう側に侵入《しんにゅう》したスペース・ブラザーの観測データも、これを裏づけています」  立方体の横に、比較《ひかく》のために月の図が現われた。月の直径は三四七六キロであり、ニュー・エルサレムはそれより少し小さい。  隠《かく》れ里は世界各地に何千箇所も存在するが、その多くは <うさぎの穴> のように直径数十メートル程度の小規模なものだ。数百メートル級のものは数少なく、一キロを超《ニ》えるものとなるとさらにまれで、十数例しか確認されていない。  ニュー・エルサレムの大きさは、まさに異様である。神の国の実在を確信する全世界の数十億人の信念が、史上最大級の隠れ里を生み出したのだ。 「底面の対角線の長さは一九五〇マイル(三一四〇キロ)ですから、今はまだ出てくることはできません。しかし、ゲートの直径が二〇〇〇マイルになれば、ゲートをくぐって地上に降臨できるわけです」  図が箱を下から見た映像に切り替《か》わった。箱の下に青い円が現われ、拡大する。円の直径が箱の対角線の長さを上回ると、箱は円を通り抜《ぬ》けて降下した。 「壁《かべ》の厚さは一四四ペキス、すなわち二一三フィート(六四・八メートル)。材質は、碧玉、サファイア、めのう、エメラルド、緑柱石、黄玉、ひすい、紫|水晶《すいしょう》などで、硬度《こうど》はきわめて高いと思われます。体積は二六億立方マイルで、これは月の約半分の大きさです。もっとも、城壁の内部はほぼ空洞《くうどう》と推測されますので、壁の材質の密度から計算して、質量は一〇の一八乗トン、月の質量の約七〇分の一といったところでしょう。中心に向かう重力は、立方体の角の部分で〇・〇〇二G——地球重力の五〇〇分の一ぐらいでしょう」 「少なくとも重力の影響《えいきょう》は心配しなくていいわけだな」陸軍参謀総長は動揺《どうよう》をごまかそうと、笑えないジョークを言った。 「いいえ。問題は重力ではなく潮汐力《ちょうせきりょく》です」 「潮汐力というと、潮の満ち引きを起こす、あれか?」 「はい。潮汐力は距離《きょり》の三乗に反比例します。ニュー・エルサレムの重心が地表から六九〇マイルの地点にあるとしますと、地球の重心からの距離は四六五〇マイルになります。これは月と地球の平均距離、二三万九〇〇〇マイルの約五〇分の一ですから……」 「計算はいいから、結論だけを」大統領が急《せ》かした。「時間がないのだ」 「はい、ニュー・エルサレムが地球に及《およ》ぼす潮汐力は、月が地球に及ぼす潮汐力の約一九〇〇倍と予想されます」  会議室内に軽いどよめきが起きた。 「誤解なさらないように」科学者は手を上げて騒《さわ》ぎを制した。「潮の高さが単純に一九〇〇倍になるわけではありません。海水の慣性や潮汐|摩擦《まさつ》など、複推な要因がからんできますから。しかし、北米大陸のすべての海岸線、および地球の裏側のオーストラリア西部の海岸線が、一〇〇フィート(三〇メートル)を超える高潮に見舞《みま》われることは間違《まちが》いありません」 「しかし、それはまだニュー・エルサレムが空にある場合だろう?」大統領|補佐官《ほさかん》が口をはさんだ。「降りてきたらどうなるんだ?」 「最も大きいのは降下地点における被害《ひがい》です。底面積は一九〇万平方マイル。これはカナダの面積の約半分に匹敵《ひってき》します。もっとも、底面積のすべてが地表と接するわけではありません。ニュー・エルサレムの底が平面であるのに対し、地球は丸いですから」  スクリーンには新たなCGが現われた。一辺五センチほどの立方体が、直径三〇センチほどの青いビーチボールの上に載《の》っている。接触点《せっしょくてん》がアップになると、立方体の重みでボールがわずかに歪んでいるのが分かった。  ニュー・エルサレムが正確な立方体であるのは、言うまでもなく、『黙示録』を書いたヨハネが、地球が丸いことを知らなかったからだ。彼にもう少し科学知識があれば、地球の丸みに沿ってニュー・エルサレムの形を湾曲《わんきょく》させていただろう。 「下敷《したじ》きになるのはこの地域です」  画面が再びアメリカ東海岸の地図に切り替わる。ロングアイランド沖を中心に、半径三〇〇キロの範囲《はんい》が影《かげ》に覆《おお》われている。ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストンが、影の中にすっぱり入っていた。 「ニューヨーク付近では、一平方フィートあたり約三〇万トンの荷重《かじゅう》がかかります。無論、いかなる建造物も持ちこたえられません。中心付近では、地殻《ちかく》は五マイルも陥没《かんぼつ》すると思われます。プレートに巨大《きょだい》なストレスがかかることにより、北米大陸各地、および北部大西洋における大地震《だいじしん》の発生は避《さ》けられません。さらに——」 「まだあるのか!?」 「はい。ニュー・エルサレムの出現により、地球の重心が変化します。北極の地軸《ちじく》は西経七二度線に沿って約一・三キロずれるでしょう。これにより、自転周期にも乱れが生じます。世界各地で地震が頻発《ひんばつ》するでしょうし、気象に与《あた》える影響は計り知れません。おそらく、今後数世紀にわたって、全世界が異常気象に見舞《みま》われ続けるでしょう」 「農業は壊滅《かいめつ》だな」首席補佐官が呆然《ぼうぜん》とつぶやく。「我々は飢《う》えて死ぬのか……」 「それは違います。注意していただきたいのは、ニュー・エルサレムの降臨はあくまで『黙示録《もくしろく》』の最終段階——世界が天使による災厄《さいやく》に見舞われた後に起きるということです。すなわち、これから一二月までの四か月間に、人類の大半は殺されています」 「それなのに、我々は何もできない……」大統領はがっくりと肩《かた》を落とした。「できるのは、祈《いの》ることだけか……」  そう言ってから、大統領はおかしなことを口にしてしまったと気づき、思わず苦笑した。  祈るだと? 誰《だれ》に対して?  地球上ではないどこか——  二〇〇〇年八月二五日午前〇時(東部標準時)——  そこは平和な森であった。樹々《きぎ》はみずみずしい緑の葉をつけ、色鮮《いろあざ》やかな果実をいつもたわわに実らせていた。地上にはあらゆる種類の花が咲き乱れ、さながらボッティチェリの絵のようだった。鳥がさえずり、蝶《ちょう》が舞っていた。ここには季節はなく、生きものたちが嵐《あらし》や雪に苛《さいな》まれることもなかった。永遠に心地よい春のままだった。  外の世界は夜だが、ここには夜はなかった。空には月も星もなく、太陽もなかった。一面の白く神々《こうごう》しい光が空を覆い、地上を優《やさ》しく照らし出している。  その空に、天使たちが舞っていた。  何百、何千、何万という数。みな金色の鎧《よろい》をまとい、白い翼《つばさ》を優雅《ゆうが》にはばたかせていた。隊列を組み、金色の大河となって空を流れてゆく。  その先頭を行くのはメタトロンだ。三六枚の巨大な翼をいっぱいに広げ、白い大輪の花となって空を滑《すべ》ってゆく。全身に分布した無数の鋭《するど》い眼《め》で、眼下の森を、空を、後に続く部下たちを睥睨《へいげい》していた。  後方から別の大隊が接近してきた。速度をゆるめ、メタトロンたちの行軍に並進《へいしん》する。騎兵《きへい》部隊である。赤や青や黄色の胸当《むねあ》てを着けた何千という天使の騎兵が、ライオンの頭と馬の胴《どう》、蛇《へび》の尾《お》を持つグロテスクな怪物《かいぶつ》にまたがって空を駆《か》けていた。怪物たちは蹄《ひづめ》で空を蹴《け》りながら、口からしきりに白煙《はくえん》を吐《は》いており、空をうっすらと曇《くも》らせていた。 「メタトロン!」  騎兵部隊を先導していた天使が声をかけてきた。大天使ミカエル——黄金の鎧をまとい、黄金の槍《やり》を手にしたその姿は、美しくも恐《おそ》ろしい。 「聞いたか!? ガブリエルが——」 「知っている」メタトロンはそっけなく答えた。「驚《おどろ》くことではあるまい? あの女のやったことは立派な反逆|行為《こうい》だ」 「それはそうかもしれんが……」ミカエルは内心の動揺《どうよう》を隠《かく》せない様子で、美しい顔を曇らせていた。「他に方法はなかったのか?」 「無理だな。大事な最後の作戦を前に、異分子を身内に置いておくわけにもいくまい」  伝統的な天使の大半は、男性、もしくは両性具有と想像されている(だから、女の誘惑《ゆうわく》に負けて堕落《だらく》する者も出てくるのだ)。聖母マリアに受胎《じゅたい》を告知したとされるガブリエルは、数少ない例外で、昔から女の姿で描《えが》かれてきた。おそらく、たとえ天使とはいえ、若い娘《むすめ》のところに男が忍《しの》んでくるのは不謹慎《ふきんしん》、と考えられたからだろう。  その優しい性格ゆえだろうか、ガブリエルは以前から <黙示録計画> に異議を唱え、人類を滅《ほろ》ぼさなくてもいいではないかと�神�に訴《うった》えていた。しかし、彼女の意見は天使の中では少数派で、嘲笑《ちょうしょう》され、黙殺されてきた。にもかかわらず人類との共存を訴え続け、あまつさえ妖怪《ようかい》たちと通じて神の国の情報を流そうとしたため、ついに、�神�の怒《いか》りに触《ふ》れ、放逐《ほうちく》されてしまったのである。 「彼女に同調していた少数の者も、すべて放逐された」 メタトロンの口調はどこか楽しそうにも聞こえた。「これで良かったのだ。不安要素は取り除かれたし、堕落しようとする者へのいい見せしめにもなった。今や我《わ》が軍は完全な一枚岩となったわけだ」 「ゲヘナか……」  怪物にまたがって空を駆けながら、かつての仲間の運命を想《おも》い、ミカエルは悲しそうにつぶやいた。 「……熱いのだろうな」  目的地が近づいた。  フットボール・グラウンドが何十面も取れそうな広場。地面は土ではなく、透明《とうめい》なガラスのようなものが広がっており、水晶でできたきらびやかなモニュメントが林立していた。この国には神殿《しんでん》も王宮もない。この国そのものが神殿であり、王宮だからだ。  その広場に天使の大群衆が集まっていた。メタトロンたちが率いる天使の、さらに何倍もの数の天使が、巨大なステージを中心に、扇状《おうぎじょう》に整列している。総勢七〇万を超《こ》える大軍団だ。彼《かれ》らは声を揃《そろ》え、自分たちの主を称《たた》える歌を、ヘブライ語で歌っていた。 [#ここから2字下げ] 聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな! 神であられる主、万物の支配者! 昔いまし、常にいまし、後に来られる方! [#ここで字下げ終わり]  メタトロンとミカエルの部隊は広場の一角に降下し、放射状の隊列の欠けている部分を埋《う》めた。一糸乱れぬ統制だ。メタトロンも着地し、数十枚の翼を後方に長くなびかせながら、勇壮な大合唱に送られて前に進み出る。  広場の中央は一段高いステージになっていた。広い階段の途中《とちゅう》には、ひときわ異様な姿の天使たちが立っている。  四人のケルビム(智《ち》天使)がいた。どれも腕《うで》が四本、翼が四枚あり、翼の表にも裏にもびっしりと眼がついている。二枚の翼でマントのように身体《からだ》を覆《おお》い、別の二枚を互《たが》いに触《ふ》れ合わせていた。頭には顔が四つ。正面は人間の顔で、右側はライオン、左側は雄牛《おうし》、後ろには鷲《わし》の顔があった。脚《あし》は棒《ぼう》のようで、磨《みが》かれた青銅のように光っている。その全身は常に炭火のような光に覆われており、断続的に小さな稲妻を発していた。  彼らの横にはそれぞれ一体ずつ、透《す》き通った緑色の車輪のようなものが浮《う》かんでいた。小さな輪を大きな輪が取り囲んでいる構造で、外枠《そとわく》にはずらりと眼がついている。二つの輪は別の速度でゆっくりと回転していた。機械のように見えるが、これでもれっきとした天使——トロウンズ(座天使)とかガルガリンと呼ばれる上級天使なのだ。  メタトロンとミカエルが階段を登りきると、ステージの上には天使の最高位である四人のセラフィム(熾《し》天使)が待ち受けていた。ケルビムに似ているが、腕は二本で、翼は六枚ある。二枚は頭上高く掲《かか》げて両端《りょうはし》を接し、二枚は横に広げられ、残る二枚はハート型の曲線を描いて垂れ下がり、脚を覆っている。顔はひとつしかなく、四人がそれぞれ、ライオン、雄牛、人間、鷲の顔を持つ。  セラフィムたちの背後には椅子《いす》が二四|脚《きゃく》あり、二四人の天使の長老が座《すわ》っていた。みな黄金の冠《かんむり》をかぶり、手に黄金の竪琴《たてごと》を持っている。  長老たちのさらに背後には、巨大な構造物がそびえ立っていた。それは全体が赤や青の宝石でできた玉座で、一〇階建てのビルほどの大きさがあった。玉座の上にはエメラルド色の虹《にじ》のアーチがかかり、前には七つの炎《ほのお》が燃えていた。玉座からは断続的に雷《いかずち》のような音が轟《とどろ》き、閃光《せんこう》や火花を発していた。  玉座の前には、七本の角と七つの眼を持つ巨大な金色の羊が、二本足で直立していた。その後ろには、さらに巨大な、まばゆく輝《かがや》く人型のものが座っていた。  セラフィムたちの前には、すでに到着《とうちゃく》していた大天使たちがひざまずいていた。ラファエル、リリエル、サリエル、レミエル。いずれも天の大部隊を率いる軍団長だ。さらに放逐されたガプリエルに代わり、ラグエルが七大天使に昇格《しょうかく》している。メタトロンとミカエルも膝《ひざ》をつき、静かに頭《こうべ》を垂れた。  世界に災厄《さいやく》をもたらす七人の天使が揃った。  セラフィムの一人が手を上げると、天使たちの合唱は潮が引くように消えていった。玉座からの轟音《ごうおん》も途絶《とだ》え、広場に静寂《せいじゃく》が訪《おとず》れた。 「報告を」  ライオンの顔をしたセラフィムが言うと、レミニルが顔を上げた。 「 <ル・トリオンファン> は予定通り、出港いたしました。計画実行は明日、二六日。予定海域に達するのは二九日です」  セラフィムたちは視線を交《か》わし、満足そうにうなずき合う。 「すでに中央アジア各地のイスラム原理主義者に�啓示《けいじ》�を与《あた》えてあります」ミカエルが神妙《しんみょう》な顔つきで報告する。「火の雨の降る日、現代のソドムの滅《ほろ》びる日こそ、預言|成就《じょうじゅ》の日であると。彼らはそれを合図に、いっせいに行動を起こすでしょう」 「アメリカも同様です」サリエルが誇《ほこ》らしげに言う。「混乱に乗じ、我らの�啓示�を受けた者たちが、陸軍、州兵、ミリシアを扇動《せんどう》し、政府|打倒《だとう》に動き出します」 「生物兵器の準備も整っております」ラファエルは事務的な口調で報告した。「マールブルグ・ウイルス、B型|肝炎《かんえん》ウイルス、天然痘《てんねんとう》ウイルス、ボツリヌス菌《きん》、バイコマイシン耐性《たいせい》腸球菌などを入手。いつでも散布できます」 「ガブリエルのせいで停滞《ていたい》していたタンカー破壊《はかい》計画のシミュレーションも、無事に完成いたしました」ラグエルは少し緊張《きんちょう》しているように見えた。「世界各地の海域でタンカーを破壊し、深刻な海洋|汚染《おせん》を発生させるとともに、石油ショックを惹《ひ》き起こします」 「原発の破壊も予定通りに」リリエルは短く、力強い口調で言った。「川という川の三分の一は汚染されるでしょう」 「地震《じしん》、災害に関してはおまかせください」メタトロンは静かな口調で、しかし自信たっぷりに言った。「地震帯の上にある国は、これから順に大地震に見舞《みま》われます。南北アメリカ大陸の西海岸、日本、中国、フィリピン、インド、イラク、ギリシャ、イタリア……それ以外の国も、洪水《こうずい》、雹《ひょう》、暴風、大火に見舞われます」  彼らの計画は順序こそ違《ちが》うが、『黙示録《もくしろく》』第一六章の記述に忠実に沿ったものである。第一の天使(ラファエル)は疫病《えきびょう》を流行《りゅうこう》させ、第二の天使(ラグエル)は海を死人の血のように変えて海洋生物を絶滅し、第三の天使(リリエル)は川や水源を汚染する。第四の天使(レミエル)が人間を太陽の火で焼く。第五の天使(サリエル)によって、獣《けもの》が支配する国アメリカは闇《やみ》に閉ざされ、人々は苦しみ悶《もだ》える。第六の天使(ミカエル)が日の出る方向、すなわち中央アジアの王たちを、イスラエルや西欧《せいおう》諸国に対して決起させる。第七の天使(メタトロン)は稲妻と地震と雹によって大都市を破壊する。  すべてがうまく運べば、三か月以内に人類は半減する。生き残った者たちも、飢《う》えとパニックで殺し合うだろう。社会体制は完全に崩壊《ほうかい》する。そうなれば、もはや組織的な抵抗《ていこう》は存在しない。天使たちは出て行って、無力な生存者を殺戮《さつりく》して回る……。  地上から人類が一掃《いっそう》されたのち、このニュー・エルサレムは降臨する。地球は永遠に�神�と天使たちの支配する地となるのだ。 「時は来た!」ライオンの顔をしたセラフィムが吼《ほ》えた。「ついに第七の封印《ふういん》が解かれる! 今ここに、『黙示録』の預言は成就する!」 「無論、悪魔《あくま》どもは全力で我らを阻止《そし》しようとするだろう!」鷲の顔のセラフィムが金切り声を上げる。「奴《やつ》らはニューヨークに集結し、このニュー・エルサレムへ侵攻《しんこう》する準備を進めている! しかし、無駄《むだ》なあがきだ! 我らの強大な力の前に、奴らの抵抗など、いかほどのものであろうか!」 「我らは勝利する!」雄牛の顔をしたセラフィムが重々しい声を響《ひび》かせる。「そして、新たなる時代の幕を開けるのだ! 滅《ほろ》びの日のはじまりは二〇〇〇年八月二九日! この日をもって、人間たちの時代は終わる! 我らの偉大《いだい》なる主、万物の支配者、栄光に包まれた全能なるお方の時代となるのだ!」 「我らの主の他に神はなし!」人間の顔のセラフィムが高らかに宣言した。「我らの主よ! あなたこそ、栄光と誉《ほま》れを受けるのにふさわしいお方! 地上にあなたの力と支配を! 堕落《だらく》した者たちに血の裁きを!」  セラフィムたちは腕《うで》を振《ふ》り上げ、叫《さけ》んだ。 「ハレルヤ(神を賛美せよ)!!」  七〇万の天使たちも、いっせいに腕を振り上げ、拳《こぶし》を振り回して、熱狂的《ねっきょうてき》に復唱した。 「ハレルヤ!!  ハレルヤ!!  ハレルヤ!!」 [#改ページ]    11 地球最後のパーティ  ニューヨーク一番街・東四四丁目——  同日・午前二時(東部標準時)—— 「……!」  摩耶は声にならない悲鳴を上げ、目を覚ました。  空調は効いているのに、胸《むね》は汗《あせ》でびっしょり濡《ぬ》れている。全力|疾走《しっそう》した直後のように、心臓は激しく動悸《どうき》しており、口の中はからからだ。自分が生きていること、世界はまだ滅びていないことを理解するまで、しばらく時間がかかった。  彼女はそっとベッドから抜《ぬ》け出すと、脱《ぬ》ぎ捨ててあった男物のシャツに袖《そで》を通した。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すと、暗い窓に歩み寄る。冷たいジュースで咽喉《のど》の渇《かわ》きを癒《いや》しながら、ぼんやりとマンハッタンの夜景を眺《なが》めた。  ここは、ミッドタウン・イーストにある高級ホテル、リーガル・ユナイテッド・ネーションズ・プラザのスイートルームだ。その名が示す通り、一番街をはさんだ向かい側には国連本部ビルが見える。さすがにこの時間に仕事をしている者はいないらしく、窓の灯《ひ》はほとんど消え、墓石のようにのっぺりした黒い直方体となって、対岸のクイーンズの灯火を背景にそびえ立っていた。摩耶にはそれがこの世界の未来を暗示しているように見えた。  人類という種の墓石。 「……眠《ねむ》れないのか?」  ベッドの中からアザゼルが声をかけた。 「……ええ」  振り返りもせず、摩耶は不吉な夜景を見つめていた。眠れないのはここのところ毎晩だ。少しうとうとしたかと思うと、すぐに悪夢にうなされ、目を覚ましてしまう。 「ま、しょうがないか……」  彼女の悪夢の源を取り除くことを、アザゼルはとっくにあきらめていた。いくら言葉を費《つい》やしても、無駄なものは無駄だ。彼女の苦しみはあまりにも深い——死に対する恐怖《きょうふ》、運命に対する絶望、未来への不安、愛する人を失う悲しみ……それらは人間の根源的な悩《なや》みであり、そう簡単に解消できるものではない。  そもそも、人に希望や安心を与えるのは、悪魔には不得手なことだ。 「悪いが、俺《おれ》は寝《ね》させてもらうぞ」彼はわざと冷たく突《つ》き放した。「睡眠《すいみん》不足だと体力が落ちる。いざ戦いになった時に、勝てないかもしれないからな」 「……勝ってどうなるの?」 「ん?」 「そうでしょ?」摩耶は振り返った。「仮にこの戦いに勝てたとしても、それでどうなるっていうの? この世には神を信じる人が大勢いる。またいつか、彼《かれ》らは復活してくるわ」 「そしたらまたやっつける」 「それを永遠に繰り返すの?」 「他にどうしろっていうんだ?」アザゼルは疲《つか》れたようにため息をついた。「あきらめて連中に滅ぼされるか? それともいっそ、神を信じる人間を全員|抹殺《まっさつ》するか? それなら連中はもう復活できないぞ」 「そんなの……問題解決にならないじゃない」  摩耶は窓にもたれかかり、冷たいガラスに額をこすりつけた。熱い涙《なみだ》がこぼれてくるのを止めることができない。 「神を信じるのは人間の性《さが》なのよ。私だって——十何年も神様を信じてきたのに……それが正しいことだと信じてきたのに。それなのに……そのせいで世界が滅ぼされるなんて、あんまりだわ!」 「一神教なんてものを思いついたのが間違《まちが》いだろうな」アザゼルは感情のこもっていない声で言った。「そのせいで戦争も増えた。確かにギリシャやローマの時代にも戦争はあったし、宗教の違いで争いもあったが、今みたいに激しく憎《にく》み合うことはなかった。多神教の時代には、他の民族がどんな神を信じていようが、たいして問題じゃなかったからな」 「じゃあ、イエス様は間違っていたというの!? イエス様が神の教えを広めなければ、世界はもっと平和だった!?」 「そうは言い切れないが……」 「ねえ、教えて」摩耶は切実に訴《うった》えた。「イエス様ってどんな人だったの? 本当に福音書《ふくいんしょ》に書かれていたような人だった? それとも——」 「知るもんか」アザゼルは軽く突っぱねた。「いや、本当だ。前にも言ったが、あいつが生きている間は地方の小規模なカルトにすぎなかったし、俺はその頃《ころ》、ガリアのあたりをうろついてたからな。名前を耳にしたのは、死んでからずっと後だ」 「でも、評判ぐらいは聞いたでしょ?」 「そうだな……」彼は考えこんだ「まあ、聞いたことは聞いたが」 「どうだったの?」 「福音書にも書いてあるが、大食らいで酒好きだったそうだ」  新約聖書の『ルカによる福音書』第七章には、人々がイエスを「見ろ、大食漢で大酒飲みだ」と非難していると書かれている。  摩耶は吹《ふ》き出した。 「……そうよね、きっとそういう人だったのよね」彼女は笑いながらすすり泣いた。「私って馬鹿《ばか》よね。笑っちゃうわよね。あんなおとぎ話を信じるなんて。だって……だって、人が水の上を歩いたり、死んでから生き返ったりできるはずが——」  耐《た》えられなくなり、彼女はわっと泣き崩《くず》れた。  セントラルパーク・サウス——  同日・午後六時三〇分(東部標準時)—— 「うっわー、すっごーい……!」  パーティ会場に足を踏《ふ》み入れたとたん、かなたは小さな感嘆《かんたん》の声を上げた。  ここはブラザ一五九丁目と五番街の角、セントラルパークに面した一等地に建つ豪華《ごうか》ホテルだ。一九〇七年に創業したルネサンス様式の建物は、全米歴史的建造物に指定されている。その名は世界的に有名で、VIPもしばしば宿泊《しゅくはく》する。  今夜、そのレセプションホールで、盛大《せいだい》なパーティが催《もよお》されていた。入口には <世界歴史小説ファンクラブ> と書かれているが、それは表向き。ニューヨークに集まった世界の妖怪《ようかい》たちが、最終決戦を目前にして、親交を深めるための交流の場として設けられたのである。 「これがみんな妖怪とはねえ……」  流も驚《おどろ》きと困惑《こんわく》を隠《かく》せない。広い会場いっぱいに、ヨーロッパ系、アフリカ系、東洋系、ポリネシア系……ありとあらゆる人種、様々な年齢層《ねんれいそう》の男女がたむろし、酒を飲んだり、豪華な料理を味わったりしながら談笑しているのだ。ざっと見渡《みわた》したところ、二〇〇人は下らない。  これでもまだ、ニューヨークに集まった妖怪のごく一部——各国のネットワークの代表者にすぎない。大半は市内やその周辺をパトロールし、天使のテロを警戒《けいかい》している。一都市にこんなに集結しているところを奇襲《きしゅう》されてはひとたまりもないからだ。ニューヨークには地震帯《じしんたい》はないので、東京のようにはならないだろうが、それでも敵はどんな事で攻《せ》めてくるか予想できず、油断はできない。  噂《うわさ》では、妖怪の総勢はすでに二万を超《こ》え、まだ続々集結中だという。 「なあ、俺たち、こんな格好で良かったのか……?」  シャツにスラックスという自分たちの平凡《へいぼん》なスタイルを見下ろし、流は自信なさそうに言った。いちおうインフォーマルな立食形式のパーティのはずだが、会場に集まった老若《ろうにゃく》男女《なんにょ》の中には、タキシードや高級スーツを着た男性、ドレスで着飾《きかざ》った女性の姿も多い。インドの民族|衣装《いしょう》サリーを身に着けた年配の女性もいれば、古代ローマ風のトーガを着た老人、パンク・ファッションの青年、チャイナドレスの娘《むすめ》、半ズボンで走り回っている子供、SFコミックスのコスプレらしい女性までいて、ほとんど仮装パーティと化している。  妖怪たちは個性が強く、ファッションや趣味《しゅみ》にこだわりを持つ者も多い。だからあえて正装は強要せず、服装は自由としたのだ。伝統あるプラザの支配人は、歴史小説愛好家というのはみんな変な連中なのかと、さぞ眉《まゆ》をひそめていることだろう。 「うーん、浮《う》いてるような気もしてきた……」  かなたも自信なさそうに言った。できればちょっと引き返して、別の姿に変身して出直したいところだが、そうもいかない。すでに入口で受付係に招待状を渡してしまっている。  二人は肩身《かたみ》の狭《せま》い思いを味わいながら、摩耶の姿を求めて、パーティ会場の奥《おく》へと進んでいった。当然、周囲は知らない顔ばかりだ。二人とも英語は苦手なので、誰《だれ》かに声をかけるわけにもいかない。  会場内の空気には、酒や料理の匂《にお》いに混じって、獣《けもの》の匂い、生魚の匂い、硫黄《いおう》の匂い、香《こう》のような匂い、まったく未知の不思議な匂いも混じっていて、かなたの鋭敏《えいびん》な嗅覚《きゅうかく》は大混乱をきたしている。個々の匂いを嗅《か》ぎ分けることを、彼女《かのじょ》はとっくにあきらめていた。 「それにしても不親切だよなあ」流がぼやく。「名札ぐらい付けといてくれりゃいいのに」 「名札?」 「だって、外見からじゃ、どんな妖怪だかさっぱり分かんないだろ?」 「 <RYU> とか <TANUKI> とか、胸《むね》に付けるわけ?」 「そうそう——うおっ、すげ!」  紫色《むらさきいろ》でラメ入りのイブニングドレスを着た美女とすれ違い、流は小さい歓声《かんせい》を上げた。風貌《ふうぼう》からするとアジア系のように見える。顔の半分を黒髪《くろかみ》で隠《かく》しており、左の眼《め》だけを露出《ろしゅつ》させていた。すれ違いざま、流にちらりと投げかけた視線には、背筋をぞくっとさせる妖《あや》しい魅力《みりょく》があった。流はその背中を見送りながら、顔をにやけさせていた。 「名前知りたいなあ」 「アホ!」  かなたは肘鉄《ひじてつ》を食わせた。  本当にみんなが名札を付けていたら、流たちは今よりいっそう肩身の狭い思いをしていただろう。なぜなら、ここに集まっている妖怪は、いわば妖怪の世界のVIP——その国を代表する大物ばかりだからだ。  たとえば、今しがた流とすれ違った女性は、アラスカのイヌイットに恐《おそ》れられている海の女神、セドナである。海底にある死者たちの国アドリブンの女王で、見つめるだけで人間を殺したり、溺《おぼ》れている人間を水中に引きずりこむと信じられている。  料理の並んでいるテーブルでは、丸々と太った禿頭《はげあたま》の老人が、ヒラメのムニエルに舌鼓《したつづみ》を打っている。彼はロシアの水の妖怪ヴォジャノイの王だ。その実体は、全身が緑色の藻《も》に覆《おお》われた巨人《きょじん》で、ヴォルガ河の底にある水晶《すいしょう》の宮殿《きゅうでん》に住み、ロシア全土の何百というヴォジャノイを従えている。今は月が欠けているので老人の姿をしているが、月が満ちるに従って若返り、満月になると子供の姿になる。  別の一角では、陽気な黒人男性が次々に軽妙《けいみょう》なジョークを披露《ひろう》し、注目を集めていた。西アフリカ最大のトリックスター、蜘蛛《くも》のアナンシである。それを聞いてけらけらと快活に笑っているのは、空気の精シルフの女王オリエンスだ。一見したところミニスカート姿の金髪《きんぱつ》のティーンエージャーで、とても三〇〇歳《さい》には見えない。  その近くには、長身の中国人二人組がいて、南沙《なんさ》諸島の領有問題について真剣《しんけん》に議論していた。太っている方は海夜叉《ハイイエチャ》、日本で言うところの海坊主《うみぼうず》のような妖怪である。白い服を着て扇《おうぎ》を持っている老人は白無常《バイウーチャン》で、閻魔《えんま》大王の部下であり、寿命《じゅみょう》の尽《つ》きた人間を捕《つか》まえに来る死神のような存在と信じられている。  くたびれた背広を着て、ビールですっかり酔《よ》っ払《ぱら》っている老人は、コヨーテの姿をしたメキシコの神、ウェウェコヨトルである。彼が親しげに会話を交《か》わしている相手は、しゃれた燕尾服《えんびふく》を着たイギリスの猫《ねこ》の王、ディルドラムだ。二人の話題は、パメラ・アンダーソン・リーとモリー・カルバー、どっちがセクシーかという問題だった。  アイルランドの伝説の英雄《えいゆう》クーフーリーンは、スポーツマン・タイプの美男子で、女性なら誰でも振り向かずにはおれない。今も露出度の高いドレスを着た金髪のセクシーな女性——グルジアの山の女神《めがみ》ダリに言い寄られ、困惑していた。そんな二人のやり取りを、男装をした黒髪の女性が軽蔑《けいべつ》の視線で見ている。ギリシャ神話の月と狩猟《しゅりょう》の女神、アルテミスだ。  ヴードゥー教の死と愛の神ゲーデ、別名サムディ男爵《だんしゃく》は、部屋の隅《すみ》にひっそり立ち、ウイスキーをがぶ飲みしていた。貧相な顔つきの中年男で、屋内だというのに黒いシルクハットをかぶり、黒い燕尾服を着て、サングラスをかけている。それとは対照的に、モンタナ州のブラックフット族の大地神プノツィヒョは、白い髪に白い服、陽気そうな老人だ。古代アルメニアの戦争神ヴァハグンは、炎《ほのお》のような赤い髪と赤い髭《ひげ》が印象的で、大声で怒鳴《どな》るように喋《しゃべ》る。  その他にも、有名なフランスの蛇女《へびおんな》メリュジーヌ、赤いドレスを着た美女の姿で出現する地獄《じごく》の侯爵《こうしゃく》ガミジン、炎の精サラマンダーの王パイモン、カナダの森の怪物《かいぶつ》ウェンディゴ、アマゾンの蛇の女神ボイウナ、シベリアのヤクート族の妖精シュリュキュン、アラビアの魔神イフリート、ナヴァホ神話の蜘蛛女ナステ・エスツァン、子供の姿をしたアルゼンチンの森の聖霊《せいれい》ヤシヤテレ、ポリネシアの魚と爬虫類《はちゅうるい》の神タンガロア、スコットランドのアザラシ人間ローン、ドイツの山の魔女ホレおばさん、フィリピソの雷神《らいじん》カダクラン、インドの蛇族ナーガ、リトアニアの悪魔ヴャリニャス、ブラジルのシングー河流域で崇拝《すうはい》されているジャガーの神シナア、ニュージーランドの伝説の妖術師ハカワウ、バンクス諸島の蜘蛛の霊マラワ、アルジェリアのカビュル人の原初の雄牛《おうし》イテルテル、ラップ人の熊神《くまがみ》レイブ・オルマイ、南部アフリカの天空神カアングなどなど、世界中からありとあらゆる妖怪が集まっているのだ。 「あっ、摩耶ちゃん」  かなたはようやく摩耶とアザゼルの姿を発見し、人ごみ(「妖怪ごみ」と言うべきか)をかき分けて近づいた。摩耶の方でもかなたたちに気づき、手を振《ふ》って微笑《ほほえ》みかける。これもアザゼルの趣味なのだろうか、肩《かた》の大きく開いた真っ赤なイブニングドレスを着ていた。 「今、来たところ?」 「うん——あっ、どーも、お招きいただきまして」  かなたがぺこりとお辞儀《じぎ》すると、アザゼルは日本語で「ドイタシマシテ」と返した。 「湧ちゃんは?」 「さっき、ちらっと見かけたわ。気づかずに行っちゃったけど——」 「にしても、俺《おれ》たち、こんなとこに招待してもらって良かったのかなあ?」流はウイスキーのグラスを手に周囲を見回し、落ち着かない様子だった。「大物ばっかなんだろ?」 「天使と最初に戦ったのが <うさぎの穴> でしょ? それで参考のために、東京での戦いの様子を聞きたいっていう人が多いの」  天使の復活が明らかになって以来、世界各地で散発的に妖怪《ようかい》と天使の戦闘《せんとう》が起きているが、六月二日深夜の渋谷での戦いを上回る規模のものはない。天使たちは決戦に備えて戦力を温存しているのか、表立った攻撃《こうげき》をかけてこないのだ。  古代の妖怪や神々の多くは、前回の大戦で消滅《しょうめつ》した。生き残った者も、長い年月の中で人間たちにしだいに忘れ去られ、消えていった。現代に生きる妖怪のほとんどは大戦以後に生まれた世代で、彼らにしてみれば、これが天使との最初の(そして願わくば最後の)戦いなのだ。少しでも相手の手の内を知りたいと思うのは当然である。 「んなこと言われても、あたしら、英語苦手なんだけど……」 「だいじょうぶ。私が通訳してあげるから」 「ほんとだよ? 頼《たの》むよ?」かなたはわざとらしく心細そうな声を出した。「もう、摩耶ちゃんだけが頼《たよ》りなんだから」 「まかせて。この二か月で、語学のスキル、かなり上がったから」  摩耶は自信たっぷりに言う。東京にいた頃《ころ》とは、二人のポジションがすっかり逆転していた。以前は、何かにつけて不安がる摩耶を、かなたが「まかせて!」「だいじょうぶ!」と元気づける役だったのだが。 「しっかし、盛大《せいだい》なパーティだよねえ」かなたはあらためて感心した。「 <Xヒューマーズ> って、お金あるんだ」 「ううん。招待状を出したのは <Xヒューマーズ> だけど、お金を出したのは違《ちが》うの——ほら、あの黒ずくめの女の人」  摩耶は指差した。一〇メートルほど離《はな》れたところに、ボーイッシュなスタイルの長身の女性がいる。黒い髪はベリーショート。黒を基調にしたボンデージルックで、細いパンツがすらりとした脚《あし》にフィットしている。ちょっと年齢《れんれい》の見当がつかないが、濃《こ》いメイクをした顔に妖艶《ようえん》な笑みを浮《う》かべ、男たちに愛嬌《あいきょう》を振りまいていた。 「あの人がこのパーティのスポンサー?」 「正確に言うと、スポンサーの代理人」摩耶の口調にはかすかに嫌悪《けんお》がこもっていた。「かなりのやり手みたい」 「へえ。誰?」  流がグラスを傾《かたむ》けながら訊《たず》ねる。 「グレモリー。ゴモリーともいうわ。いわゆる悪魔ね。 <ザ・ビースト> の一員——」 「ぶっ!?」  流はあやうくウイスキーを噴《ふ》きそうになった。 「こ、このパーティ、 <ザ・ビースト> がスポンサーなのか!?」 「パーティだけじゃないのよ。他にもいろいろと、今度の作戦を援助《えんじょ》してくれてるの。予算とか、武器の調達とか、情報操作とか……」 「いいのか、それ!?」 「だって、この世でお金をいちばん持ってるのは彼《かれ》らなのよ」 「そういう問題じゃないだろ!?」 「ねえ、だいじょうぶ……?」かなたが不安そうに天井《てんじょう》や床《ゆか》を見回す。「もしかして、ここに目障《めざわ》りな妖怪を集めて、一挙にドカーンってやる魂胆《こんたん》なんじゃ……」  摩耶は笑って、それをアザゼルに通訳した。アザゼルもつられて笑う。 「それはないな」アザゼルの言葉を摩耶が通訳する。「連中の目的は世界の支配だ。この世が滅《ほろ》んだら、彼らだって困る。それに天使はいわば悪魔の天敵だ。げんに <ザ・ビースト> の七大幹部のうち二人までが、すでに天使に暗殺されたとも噂《うわさ》されている。だから我々の足を引っ張るようなことは絶対にしない。全力を挙げて協力すると約束してくれている」 「悪魔の約束ねえ……」  流は複雑な心境だった。天使と戦うために、全世界の妖怪が力を合わせなければならないのは理解できる。だからと言って、ついこの間まで敵だった連中と手を握《にぎ》るというのは、感情的に納得《なっとく》できるものではない。 「むしろ戦いが終わった後が問題ね」摩耶は暗い顔をした。「たぶん、この戦いで妖怪の多くが生命を落とす……世界中のネットワークが弱体化するでしょうね。そこを狙《ねら》って、 <ザ・ビースト> が動き出すかもしれない」 「漁夫の利、ってやつか……」 「ええ。それで疑心|暗鬼《あんき》になってる人も多いみたい。なかなか足並みが揃《そろ》わないの。『 <ザ・ビースト> の軍勢が先頭に立たないかぎり参戦しない』ってゴネてる人もいるし」 「その気持ちは分かるな」  流は深くうなずいた。いつ敵に回るか分からない連中が後ろに立っていては、安心して戦うこともできない。  彼らの会話が耳に入ったわけでもないだろうが、グレモリーがアザゼルたちに気づき、腰《こし》を魅惑的《みわくてき》にくねらせて近づいてきた。 「ちっ……」  アザゼルは舌打ちし、軽く顔をしかめた。摩耶も嫌な顔をしている。できればグレモリーとはあまり話をしたくなかったのだ。 「はあい、ア……じゃなかった、フェザー」グレモリーはいたずらっぽく笑った。「楽しんでる? ん?」 「君たちの金でね」彼はグラスを掲《かか》げた。「ボスに礼を言っといてくれ」 「伝えとくわ——あら、お嬢《じょう》ちゃん」  グレモリーは初めて摩耶の存在に気がついたようなふりをして、一九〇センチの高さから嘲笑《ちょうしょう》を投げかけた。なかば嫉妬《しっと》、なかは面白《おもしろ》がっている眼《め》だ。 「ふうん、まだ捨てられてなかったのねえ?」  摩耶は傷つけられた。彼女《かのじょ》だって、死ぬまで彼と寄り添《そ》っていられると信じるほどうぶではない。不老不死のアザゼルと違い、人間である自分は年を取る。容色が衰《おとろ》えれば、いつか捨てられる日が来る——それは最初から覚悟《かくご》していた。  だからこそ、少しでも長く彼の傍《そば》にいたいと強く願っていた。ファッションやメイクを彼の好みに合わせたり、足手まといにならないよう勉強しているのもそのためだ。  彼女はぐっとこらえて顎《あご》を上げ、グレモリーをにらみ返した。 「そう簡単に捨てられたりはしません」 「私の時はほんの一年だったけど?」 「あなたが一年なら、私は最低でも一〇年は保《も》たせてみせます」  摩耶は腰《こし》に手を当て、そう言い切った。  アザゼルが最も嫌《きら》うのは弱い女——逆境に追い詰《つ》められても泣いているだけで、何の抵抗《ていこう》もしようとしない女だ。だから摩耶は強くなろうと決意した。もっと愛されるために。こんないびりなどで、くじけてはいられない。 「ふうん、たいした自信ねえ」 「ええ、若いですから」  その言葉にこめられた痛烈《つうれつ》な皮肉に、今度はグレモリーがむっとして、にらみ返す番だった。 「たかが人間のくせに……!」 「そのたかが人間と張り合っていものは誰《だれ》ですか?」 (うわあ……)  言葉はよく分からなかったが、かなたには二人の間にばちばちと散る火花が見えた気がした。摩耶ちゃん、ほんとにすごい……。 「もうよせ」アザゼルがたしなめた。「お前の負けだ、グレモリー」 「ふんっ!」  女悪魔はプライドを傷つけられ、そっぽを向いた。確かに、人間、それも年齢差《ねんれいさ》が何百|歳《さい》もある娘《むすめ》と対等に張り合っているようでは、負けているも同然である。 「そういうことです」  摩耶は勝利の笑みを浮《う》かべ、これ見よがしにアザゼルに寄りかかった。  同じ頃《ころ》、パーティ会場の反対側では、ミスターWとストラトイーグルが偶然《ぐうぜん》のようなふりをして出会っていた。 「政府が非常事態宣言を出した」  カナッペをつまみながら、ストラトイーグルがひとり言のようにぼそりと言うと、ミスターWはスシを頬張《ほおば》りながら「知ってる」と答えた。  今日の夕方から、テレビのニュースはその話題一色だった。カリブ海に発生した熱帯性低気圧が超大型《ちょうおおがた》ハリケーンに発達、まるでレールに乗っているかのように正確に、西経七二度線に沿って大西洋をまっすぐ北上しているのだ。瞬間《しゅんかん》最大風速は五〇メートル。現在はフロリダ沖《おき》にあり、このまま進めば三日後にはロングアイランドに上陸、ニューヨーク、コネチカット、ロードアイランド、マサチューセッツ、バーモント、ニューハンプシャーの広範囲《こうはんい》が被害《ひがい》を受けると予想された。政府は非常事態宣言を発令し、該当《がいとう》地域、特にロングアイランドの住民や観光客に対し、他地域への避難《ひなん》を呼びかけていた。  もちろん、すべてシナリオ通りである。世界中から集まった天候神が力を合わせ、ハリケーンを大型に育て上げたうえで、ロングアイランドへ誘導《ゆうどう》しているのだ。三日後に予定されている最終決戦を、人間たちの目から隠《かく》すためである。 「しかし、完全に隠せるとは思えんな」 「ああ、ほとんどの住民は屋内に閉じこもっているだろうが、それでも何百人という目撃者《もくげきしゃ》が出るのは避《さ》けられない。後のもみ消し工作が大変だ」ストラトイーグルは頭を振《ふ》った。「今から頭が痛いよ」 「勝った後の心配なんて、それこそ後ですればいいんじゃないかね? 今は勝つ方法を考えることだ——そのキャビア、いけるかね?」 「ああ、上物だ」 「なら、私もひとついただこうか」  ミスターWはキャビアを載《の》せたカナッペをかじり、「うむ、これはカスピ海産だな」と顔をほころばせた。 「頼んでおいた件は?」 「あんたの推測通りだった」ストラトイーグルは生ハムに手を伸《の》ばした。「残された記録や友人の証言によれば、キャメロン・ハワードという男、ルイジアナの出身で、かなり熱心なファンダメンタリストの家系に育ったようだ」 「やはりな……」 「どういうことだ? 彼がこの一件と何か関係があるのか?」 「おおいにある」ミスターWはうなずいた。「フェザーが調べたところでは、天使の活動は一九四五年にまでさかのぼる」 「それは我々も確認した。間違《まちが》いなく、連中は四五年初頭の時点ですでに復活していた」 「しかし、それ以前に活動の記録は見当たらない。つまり、彼《かれ》らが復活したのは四四年、もしくは四三年頃と考えられる……」 「何が言いたいんだ?  <エルドリッジ> の実験が彼らを復活させたとでも?」 「その可能性は大だな」 「バカな!」ストラトイーグルは一蹴《いっしゅう》した。「とっぴすぎる!」 「じゃあ、なぜ一四〇〇年間も復活しなかった�神�が、一九四三年頃に急に復活したんだ? なぜゲートは中東でもヨーロッパでもなく、北米大陸東海岸に出現したんだ? 偶然とは考えられないじゃないか」 「だが、どうしてそんなことが?」 「私の仮説はこうだ。テスラ・ジェネレーターはシャドー・ユニバースの時空構造を不安定化することで、波動関数を収束しやすくする作用がある。 <エルドリッジ> の艦上《かんじょう》でテスラ・ジェネレーターが最大出力に達した瞬間、空間が不安定になり、偶然にシャドー・ユニバースに通じる裂《さ》け目が開いて、キヤメロン・ハワードはそれに呑《の》みこまれた。そして、彼の宗教的信念が波動関数を収束させ、ニュー・エルサレムを実体化した……」 「たった一人の人間の信念で? 一辺が一三八〇マイルもあるものが、そんな些細《ささい》なことで実体化するか?」 「過冷却《かれいきゃく》という現象を知っているかね?」 「化学用語の?」 「そうだ」  チオ硫酸《りゅうさん》ナトリウム五水和物の融点《ゆうてん》は四八・二度だ。つまり温度が四八・二度以上になると溶《と》けて液体になり、冷やすと固体になる。  ところが、チオ硫酸ナトリウム五水和物を八〇度ぐらいまで熱して溶かしてから、埃《ほこり》などが入らないように注意してゆっくり冷却すると、室温になっても結晶《けっしょう》はできず、液体のままなのだ。この状態を過冷却と呼ぶ。これはきわめて不安定な状態で、チオ硫酸ナトリウム五水和物の小さな結晶を放りこむと、それを核《かく》として急速に結晶が成長し、たちまち容器内の液体すべてが結晶化してしまう。 「……なるほど」ストラトイーグルは考えこんだ。「つまりこういうことだな。前回の大戦で、�神�や天使たちは古い神々から呪《のろ》いをかけられ、復活することを禁じられた。神の存在を信じる者の数は増え続けたにもかかわらず、彼らは実体化できなかった。つまり過冷却の状感にあった。そこにキャメロン・ハワードという小さな結晶核が投げこまれた……」 「簡単に言うとそういうことだ。それに、第二次世界大戦中だったという点も忘れてはいけない。あの時代、世界中の人間が憎《にく》み合い、神の名において殺し合いを繰《く》り広げていた。アウシュビッツではユダヤ人虐殺《ぎゃくさつ》が開始され、ロスアラモスではまさに原爆《げんばく》が開発中だった。この大戦こそ人類最終戦争だと信じる者も大勢いた。そうした大きな圧力がかかっていたところへ、テスラ・ジェネレーターによって増幅《ぞうふく》されたキャメロン・ハワードの信念が、最後のひと押《お》しを与《あた》えたんだろう」 「その説が正しいとして、何かこの戦いの役に立つのか?」 「立つかもしれん。テスラ・ジェネレーターはまだニュー・エルサレムの時空構造とリンクしているのではないかと思う。最初はフィラデルフィアに生じたはずのゲートが、モントークに移された機材を追うように、ロングアイランド沖に移動したのがその証拠《しょうこ》だ」 「じゃあ、ジェネレーターを壊《こわ》せば……?」 「いや、それは無駄《むだ》だ。ひとたび誕生《たんじょう》したヨウカイは、生みの親から独立して存在し続ける。実際、この一七年間、テスラ・ジェネレーターは機能を停止していたのだからね。壊したって何も起きないだろうよ」 「だったら、何の意味がある?」 「まあ、これはまだ私の仮説にすぎないんだがね」ミスターWは、今度はレバーペーストのカナッペをかじりながら言った。「ちょっと思いついたことがあるんだ。一〇〇パーセントの確信はないが、試《ため》してみる価値はあると思う」 「はあん?」ストラトイーグルは疑わしそうな目で彼を見つめた。「また何かこそこそ企《たくら》んでるな……」 「企んでる? 失敬な!」ミスターWはにんまりと笑った。「発明している、と言ってくれたまえ!」 「ああ、いたいた! おーい!」  摩耶とかなたがテーブルに料理を取りに行くと、湧に声をかけられた。長身の外国|妖怪《ようかい》の間でぴょんぴょん飛び跳《は》ね、手を振っている。 「かなた! 守崎さん! こっちこっち! 何とかしてよ!」 「何だろ?」 「さあ……」  気になった二人は、湧の方に歩いていった。 「どうしたの?」 「変な女の子につきまとわれちゃってさ。ポケモンのこと訊《たず》ねられてんだけど、あたし、よく分かんないから……」 「ポケモン?」 「はあい!」 「湧の背後から元気良く現われたのは、チーズケーキの皿を手にした白人少女である。外見の年齢《ねんれい》はかなたと同じぐらいで、磨《みが》き上げた鋼色の髪《かみ》に、大きな髪飾《かみかざ》りをつけている。ストラップレスの黒いボディスーツで上半身のラインを引き締《し》め、胸《むね》には十字架《じゅうじか》のペンダントが光っていた。ふわりと広がった黒い花のような、ミニスカートの下からは、黒いタイツに包まれたほっそりした脚《あし》が伸《の》びている。  この子はどんな妖怪なんだろう、と摩耶は疑問に思った。 「オレ、 <Xヒューマーズ> のガンチェリー。あんたら、日本から来たんだろ?」 「ええ、まあ……」  ガンチェリーは目を輝《かがや》かせた。「なあ、ポケモンカード持ってねえか? オレ、集めてんだけど、アッシュのチャリザードが手に入んなくて……」 「チャリザード?」 「ほら、翼《つばさ》があってオレンジ色で火を吐《は》く……」 「ああ、リザードソのことね」 「ショップだと一五ドルぐらいすっからさ。どうにかなんない? 炎系《ほのおけい》だとモルトレスも強いんだけど、オレ、チャリザードの方が好きだからさ。もちろん日本語版でもいいぜ。日本語版のカードって、こっちでけっこう人気あんだ——あっ、そうだ。オレ、サブリナのアラカザム二枚持ってるから、トレードしてもいいけど」  少女はニューヨーク下町|訛《なま》りとスラングだらけの早口でまくしたてた。摩耶の語学力でもついて行くのがやっとだ。おまけに摩耶もかなたもポケモンにはあまり詳《くわ》しくない。ドラゴナイトがカイリューで、スクワートルがゼニガメで、ジグリーパフがプリンだというのはどうにか見当がついたが、「ベルスプラウトがウィーピンベルになってヴィクトリーベルになる」とか、「ピカチュウもいいけど、ブロックのヴァルピックスもかわいい」とかいう話になると、何のことやらさっぱり分からない。湧はというと、厄介《やっかい》な相手を二人に押しつけ、さっさと逃《に》げ出していた。  摩耶たちがカードは持っていないと説明すると、ガンチェリーは「うっそー!?」と目を丸くした。 「何で日本人のくせにポケモンカード持ってねえんだよ汀」 「日本人がみんなポケモンやってるわけじゃないんだけど……」  そんな話をしているところへ、これまた陽気な黒人少年が現われた。もろにストリートギャングのような派手な格好で、チェーンをちゃらちゃらと鳴らし、夜だというのにサングラスをかけている。 「よお、ガンチェリー」 「おう、来たな」  二人は抱《だ》き合い、キスを交《か》わした。 「うわぉ!?」  かなたは感嘆《かんたん》の声を洩《も》らした。軽いキスではなく、明らかに舌まで入っている濃厚《のうこう》なキスだったからだ。さすがアメリカ人は進んでる……。 「遅《おそ》かったじゃねえか」腕《うで》を少年の首に巻きつけたまま、ガンチェリーは甘ったるい声を出した。「腹減ってたから、料理、もう食っちまったぞ」 「しょうがねえじゃん。太陽の野郎《やろう》、沈《しず》むのが遅いんだから」 「ほんと、面倒《めんどう》な体質だよな——あ、そうだ」  ガンチェリーは腕《うで》をほどき、摩耶たちにボーイフレンドを紹介《しょうかい》した。 「これ、オレのダチのエッジ——エッジ、この人だち、日本から来たんだって」 「おう、日本!? 俺《おれ》、サシミもカラオケも好きだぜ! 日本語も少しなら喋《しゃべ》れるぜ!」  エッジは悪ノリして、すっとんきょうな声を張り上げた。 「スゴイ! コノイワー、アクラシイハジマルダー! イマカラ、アタシーノナマイワー、メカ・バーブラ・ストライサンドダ!」 「……何、それ?」  かなたと摩耶は声を揃《そろ》えてツッコんだ。  エッジは「まず腹に詰《つ》めこまねえとな」と言って、同じく空腹のかなたを誘《さそ》って料理のテーブルに向かった。その背後からガンチェリーが「浮気《うわき》するならコンドームつけろ!」と明るい声で怒鳴《どな》る。周囲にいた数十人がびっくりして振《ふ》り返ったが、英語のよく分からないかなただけは、「アイシー、アイシー」とにこにこ笑っている。  この二か月でずいぶん経験豊富になっていた摩耶も、ニューヨークっ子のあからさまな言動には、さすがに頬《ほお》が染《そ》まるのを覚えた。 「ニューヨークの女の子って、すごいこと言うのね……」 「だって、いざって時に、HIV感染《うつ》されちゃたまんねえしさ」 「そういう意味じゃなくて……」摩耶は声をひそめた。「……浮気、公認なの?」 「ま、オレだって嫉妬心《しっとしん》ぐらいあるけどさ」ガンチェリーはケーキを頬張《はおば》りながら肩《かた》をすくめた。「でも、オレ、あいつにずっとおあずけ食わせてるし。男に欲望を抑《おさ》えろって言うの、残酷《ざんこく》じゃん」 「大人なのね。私、そこまで割り切れないな……」  摩耶はしみじみとつぶやいた。アザゼルが他の女に目を向けたら、嫉妬の炎を燃やし、逆上してしまいそうな気がする。 「つーか、ああいう欲望だけで生きてるようなアホに、『節制』なんて単語を教えるのが無理だからな。その点はあきらめるしかねえさ」 「ふーん……」 「もっとも、他の女と寝《ね》てるの見つけたら、ガンの台尻《バット》で思いきりぶん殴《なぐ》ってやるけどな」  摩耶は料理を気管に詰めそうになった。 「あんた、恋人《こいびと》は?」 「いるわ。いっしょに来てるの」 「ああ!」ガンチェリーは急に気がつき、大声を上げた。「あんた、ひょっとして、フェザーの新しい恋人だろ!?」 「え? ええ、そうだけど……」 「やっぱ、そうか。日本人の女の子を恋人にしたって噂《うわさ》、聞いてたから……それじゃ、たぶん、この会場の中で、人間はオレとあんただけだな」 「え? あなたも……?」 「そう。生粋《きっすい》」ガンチェリーは嬉《うれ》しそうに胸《むね》を張る。「一〇〇パーセントの人間」 「それがどうして <Xヒューマーズ> に……?」 「ま、話せば長い事情があるんだけどさ」  それから二人は、お互《たが》いの身の上を語り合った。ガンチェリーはどういうわけでシルバーバレルと出会い、ガンマンに選ばれ、 <Xヒューマーズ> に入ったかを。摩耶はかなたたちと知り合ったきっかけや、アザゼルと出会ったいきさつを——事情はかなり違《ちが》うものの、生身の人間でありながら妖怪《ようかい》たちと関《かか》わるようになったという点は似ており、摩耶は共感を覚えた。  だが、摩耶はこの会話に今ひとつ没頭《ぼっとう》できなかった。喋りながらも、あることが気になって、どうしても視線がそちらに向いてしまう。  少女の胸に下がった銀の十字架に。 「ああ、これ?」  ガンチェリーはようやく摩印の視線に気づいた。「気になる?」 「ええ、まあ……」 「ガキの頃《ころ》におふくろから貰《もら》ったやつなんだ。気に入ってお守りにしてんだけど……」会場を見回して、「やっぱ、この場にはまずかったかな? 十字架に触《さわ》ったら火傷《やけど》しそうな奴《やつ》、きっと何人もいるだろうしな……」 「ファッションなの?」 「そうでもない。こう見えても、オレ、信心深い方なんだ。教会にも通ってるし、寝《ね》る前にはお祈《いの》りもしてるんだぜ」  少女のあっけらかんとした口調に、摩耶は困惑《こんわく》を隠《かく》せなかった。自分たちがどんな敵と戦うのか、この子は知らされていないのだろうか? 「でも、それ、矛盾《むじゅん》を感じない? つまり……」 「ああ、今度の敵のこと?」ガンチェリーは笑った。「ぜんぜん。だって、�神�ったってニセモンの神様だろ? オレたちはそれをブッ倒《たお》すんじゃねえか。違うか?」 「偽者……?」 「そうさ。人間の妄想《もうそう》が生んだ、ただの怪物《かいぶつ》だ。本当の神様はちゃんと他にいらっしゃる」 「本当にそう信じてるの?」 「ああ。そうでなきゃ、誰《だれ》がこの宇宙を創《つく》ったっていうんだ?」  少女の口調はさりげなかったが、深い確信がこもっていた。摩耶はさらに困惑すると同時に、興味を抱《いだ》いた。私の信仰心はとっくにずたずたになっているというのに、なぜこの子はこんなまっすぐに神を信じ続けられるのだろう? 「もちろん、本当に神様がオレたちを見ててくださるのか、誰にも分かんねえさ。品行方正にしてりゃ天国に行けるかどうかもな。でも、神様がいつもオレたちの行動を見ておられるんじゃねえかって思うのは、悪いことじゃねえ。たとえ天国や生まれ変わりなんてもんがなくたって、地上で品行方正に暮らすのはいいことだ。少なくとも、コカインで身も心もボロボロになったり、刑務所《けいむしょ》で一生を終えるのよりは、ずっといい」 「……立派な信念なのね」 「牧師様の受け売りだけどな」ガンチェリーは苦笑した。「牧師様が聞いたら、きっと叱《しか》るだろうな。誰かの受け売りするのを嫌《いや》がる人だから。『誰かの言葉ではなく、自分の言葉で喋りなさい』ってのが口癖《くちぐせ》なんだ」 「あなたの通ってる教会の?」 「そう、バレンタイン牧師。面白《おもしろ》い人だぜ。トロいように見えるけど、頭もすっごくいいんだ。ギリシャ語とかヘブライ語も読めるし。ただ、ちょっとユニークすぎて、いろんな人からにらまれてんだよな。『異端《いたん》だ』とか言われてさ。『ポセイドン・アドベンチャー』のジーン・ハックマンみたいに——あんなにかっこよくないけど」 「尊敬してるのね」 「もちろん——ああ、何だったら明日、教会に来てみるか? 午後からバザーやってんだ。牧師様にも会えるぜ、たぶん」 「そうね……」  摩耶は俄然《がぜん》、興味をそそられた。この元気と正義感が服を着ているような少女が、これほど深く信頼《しんらい》しているのだから、きっと立派な人に違《ちが》いない。  私の悩《なや》みを聞いてくれるかもしれない。 「……ぜひ会ってみたいわ」  セントラルパーク——  同日・午後七時三〇分(東部標準時)——  マンハッタン島の中央に広がるこの公園は、東西約八〇〇メートル、南北約四キロもあり、慣れない人間なら迷ってしまうほどの広さである。その敷地内《しきちない》には、メトロポリタン美術館をはじめ、噴水《ふんすい》のある広場、野外音楽堂、野外|劇場《げきじょう》、スケート場、回転木馬、動物園などの施設《しせつ》や、湖、森、芝生《しばふ》、小さな岩山まであり、大都会の真ん中で気軽に自然を楽しめる。完成したのは一二七年も前で、以来、ニューヨーク市民にとってかけがえのない憩《いこ》いの場である。昼間はジョギングやサイクリング、日光浴を楽しむ人々で賑《にぎ》わい、各所で様々なストリート・パフォーマンスが繰り広げられている。  その中央にある大きな池が、ジャッキー・オナシス貯水池だ。かつてジョン・F・ケネディ夫人だったジャクリーヌ・オナシスが、生前、よくこの周囲をジョギングしていたことから、この名がつけられた。  日はとっぷり暮れ、池の周囲も暗くなっており、黒い水面が高層ビル群の灯《ひ》を反射していた。ニューヨークの他の場所と同様、ここも夜になると治安が悪化する。観光客やまっとうな市民は近づくのを避《さ》けるため、昼間に比べて人の数はぐっと少なくなる。セントラルパークを夜中に散策しようなどと思うのは、デートしたくてもシアターやレストランに行く金がないか、強盗《ごうとう》を恐《おそ》れない豪胆《ごうたん》なカップルだけだろう。  今、池の周囲をぶらついている二人組は、どうやら後者のようである。 「あーあ、今ごろみんな、うまい料理食ってやがんだろうな」  ヒスパニック系の巨漢《きょかん》——サヴェッジバイトは、そうぼやきながら、屋台で買ったタコスにかぶりついていた。今夜、 <Xヒューマーズ> のメンバーの半数はパーティ会場の警備、残り半数はホテル周辺のパトロールに回っている。屋内での戦闘《せんとう》に向かないサヴェッジバイト(彼が暴れるとビルごと壊《こわ》れてしまう)は、当然、後のグループに回されたのだ。 「貧乏クジだよなあ、まったく。俺《おれ》まだ、本物の高級料理ってやつ、食ったことねえのによ。ま、このタコスもうまいからいいけど——お前もどうだ、ジーナ?」  彼はタコスの半分を、並んで歩いている赤髪《せきはつ》の美女に差し出した。 「いらない。ガソリンを満タンにしたばかりだ」  真っ赤なライダースーツに身を包んだ長身の美女——ロードレイザーは、冷たい視線で周囲を見回しながら、相変わらず台本を棒読《ぼうよ》みしているような口調で言った。 「お前なあ、ちゃんとマウスウォッシュ使ってるか?」サヴェッジバイトは顔をしかめた。「口の中がガソリン臭《くさ》かったら、男に嫌《きら》われるぞ」 「なぜ?」 「いや、だから、男とキスした時によ……」 「だから、なぜキスしなくてはならない? 口と口を接触《せっしょく》したり、生殖《せいしょく》器官を結合したりするのが、そんなに素晴《すば》らしいこととは思えないのだが。ハイウェイを時速一八〇マイルで走る快感に比べれば」 「そういうのは、普通《ふつう》、比較《ひかく》の対象にならんと思うんだがなあ……」  二人がそんな会話を交《か》わしているところに、前方から三人目が現われた。ながい金髪をなびかせた一八|歳《さい》ぐらいの娘《むすめ》で、頭にバンダナを巻き、Tシャツにランニング用のショーツというスタイルである。いちおう変装のつもりなのだが、この時間にセントラルパークでジョギングする若い娘なんて、あまりいない。 「どうした、シェミー? 頭に芝生がついてるぞ」 「ああ」パワーフェアリーは髪《かみ》の毛についた草の葉をつまみ取り、こともなげに言った。「向こうの茂《しげ》みで押《お》し倒《たお》された。ナイフ持った男に」 「不運な奴《やつ》だな」  サヴェッジバイトは同情した。彼女にではなく、レイプしようとした男にだ。一見、華奢《きゃしゃ》でおとなしそうに見えるパワーフェアリーだが、悪に対しては容赦《ようしゃ》がない。男はさぞひどいお仕置きを受け、二度と女など襲《おそ》うものかと心に誓《ちか》ったことだろう。  この時刻、彼ら以外にも何百人という妖怪《ようかい》が、天使の襲撃《しゅうげき》に備え、マンハッタン全域をパトロールしているはずだ。今夜のニューヨークの犯罪発生率は、金曜の夜にしては異常な低さを記録することだろう。 「それ以外に、何か異常は?」 「ない。ただ、動物園の動物、落ち着きがない」 「まあ、当然かもな」  セントラルパーク動物園は、パーティ会場のあるプラザから、ほんの三〇〇メートルほどしか離《はな》れていない。何百人もの妖怪が発している強烈《きょうれつ》な妖気を、動物の第六感で感じ取っているのかもしれない。 「どうやら今夜は無事に済みそうだな」サヴェッジバイトは楽天的だった。「これだけ厳重《げんじゅう》に警備してりゃ、天使どもだってうかつに攻《せ》めてこれまい」 「そうだといいのだがな」  ロードレイザーは警戒《けいかい》をゆるめようとはしなかった。鋼鉄でできた彼女の脳は、人間的な感情に欠けている反面、不安や恐《おそ》れ、希望的観測などにまどわされることがなく、的確に状況《じょうきょう》を判断できる。妖怪たちがニュー・エルサレムに攻めこむ計画を進めていることは、天使もとっくに知っているはずだ。それなのに何も仕掛《しか》けてこないとは不自然すぎる……。  その考えは的中した。 「あ……」  パワーフェアリーが北の空——モーニングサイド・ハイツの方角を見上げ、妙《みょう》な顔をした。 「どうした?」 「ヘリコプター……」 「え?」  サヴェッジバイトたちは振《ふ》り返り、北の空を見た。最初は何も見えなかったが、じきにかすかなローター音が聞こえてきて、夜空をバックに飛ぶ一機のヘリが視野に入ってきた。ボディ全体が黒く塗《ぬ》られているうえ、ライトを消していたため、一キロ以内に接近するまで見えなかったのだ。ローター音も普通のヘリより小さい。  ヘリは低空飛行でセントラルパークの樹々《きぎ》をかすめ、ぐんぐん接近してきた。車輪は機内に格納されているため外からは見えず、テイルローターも尾部《びぶ》に内蔵されている。鮫《さめ》を思わせる美しいフォルムは、従来のヘリコプターとはまったく異質で、SF映画のプロップだと言っても通用しそうだ。 「戦闘《せんとう》ヘリだ」  ロードレイザーが緊迫感《きんぱくかん》のない声でつぶやく。  黒い戦闘ヘリは轟音《ごうおん》とともにジャッキー・オナシス貯水池の上を通過した。ローターの巻き起こす突風《とっぷう》が、水面を激しく波立たせる。  ボーイング—シコルスキーRAH—66 <コマンチ> ——一九九六年に完成し、アメリカ陸軍が正式配備を決定している最新鋭《さいしんえい》の偵察《ていさつ》・攻撃用《こうげきよう》ヘリだ。独特の曲面で構成されたボディは、きわめてステルス性が高く、RCS(レーダー反射断面積)は従来の戦闘ヘリの数百分の一。そのため、レーダーにひっかかることなく、ニューヨーク市内に侵入《しんにゅう》できたのだ。 「やばい!」  サヴェッジバイトが叫《さけ》ぶ。ヘリが向かっているのはプラザの方角だ!  すでにパワーフェアリーとロードレイザーは走り出していた。パワーフェアリーは走りながらTシャツとショーツを引き裂《さ》き、ビキニの水着だけの身軽なスタイルになると、弾丸《だんがん》のようにダッシュした。その速度は短距離《たんきょり》世界新記録をあっさり上回った。ロードレイザーも赤いドゥカティに変身し、その後を追う。 「乗れ!」  ロードレイザーがパワーフェアリーを追い越《こ》しながら叫ぶ。金髪の少女は軽々とジャンプすると、バイクのシートに飛び乗った。彼女がハンドルにしがみつくと同時に、ドゥカティは猛然《もうぜん》とダッシュする。たちまちスピードメーターの針が時速一〇〇マイルを振り切った。  だが、それでも戦闘ヘリに比べれば遅《おそ》い。すでに数百メートルの差をつけられている。 「間に合わない!?」  パワーフェアリーは悲痛な叫びを上げた。  セントラルパークで警備に当たっていた妖怪は彼らだけではない。公園内の森や茂みにひそんでいた者たちも、すぐに戦闘ヘリの侵入に気づき、マシンガン、電撃《でんげき》、手裏剣《しゅりけん》、弓矢などで迎撃《げいげき》した。だが、一二・七ミリ機銃弾《きじゅうだん》に耐《た》えると言われる <コマンチ> のカーボン複合材料のボディには、なまじっかな妖術ではダメージを与《あた》えられない。なめらかなボディの表面で火花を散らし、表面の黒い電波吸収材をはじき飛ばすばかりだ。 「攻撃《こうげき》か!?」  機体を叩《たた》くがんがんという音を耳にして、パイロットのロレンゾ・スミス少尉《しょうい》は動揺《どうよう》した。 「だいじょうぶ! やれる!」  後席に座《すわ》っていた銃手《ガナー》兼副操縦士のユズラ・ヒンクリー少尉《しょうい》が叫ぶ。そうだ、これぐらいの攻撃でおびえてなどいられない。死を恐《おそ》れていては、天使様から授《さず》けられた崇高《すうこう》な使命を果たせないではないか。  ニューヨークに集まった悪魔《あくま》どもに血の裁きを下すという使命を。  ターゲットはすぐ目の前だ。夜間訓練飛行中に脱走《だっそう》したので、さすがに対戦車ミサイルは搭載《とうさい》していない。しかし、機首に装備されたGE—GIAT二〇ミリ三|砲身《ほうしん》機関砲には、徹甲弾《てっこうだん》が三二〇発|装填《そうてん》されている。古いホテルの外壁《がいへき》を撃《う》ち抜《ぬ》き、パーティ会場にいる者たちを皆殺《みなごろ》しにするには充分《じゅうぶん》すぎるはずだ。  ヒンクリー少尉は射撃管制レバーのトリガーに手をかけ、ヘルメットのゴーグルに投影《とうえい》された液晶《えきしょう》ディスプレイの映像に全神経を集中させていた。赤外線暗視カメラのモノクロ映像の中では、プラザホテルはゲームオーバー直前のテトリスの画面のように、光のブロックの集合体となって輝《かがや》いていた。レセプションホールのある四階は特に高い熱を帯び、フロア全体がまばゆく光っている。訓練用のターゲットに比べれば、実に大きくて狙《ねら》いやすい目標だ。撃《う》ち損じることは絶対にない……。 「何!?」  叫んだのはスミス少尉だった。突然《とつぜん》、白いものが目の前に浮上《ふじょう》してきて、 <コマンチ> とプラザの間に割って入ったのだ。 (天使!?)  スミスは慌《あわ》ててコントロールスティックをひねり、衝突《しょうとつ》を避《さ》けるために機を右旋回《みぎせんかい》させた。その白いものは、確かに天使のようだった。金髪《きんぱつ》の女の天使だ。声は聞こえなかったが、手を大きく広げ、悲痛な表情で「やめて!」と叫んでいるように見えた。  旋回は間に合わなかった。大きく振られたテイルブームが天使を直撃する。天使は弾丸のようにはじき飛ばされ、プラザの窓を突《つ》き破った。 「何だ、今のは!?」  ヒンクリーも狼狽《ろうばい》していた。彼《かれ》のゴーグルの映像にも、天使の姿が映っていたのだ。普通《ふつう》、妖怪はカメラには映らないのだが、彼女は自らの意志で妖力を切り、突進してくる <コマンチ> の前に姿をさらけ出したのである。 「天使をはねちまった!?」  スミスはすっかり混乱していた。わけが分からない。彼らにこの任務を与えたのは天使のはずだ。それなのに、なぜ天使がそれを妨害《ぼうがい》しようとしたのか……?  目標を大きくそれた <コマンチ> は、進路を一八〇度変え、シープ・メドウと呼ばれる広大な芝生《しばふ》地帯の上を低空飛行で通過していた。スミスはまだ態度を決めかねていた。戻《もど》ってもう一度アタックするべきなのか、それとも……。  ちょうどそこに、斜《なな》め前からロードレイザーが接近してきた。坂道を利用して大きくジャンプし、さらにその頂点で、パワーフェアリーがシートを配って跳躍《ちょうやく》する。長い髪《かみ》をなびかせ、金色の彗星《すいせい》となって夜空を飛翔《ひしょう》し、 <コマンチ> の機首の二〇ミリ機関砲の砲身にしがみつく。そこからさらにコクピットの前に這《は》い上がり、機首に後ろ向きにまたがった。操縦席のスミスと向かい合う格好だ。  スミスとヒンクリーには何が起こったか分からない。半裸《はんら》の少女がすぐ目の前、キャノピーの外にいるにもかかわらず、彼らの着用している暗視ゴーグルには何も映っていないのだ。視界をゴーグルに頼《たよ》っている二人にとって、パワーフェアリーは透明《とうめい》人間も同然なのである。  キャノピーの強化プラスチックに向かって、パワーフェアリーはパンチを叩きつけた。何度も、何度も。五回目でひびが入り、六回目ですっぽり穴が開いた。しゅっという音がして、軽く与圧《よあつ》されたコクピットから空気が逃《に》げ出す。彼女はそこから細い腕《うで》を突っこみ、スミスの手首をつかんでねじり上げた。 「あうっ!?」  右手首に激痛を覚え、スミスはうめいた。コントロールスティックが横に倒《たお》され、 <コマンチ> は大きく傾《かたむ》き、ふらふらと高度を下げた。黒い戦闘ヘリは湖に墜落《ついらく》した。高速で回転を続けていた五枚のローターが水面を叩き、派手に水しぶきをまき上げた。    窓ガラスの割れる音に、パーティ会場はさっと緊張《きんちょう》した。ただちに警備役のガンチェリーが′駆《か》けつける。窓際《まどぎわ》にガラスの破片《はへん》と無数の羽根が散乱しており、その中央で天使が血を流して倒れているのを、パーティ客が半円形に取り囲んで騒《さわ》いでいた。少女は彼らをかき分けて飛び出すと、天使に妖銃《ようじゅう》を突きつけた。 「フリーズ!」 「撃《う》たない……で……」  瀕死《ひんし》の重傷を負い、絨毯《じゅうたん》の上にぐったりと横たわって、天使——ジルは弱々しく哀願《あいがん》した。 「女の……天使か?」  ガンチェリーは呆然《ぼうぜん》となった。 「やれやれ、面倒《めんどう》なこったな」  湖の中央で繰り広げられている救出劇《きゅうしゅつげき》を眺《なが》めながら、サヴェッジバイトは頭をかいた。浸水《しんすい》してゆっくりと沈《しず》んでゆく <コマンチ> の上にロードレイザーが載《の》り、右手を回転|鋸《のこぎり》に変形させて、キャノピーを切り開いている。  今、湖の周囲にはシダやソテツなどの原始的な植物が生え、夜空に小型の翼手竜《よくしゅりゅう》が飛び回るなど、すっかり中生代|白亜紀《はくあき》の沼地《ぬまち》の風景になっていた。これはサヴェッジバイトの妖術で、日本で言うところの「人払《ひとばら》いの結界」のようなものだ。彼が作り出す擬似《ぎじ》空間は、人間には決して見えず、近づくこともできないので、誰《だれ》かに目撃《もくげき》される心配はない。  キャノピーが取り除かれると、パワーフェアリーが失神している乗員を引きずり出した。ロードレイザーはまたバイクに変形した。ぐったりとなった二人を背中に乗せ、水面を道路と同じように走って、岸まで戻ってくる。パワーフェアリーも泳いで後に続いた。  彼女たちの背後では、一機一〇〇〇万ドルもする <コマンチ> が、静かに水中に没《ぼっ》しつつ あった。 「こんな馬鹿野郎《ばかやろう》ども、助けるこたぁないだろうに」  岸に横たえられたスミスとヒンクリーを見下ろし、サヴェッジバイトが吐《は》き捨てるように言う。だが、ロードレイザーは静かにかぶりを振《ふ》った。 「そうも行くまい——彼らだって、いわば被害者《ひがいしゃ》だ」 [#改ページ]    12 「それは、からし種に似ている」  ミッドタウン・ウエスト——  二〇〇〇年八月二六日・午前八時五〇分(東部標準時)—— 「ニュー・エンジェル(新天使)?」  タイムズ・スクエアからさほど遠くない小さなカフェ。今日は土曜日なのでビジネスマンの数はそれほど多くなく、むしろ観光客の姿が目立つ。彼らに囲まれて朝食を取りながら、流《りゅう》とかなたは昨夜の事件について話し合っていた。 「うん、こっちじゃ、とりあえずそう呼んでるらしいよ」かなたはベーグルを口いっぱいに頬張《ほおば》りながら言った。「古い天使と区別するために」 「なんつーか……身も蓋《ふた》もないネーミングだな」 「だって、別の名前つけるわけにもいかないじゃない。いちおう天使は天使なんだし」 「そりゃそうだろうけどさ……」  流はどうしても納得がいかない様子だった。  ローマ時代後期に生まれた天使のイメージは、中世、ルネサンスの時代を経て、二〇世紀初頭にいたるまで、基本的にほとんど変化がなかった。その語源アングロス(ギリシャ語の「伝令」)の示す通り、神のメッセージを伝える使者であり、きわめて実直かつ有能。人間的な感情を超越《ちょうえつ》した神秘的な存在……。  そんなイメージは二〇世紀後半になって劇的に変化した。その原因はおそらく、一九四〇年代に製作された『素晴らしき哉《かな》、人生!』『気まぐれ天使』『天国への階段』『幽霊《ゆうれい》紐青《ニューヨーク》を行く』といった一連のファンタジー映画のヒットによるものだろう。こうした映画に出てくる天使たちは、人間と同じように笑い、苛立《いらだ》ち、愚痴《ぐち》をこぼし、ヘマもする。もちろん背中に翼《つばさ》があって、姿を消したり、ちょっとした奇跡《きせき》を起こしたりはするが、基本的に人間と変わりがない感情の持ち主として描《えが》かれている。上司である天使長の命令を受け、人間たちを良い方向に導こうと四苦八苦する姿には、サラリーマンの哀愁《あいしゅう》すら感じさせる。  こうした親しみやすい天使のイメージは、その後の多くの映画——『天国から来たチャンピオン』(『幽霊紐青を行く』のリメイク)『ベルリン・天使の詩』『天使とデート』などにも綿々と受け継《つ》がれている。いつしか欧米《おうべい》人の間では、神秘的で近寄りがたい古典的な天使のイメージは薄《うす》れ、映画界が生み出した人間的な天使のイメージが支配的になっていった。  そうした新しいイメージから生まれたのが新天使なのだ。彼らは二〇世紀後半、欧米諸国に大量に出現し、目撃《もくげき》報告も急増した。一九八二年、オランダのハンス・ムーレンバーグという歯科医師が、自分の患者《かんじゃ》を対象に行なったアンケート調査によれば、四〇〇人中三一人もの人間が実際に天使に遭遇《そうぐう》したことがあると答えたという。  古い天使は男性もしくは両性具有と決まっていたのだが、そうした性差別思想も時代の流れには勝てず、新天使の中には女性も多い(『天使とデート』に登場する天使は、美人女優エマニュエル・ベアールが演じていた)。彼女たちはもはや○○エルなどというヘブライ名ではない。グレース、キャロル、ジル、クリスチーヌ、テリー、リタ、ジュディといった英語名を名乗っている(『素晴らしき哉、人生!』に登場した男の天使は、クラレンス・オッドボディという名前だった)。最近では黒人や中国人の新天使まで現われている。  新天使たちはみな心優しく、人間を愛しており、世界を滅《ほろ》ぼそうなどとは夢《ゆめ》にも思っていない。危機に陥《おちい》っている人を助け、悩《なや》んでいる人に助言を与え、死に瀕《ひん》している人の不安や苦痛をやわらげるのが自分たちの使命だと信じているのだ。彼らのイメージは、すでに伝統的なキリスト教思想から大きく逸脱《いつだつ》しており、むしろニューエイジ思想やスピリチュアリズムの影響《えいきょう》が大きかった。  九〇年代初頭には、アメリカで熱狂《ねっきょう》的な天使ブームが起きている。天使に関する本が何冊もベストセラーになり、天使グッズが飛ぶように売れ、天使の登場する映画やテレビドラマが何本も製作されたのだ。天使の実在を信じる者は、九〇年の世論調査ではアメリカ人の約半数だったのが、九三年には六九パーセントに、九六年には七二パーセントにも達している。これは幽霊やUFOや超能力《ちょうのうりょく》を信じる者の数よりずっと多い。  ちなみに、同時期に行なわれた別の世論調査では、アメリカ人の四二パーセントは日本がどこにあるか知らず、四一パーセントは「恐竜《きょうりゅう》は人類と同じ時代に暮らしていた」と信じているという結果が出ている。 「で……その新天使って、どんな能力があるんだ?」 「姿を消したり、人の心を読んだり、危険を感知したり……」 「それだけ? 戦わないのか?」 「うん。血を見るのが嫌《きら》いだし、戦闘《せんとう》能力もさっぱり……だもんで、今度の戦いには積極的に参加しないらしいよ。だいたい、姿がまぎらわしいから、身内から攻撃《こうげき》されかねないし……」 「確かになあ」  あの重傷を負ったジルという天使も、逆上した一部の妖怪《ようかい》に吊《つ》るし上げられ、危うく殺されるところだったのだ。目撃者の証言から無実であることが分かり、今は <Xヒューマーズ> のメンバーに保護されて治療《ちりょう》を受けているという。本人の弁によれば、西海岸からやって来て、自発的にホテルの周囲をパトロールしていただけだそうだ。 「でも、不思議だよな」 「何が?」 「天使は�神�に仕えてるわけだろ? 新天使は何に仕えてるんだ?」 「さあ……仕えてる神様なんていないんじゃない?」 「それって変じゃないか? 天使は二種類いるのに、どうして�神�は一種類……というか一体なんだ?」 「そりゃ、みんなが『神は唯一《ゆいいつ》絶対』って信じてるからでしょ。天使は何人いてもいいけど、神様は一人だけなのよ」 「でも、新天使だって神に仕えてるって信じられてるんじゃないのか? 天使の仕える�神�が実在するのに、新天使には神がいないって、どっか矛盾《むじゅん》してないか?」 「さあ。知らないよ、そんなの」  かなたはそっけなく答えた。彼女の心配は、目前に迫《せま》った最終決戦の行方《ゆくえ》だ。おそらく何千という数の妖怪が生命を落とすだろうし、自分たちだって生き残れるかどうか分からない。そんな大問題の前では、流の素朴《そぼく》な疑問など、頭を悩ます価値もないちっぽけな問題のように思われた。  実際にはそれがちっぽけな問題などではないことに、彼女はまだ気づいていなかった。  イースト・ビレッジ——  同日・午前二時二〇分—— 「やっぱさあ、あのラストって見え見えだけど泣けるよな。『僕《ぼく》、スーパーマンになる』ってのが」 「ええ。私もあの映画はけっこう好き」  大きな段ボール箱《ばこ》を抱《かか》え、教会に向かう道を歩きながら、アリッサと摩耶《まや》は共通の趣味《しゅみ》——アニメの話で盛《も》り上っていた。  今日は素晴らしい快晴。真夏の太陽が頭上から照りつけ、アスファルトをじりじり焼いている。帽子《ぼうし》をかぶっているにもかかわらず、二人とも額から汗《あせ》を流していた。 「なあなあ、プレダコンズの中で誰《だれ》が好き?」 「うーん、強《し》いて言うならランページかな」 「えーっ!? あんなカニのどこがいいの?」 「あー、うーんと……何となく」  摩耶は言葉を濁《にご》した。さすがに「声が檜山《ひやま》さんだから」とは言えない。 「でも、ニューヨークにもこんなところがあったのね」  彼女は話題を変えた。倉庫や赤|煉瓦《れんが》造りの安アパートが並《なら》ぶ薄汚《うすよご》れた街|並《な》みは、とてもマンハッタンの中とは思えない。ニューヨークというと、街全体が高層ビルに埋《う》め尽《つ》くされているような印象があったのだが。  もうひとつ意外だったのは、白人の比率の少なさだ。アリッサが「この街じゃ、オレみたいな純白のほうがマイノリティさ」と言って笑うのは、決して誇張《こちょう》ではない。ニューヨークの人口比率は、アフリカ系、ヒスパニック、アジア系などの非白人の合計が五八パーセントを占める。残り四二パーセントのうち、一五パーセントがユダヤ系、一〇パーセントがイタリア系、七パーセントがアイルランド系だ。  特にこのイースト・ビレッジでは、すれ違《ちが》う住民のほとんどが黒人かプエルトリコ系で、金髪《きんぱつ》や白い肌《はだ》はめったにお目にかかれない。アメリカは白人の国という先入観を、摩耶は叩《たた》き直された。 「でも、すごく平和そうな街ね」摩耶は素朴な感想を口にした。「気を悪くしたらごめんなさいね。私、ニューヨークに偏見《へんけん》を持ってたの。つまり、その……」 「世界最大の犯罪都市。売春、麻薬《まやく》、レイプ、ひったくり、発砲《はっぽう》事件は日常|茶飯事《さはんじ》ってか?」 「ええ、まあ……」  アリッサは笑った。「そりゃ、偏見じゃねえぜ。事実だもん」 「でも……」 「ここに住んでるオレだって、毎日びくびくもんなんだぜ。夜、買い物に行く時とか、裏通り歩く時なんか、神経びんびんに尖《とが》らせて、周囲にレーダー張りめぐらせてんだ。特にオレみたいなとびきりの美少女は、気苦労多いぜ。人の何倍も注意してなくちゃなんねえもんな。ちょっとでも気ぃゆるめたら、後ろから頭|殴《なぐ》られて、そこらの路地裏に連れこまれて、犯されちまうから。クラスメートにそういう子、いるしな」 「……!」  摩耶はショックを受けた。ニューヨークの犯罪事情も衝撃《しょうげき》的だが、アリッサがそれを当たり前のことのように口にしたのも驚《おどろ》きだ。 「ま、おふくろや先生の話じゃ、オレの生まれる前よりはずっと犯罪発生率が減ってきてんだそうだけど、それでも油断はできねえな。ちょくちょく銃声《じゅうせい》は聞こえるし、麻薬《ヤク》の売人はうろついてるし、喧嘩《けんか》もしょっちゅうだし……」 「……こわくないの?」 「喧嘩は慣れちまったな。ずっとちっちゃい頃《ころ》から、数え切れないほどストリート・ファイトやってきたから、腕《うで》っぷしだけは鍛《きた》えられてんだ。ここじゃ格闘《かくとう》は絶対必要なスキルだな。警察は当てになんねえし、自分の身は自分で守らねえと」  アリッサ=ガンチェリーの強さの秘密を、摩耶は理解したように思えた。この街は鉄とコンクリートでできた現代のジャングル、危険な猛獣《もうじゅう》で満ちあふれた秘境であり、彼女はこの苛酷《かこく》な環境《かんきょう》で生まれ育った原住民なのだ。  この街で生き抜《ぬ》くには、暴力に対抗《たいこう》するための健康な肉体も重要だが、危険を嗅《か》ぎ分ける鋭敏《えいびん》な感覚、ストリートの知識、そして何より強い意志が不可欠だ。猛獣は人の姿で襲《おそ》ってくるとはかぎらない。白い粉、チラシ、甘《あま》い言葉に偽装《ぎそう》して忍《しの》び寄ってくるものもあるのだから。 「なあなあ、日本ってすっごく治安いいんだって? 街中でホールドアップされたりしないって本当? タクシーに仕切り板がないってのも? 道端《みちばた》にコインの詰《つ》まった自動販売機が置いてあっても、誰にも壊《こわ》されないって?」 「ええ」 「すげえなあ。夢《ゆめ》みたい」アリッサは信じられない様子で、何度も頭を振《ふ》った。「地球上にそんな国、あるんだなあ」  どう答えていいものか、摩耶には分からなかった。日本にいた頃は実感していなかったが、言われてみれば、あれほど治安が良く、経済的に豊かで、戦争もなく、ストリート・チルドレンもおらず、発砲事件が少なく、識字率が一〇〇パーセント近い国など、世界でも珍《めずら》しい部類だろう。それなのに、今の日本を誇《ほこ》りに思わず、不満ばかり口にする日本人が多いのは、何とも不思議なことだ。  そんな話をしているうちに、二人は目的の教会にたどり着いた。すでにバザーの準備がかなり進んでいる。柵《さく》や楡《にれ》の木はティッシュの花で飾《かざ》りつけられ、小さな前庭いっぱいに何校ものシートが広げられて、ボランティアの男女が売り物を並《なら》べるのに忙《いそが》しそうだった。みんなこの地区の住民らしく、ほぼ全員が黒人である。  バザーの売り物は種々雑多で、文房具《ぶんぼうぐ》や紙オムツから、家具、絵画、CD、ビデオ、コミックス、旧式のパソコンまであった。楽器演奏の余興もあるらしく、礼拝堂のポーチには、アンプやキーボードやドラムが並べられている。 「へーい、牧師様あ!」  アリッサが声をかけると、ボランティアたちに指示を出していた老牧師が振り返った。摩耶が想像していたよりも、ずっと老けている。腰が曲がりかけているし、チョコレート色の肌には深い皺《しわ》が刻《きざ》まれていた。 「おお、来てくれたね、アリッサ」 「当然だろ——ああ、マヤ、これが例のバレンタイン牧師。牧師様、こっちはマヤ、日本から来たんだ」 「よろしく」  摩耶がおずおずと頭を下げると、牧師は「おお、日本から!」と相好《そうごう》を崩《くず》した。 「それはわざわざ大変でしたでしょう」 「別にボランティアに来たわけじゃないんだけど、オレが牧師様のこと話したら、会ってみたいって言うもんだからさ、連れてきちゃった——ああ、そうそう、これ」  アリッサは段ボール箱を地面に下ろし、蓋《ふた》を開いた。中には小さなぬいぐるみやおもちゃがぎっしり詰《つ》まっている。 「クラスメートの家回って集めてきたんだ」 「おお、これはこれは!」牧師は箱の中から黄色いぬいぐるみを拾い上げ、細い眼《め》をさらに細くしてにこにこと笑った。「ピカチュウ! これは二〇世紀に日本人の発明したものの中で、最も素晴らしいものだね」  摩耶とアリッサはちらりと視線を交わし、苦笑した。牧師があまりに無邪気《むじゃき》に嬉《うれ》しがっているので、「牧師様、それはエレキッドです」とはツッコめない。  アリッサはさっそくおもちゃをシートの上に並べ、値札《ねふだ》をつける作業をはじめた。他のシートはほぼバザーの品を並べ終わっており、手の空いたボランティアたちはレモネードやアイスクリームを造る作業に取りかかっていた。どうやら万事順調で、牧師が監督《かんとく》する必要はあまりないようだった。 「ところで牧師様」適当なタイミングを見計らって、摩耶は本題を切り出した。「実は聞いていただきたいことがあるんですが……」  彼女の口調と表情から、バレンタイン牧師はすぐに何かを察したようだった。 「明日ではだめなのですね?」 「……できれば早い方が」  牧師は腕《うで》時計に目をやり、少し考えてから言った。 「あと三〇分でバザーがはじまります。バザーの最中は忙しいし、終わった後も片づけやら打ち上げやらがあって、時間が取れないかもしれません。今すぐならお話をおうかがいできますが、それでいかがでしょうか?」 「申し訳ありません」 「遠慮《えんりょ》なさらなくてもいいんですよ。こういうのは早い方がいい——こちらへ」  彼はボランティアたちに後をまかせると、摩耶を連れて礼拝堂の裏に回り、別棟《べつむね》にある自分の私室に案内した。  足を踏《ふ》み入れた摩耶は、いきなり本の多さに圧倒《あっとう》された。一方の壁《かべ》が巨大《きょだい》な本棚《ほんだな》になっており、厚くて難しそうな学術書が乱雑に詰《つ》めこまれているのだ。それでも収まりきらず、一部はデスクの上にまであふれ出していた。ほとんどは英語のタイトルで、聖書学や歴史学の専門書らしいと見当がついたが、背表紙にヘブライ文字やギリシャ文字が印刷された本も何冊かあった。頭のいい勉強家だというのは本当のようだ。  室内には余計な装飾《そうしょく》はひとつもなかった。何十年も張り替《か》えていないらしい壁紙は、窓《まど》からの陽《ひ》に当たる部分だけがすっかり変色し、雨|漏《も》りによる染みもできていた。クーラーさえもなく、唯一の冷房《れいぼう》器具は中古の扇風機《せんぷうき》である。どうやらこの本の山は、牧師にとって唯一の贅沢《ぜいたく》のようだ。 「さて……」  デスクの上の本の山を押《お》しのけてスペースを作ると、牧師は紙袋《かみぶくろ》から質素な昼食を取り出した。サンドイッチと缶《かん》入りのオレンジジュースだ。摩耶に来客用の椅子《いす》を勧め、自分も革のすりきれた椅子に腰《こし》を下ろす。 「食事しながらお話をする無礼をお許しください。バザーの最中はいつもろくに食事する時間もありませんので、空腹で目が回りそうになるのですよ。それで、少し早いですが、スタート直前に少し腹に入れておくことにしているのです」 「かまいません。こちらこそご無理を言って……」 「で、お悩《なや》みというのは?」  そう言って、牧師は野菜サンドにかぶりついた。どこから切り出していいものか、摩耶は迷った。天使や�神�の話、アザゼルから聞かされた真実の歴史の話など、できるわけがない。結局、あいまいで当たり障りのない言い方をするしかなかった。 「私、分からなくなっているんです。聖書に書いてあることが信じられなくなって……」 「聖書のどの部分ですか?」 「全部です」摩耶はすがるように牧師を見た。「イエス様は本当はどんな方だったんでしょう? 本当に病人を治されたり、水の上を歩かれたり、十字架《じゅうじか》上で亡くなられてから復活されたりしたんでしょうか? 私も昔はそう信じていましたけど、今はそんなおとぎ話は信じられません。イエス様はただの人間だったのかもしれない。それどころか、現代によくいるような、インチキな超能力《ちょうのうりょく》を売り物にしたカルト集団の教祖にすぎなかったのかもしれない。でも、もしそうだとしたら——聖書に書かれていることがみんな嘘《うそ》だとしたら……」 「何をよりどころにして生さればいいのか、と?」 「……そうです」 「ふむ……」  牧師はサンドイッチを頬張《ほおば》り、しばし沈黙《ちんもく》した。摩耶の話を聞き流しているように見えたが、実際には深く考えていたようだ。サンドイッチをよく噛《か》んで飲み下してから、おもむろにこう言ったのである。 「円周率はいくつですか?」 「え?」脈絡《みゃくらく》のない質問に、摩耶はとまどった。「あの……円周率ですか?」 「そうです。ご存知ですか?」 「三・一四一五九二ですけど……」 「はう、小数点以下六|桁《けた》まで暗記しておられますか。私は三・一四までしか覚えていませんよ。まあ、日常生活で円周率が必要になるのは、大工仕事などで図面を書く時ぐらいでしょうし、小数点以下二桁まで知っていれば充分《じゅうぶん》ですからね」 「あの、それが何か……?」 「これをごらんなさい——ええと、このページです」  牧師は手近にあった聖書をめくり、皺《しわ》だらけの細い指である箇所《かしょ》を示した。『列王記上』第七章二三節、ソロモン王が建てた神殿《しんでん》に置かれた、大きな杯《さかずき》型の祭器についての描写《びょうしゃ》だ。 『彼は鋳物《いもの》の「海」を作った。直径十アンマの円形で、高さは五アンマ、周囲は縄《なわ》で測ると三十アンマであった……』 「さあ、どうです?」牧師は勝ち誇《ほこ》ったように言った。 「この杯は円周が直径のちょうど三倍だと書いてある。すなわち、聖書の記述を信じるなら、円周率は三・〇〇なのです。学校で教えている円周率——三・一四は間違《まちが》いということになります」  摩耶は困惑《こんわく》した。この牧師は何が言いたいのだろう? 「それはただ、昔の人が円周率の数値を知らなかっただけじゃないんですか?」 「もちろん、そうですとも」牧師はいたずらっぽく微笑《ほほえ》み、うなずいた。「『列王記』が書かれたのは紀元前六世紀で、アルキメデスが三・一四という数値を計算によって求めたのは、それから三世紀も後なのですから。しかし、世の中には、聖書は一言一句まで間違いがないと信じる人も多いのです。そういう人たちは、この明らかに誤った記述を擁護《ようご》しようと、いろいろな珍説《ちんせつ》をひねり出してきました。『この�周囲�というのは杯の底の部分を測ったのだ』とか、『杯の内側を測ったのだ』とか……中には、『円周率は本当は三・〇〇なのだが、数学者が共謀《きょうぼう》して我々を騙《だま》しているのだ』と唱える者までいる始末です。しかし、そんなに深く考えることはない。聖書もしょせん人間の書いたものであり、人間の知識の限界に縛《しば》られている、というだけの話です」  摩耶はようやく、牧師が話をどんな方向に持っていこうとしているのかを察した。 「聖書にも些細《ささい》な間違いがいくつかある、と?」 「些細な間違いがいくつか? いえいえ、とんでもない。重大な間違いがたくさん、ですよ」・ 「たくさん?」 「そうです。たとえば旧約聖書の冒頭、『創世記』の天地創造のくだりからして明白な矛盾《むじゅん》がある。第一章では、神は三日目に植物を創《つく》られ、五日目に鳥と魚を、六日目に獣《けもの》と人間の男女を創られたと書かれています。ところが第二葦四節以降では、神はまずアダムを創られてから、植物と獣と烏を創られ、最後にイブを創られたと書かれています。  なぜこんな矛盾が起きたのか? ヘブライ語の原文では、第一章一節から第二章三節まで、神は一貫《いっかん》して『エロヒム』と呼ばれています。ところが第二章四節から急に『ヤハウェ』に変わってしまいます。この箇所だけではありません。『創世記』の多くの部分で、細部の矛盾する説明が二度繰り返されているのです。ノアの洪水《こうずい》、神とアブラハムの契約《けいやく》、イサクの命名、アブラハムが妻サラを妹と偽《いつわ》る場面……そのいずれも、一方では神を『エロヒム』と呼び、一方では『ヤハウェ』と呼んでいます。すなわち、もともと二種類の異なるテキストが存在し、それをパッチワークして編集されたのが『創世記』、というわけです」  摩耶は軽い当惑《とうわく》を覚えた。聖書は何度も読んだはずなのだが、そんな重大な矛盾があることに、まったく気がつかなかったのだ。 「それは牧師様が発見されたのですか……?」  恐《おそ》る恐るそう訊《たず》ねると、老牧師は笑い出した。 「いやいや、とんでもない! もう二〇〇年以上も前、一八世紀に、三人の人間がそれぞれ独自に聖書を研究しているうち、同じ発見をしたのです。ドイツの聖職者ヴィッテル、フランスの医師アストリュック、ドイツの学者アイヒホルン……もしかしたら、一八世紀以前にもすでに気づいていた人がいるかもしれませんが、発表できなかったでしょうね。『モーセの五書はモーセが書いたものではない』と唱えただけで、焚書《ふんしょ》にされるような時代でしたから。現在ではさらに研究が進んでいて、モーセの五書は少なくとも四人の著者の手によって、異なる時代、異なる土地で書かれた文書の集合体であることが判明しています」  モーセの五書とは、旧約聖書の最初の五編、『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』のことで、長いこと預言者モーセが書いたものだと信じられてきた。今でもそう信じているキリスト教徒は少なくない。 「何年か前に『聖書の暗号』などというものが話題になったことがありました。モーセの五書のヘブライ文字を数百字ごとに拾い読みしてゆくと、『ルーズヴェルト』とか『ケネディ』といった単語が発見できるというのです。聖書学の初歩知識を知っていれば、これがいかにナンセンスな話であるか、すぐに分かります。そんな暗号が発見されるとしたら、モーセの五書は一人の著者の手によって書かれ、現代にいたるまでの数千年間、一語たりとも書き換えられていないことになる。一文字でも挿入《そうにゅう》か削除《さくじょ》があれば、文字の配列が乱れ、暗号は発見できないはずですからね。しかし、まともな聖書学者で、モーセの五書が一人の著者によって書かれたとか、一度も改竄《かいざん》されていないなどと信じている者はおりません。『聖書の暗号』などというオカルト話を信じるのは、聖書に無知な者だけです。  同じことは新約聖書についても言えます。悲しむべきことに、ほとんどのキリスト教徒は、福音書に書かれたことはまぎれもない歴史的事実であり、紀元一世紀に書かれて以来、一度も書き換えられたことがないと信じています。しかし、ほんの少し注意深く読めば、それが事実に反していることはすぐに分かるのです。  たとえば、『ヨハネによる福音書』の最後の晩餐《ばんさん》の場面、第一四章の最後で、イエスは弟子たちに『さあ、立て。ここから出かけよう』と言われます。ところが、その後もイエスは長々と話し続け、実際に出かけるのは第一八章の冒頭《ぼうとう》です。すなわち、オリジナルのテキストでは、第一四章のすぐ後に第一八章が続いていたのです。第一五章から第一七草までのイエスの言葉は、後世の人間が書き足した部分なのです。  また、『マルコによる福音書』は、第一六章八節の最後、復活されたイエスが現われるくだりの直前で、文章が不自然に途切《とぎ》れています。これはオリジナルのテキストが失われてしまったためです。九節以降は後になって書き足されたのです——ああ、ここです」  牧師は『マルコによる福音書』の最後のページを開き、墓から復活したイエスが弟子たちに語ったとされる言葉を読み上げた。 「『信じる者には次のようなしるしが伴《ともな》う。彼らはわたしの名によって悪霊《あくりょう》を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇《へび》をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る』……本当だとしたら素晴らしいことですが、残念ながら、これはイエスの言われた言葉ではありませんし、最初から『マルコ』に書かれていた言葉ですらありません。  ところが、世の中にはこうしたことを知らない、あるいは知ろうとしない人が大勢います。福音書に記されたイエスの言葉は、すべて実際にイエスの言われた言葉であり、疑うべきではないと信じている人たちが。  今世紀初頭のことですが、ジョージ・ヘンズリーという聖職者が、この『マルコ』の巻末の記述を信じてしまいました。神を信じる者は蛇をつかんでも害を受けないと思いこんだのです。彼は教会の中で、会衆の手から手へ毒蛇を手渡《てわた》してゆくという危険なパフォーマンスをはじめました——どうなったと思います?」 「……どうなったんですか?」摩耶はおずおずと訊《たず》ねた。 「よほど運が良かったのでしょうね。ヘンズリーは七五歳まで生き延びました。しかし、結局は蛇に噛《か》まれて死んだのです……」牧師は悲しげにかぶりを振《ふ》った。「当たり前の話です。どれほど熱心に神を信じていようと、蛇に噛まれれば死ぬのです。そんな愚《おろ》かな行為《こうい》は、本当の信仰《しんこう》とは何の関係もありません」 「…………」 「お分かりですか? 聖書の記述を盲信《もうしん》するという行為は、時として生命をも危うくするのです。ですから、私はいつも会衆にこう説いています。『聖書の教えを学ぶということは、聖書の文句を丸暗記することではありません。何も考えずに言葉を繰り返すだけなら、テープレコーダーでもできる。自分の頭で考えてみることが大切です。聖書の言葉は何を意味しているのか、そこに本当は何が書いてあるのかを知ることです』……とね」 「……本当は何が書いてあるのですか?」  牧師は優しく笑った。「私は、自分で考えてみなさい、と言ったのですよ」 「……すみません」摩耶は恐縮《きょうしゅく》した。「でも、ヒントだけでも……」 「そうですね。何か助言を差し上げるとしたら、『聖書に書かれたことは、すべて疑ってかかれ』ということです。常識とされていることでさえもね」  摩耶は今度こそ度肝《どぎも》を抜《ぬ》かれた。アリッサがこの牧師のことを「異端《いたん》」と呼んでいた理由が分かった。「聖書を疑え」と教える聖職者など、前代未聞だ。 「たとえば、こんなのはどうでしょうか」  牧師はまた聖書を開き、『ルカによる福音書』第二章の最初の部分、有名なイエス誕生《たんじょう》の場面を読み上げた。 「『そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令《ちょくれい》が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督《そうとく》であったときに行なわれた最初の住民登録である。人々は皆《みな》、登録をするためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのべツレヘムというダビデの町へ上がって行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒《いっしょ》に登録するためである』……。  歴史学者によれば、この記述はまったくのデタラメです。確かに紀元六年、ユダヤの地はローマの直接支配下に入り、住民に課税の義務が生じたため、ユダヤ人に対して戸口調査が行なわれたという事実はあります。しかし、当時、ガリラヤは独立した支配者の統治下にあったのです。ヨセフはガリラヤ人でしたから、ローマに税金を払《はら》う義務などなく、ましてや身重のマリアを連れてはるばるべツレヘムまで登録に出向く理由などまったくありません。さらに大きな矛盾《むじゅん》は、『ルカ』によれはイエスがお生まれになったのはユダヤ王へロデの時代のはずですが、ヘロデ王は紀元前四年に死んでいるのです。キリニウスがシリアの総督になったのは紀元六年ですから、まったくつじつまが合いません。  このことから断言できるのは、『ルカ』のこの部分は創作であり、イエスはべツレヘムでお生まれになったのではない、ということです。救世主はダビデの血筋でべツレヘムに生まれるという伝承があったため、『ルカ』の著者はそれに合わせて事実をねじ曲げたのです。まず間違《まちが》いなく、イエスはナザレにあるご自分の家でお生まれになったはずです。当然、馬小屋ではなかったでしょうし、もちろんクリスマスの夜でもなかったでしょう。そもそも福音書には、イエスの誕生日がいつなのか、どこにも書かれていないのですから」  初めて知る事実の数々に、摩耶は頭がくらくらするのを覚えた。イエスはクリスマスの夜にべツレヘムの馬小屋で生まれたのではない? だったら、世界中のキリスト教徒は、クリスマスに何を祝っているのだろう?  牧師はそこまで一気に喋《しゃべ》ってから、乾《かわ》いた口を湿《しめ》らせるためにオレンジジュースを少し飲み、ちらっと時計を見た。二時四五分になっていた。 「あと一五分しかありませんね。福音書の創作|箇所《かしょ》をいちいち指摘《してき》していては、いくら時間があっても足りません。途中《とちゅう》は大幅《おおはば》に飛ばして、イエスの死についてお話ししましょう——イエスが処刑されたいきさつはご存知ですね?」 「ユダヤの祭司に捕《と》らえられて、ローマの総督に引き渡されたんです……よね?」摩耶はもう自分の知識に自信が持てなかった。「違うんですか?」 「それはおおむね事実ではありますが、細部はかなり粉飾《ふんしょく》されています。福音書によれば、ローマ総督ピラトはイエスが無実ではないかと感じ、釈放しようとするのですが、ユダヤ人たちのゴリ押《お》しに負けて処刑したことになっています。しかし、実在のポンティウス・ピラトゥスが、無慈悲《むじひ》で頑固《がんこ》な人物であり、ユダヤ人を暴力で弾圧《だんあつ》したことは、いくつもの資料から明らかなのです。それは福音書に描《えが》かれた誠実で気の弱い人物像とはまったく一致《いっち》しません。ですからピラトに関する描写は事実ではなく、キリスト教徒によるプロパガンダであるというのが、聖書学者や歴史学者の一致した意見です」 「どうしてそんなことを?」 「それは福音書の書かれた時代に理由があります。紀元六六年、パレスチナのユダヤ人たちは独立を求め、ローマ帝国に反旗をひるがえしました。いわゆる第一次ユダヤ戦争です。この戦いは四年後、エルサレムの陥落《かんらく》で幕を閉じました。一部のユダヤ人はマサダ砦《とりで》に立てこもって抵抗《ていこう》を続けましたが、結局は全滅《ぜんめつ》してしまいました……。 『マルコによる福音書』の第一三章には、エルサレムの神殿を訪れたイエスが、神殿の崩壊《ほうかい》を弟子に予言するくだりがあります。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩《くず》れずに他の石の上に残ることはない』……これが本当にイエスの言葉だとしたら、見事な予言と言えるでしょう。実際、エルサレムの神殿はユダヤ戦争によって跡形《あとかた》もなく破壊されてしまったのですから。しかし、『マルコ』が書かれたのは神殿の崩壊の直後、紀元七〇年代なのです。つまり『マルコ』の著者は、イエスの偉大《いだい》さを誇張《こちょう》するため、つい最近起きた大事件についてイエスに語らせ、彼があたかも未来を見通していたかのように見せかけたのです。  ピラトの人物像を歪《ゆが》めた理由も、当時のキリスト教徒の心理になってみれば、容易に推測できます。ローマ帝国から迫害《はくがい》されていたキリスト教徒にとって、ローマ人をこれ以上不必要に刺激《しげき》することは、絶対に避《さ》けねはならなかったのです。ローマ人の敵であるユダヤ人に肩入《かたい》れすることはできなかった。ユダヤ人は自分たちにとっても敵であると宣伝しなければならなかったのです。そこで、ローマ人であるピラトを好意的に描くとともに、ユダヤ教の祭司たちや民衆を実際以上に悪人であるかのように描き、イエスが処刑されたのはローマ人のせいではなく、ユダヤ人の責任であると説いたのです」 「でも、それじゃ——」  摩耶は絶句した。ようやく次の言葉が出てきたのは、たっぷり一〇秒も後で、蚊《か》の鳴くような小さな声だった。 「ユダヤ人が弾圧《だんあつ》されてきたのは……?」 「そう、大いなる間違いです。キリスト教徒はこの一九〇〇年間、福音書の歪曲《わいきょく》された記述を信じこみ、ユダヤ人を憎《にく》んできた。福音書の著者たちが、ほんの少し、書き方に気を使っていれば、ホロコーストも起きなかったかもしれない……」  歴史上最大の悲劇に想《おも》いをめぐらせてか、牧師は大きなため息をついた。 「しかし、そのことで一世紀のキリスト教徒を責めるのは、酷《こく》というものです。彼らは弾圧を受け、充分《じゅうぶん》すぎるほど苦しんでいました。少しでも苦しみから逃《のが》れたいと思うのは、人間として当然のことではないでしょうか? まして彼らは、自分たちの書いたことが一九〇〇年も未来にどんな影響《えいきょう》を与えるか、想像もできなかったでしょう」  摩耶はすっかり混乱してしまっていた。頭の中では無数のクエスチョンマークが渦《うず》を巻いている。聖書に書かれていること、自分が信じてきたことが、これほど間違いだらけだとしたら、いったい何を信じればいいのか? 真実はどこにあるのか?  いや、もっと大きな疑問がある。こうした事実を知りながら、なぜこの牧師は信仰《しんこう》を保っていられるのか? 「牧師様はいつも教えておられるんですか? その……こういうことを?」 「ええ」 「みんな納得なさってるんですか? 何も言われませんか?」 「それはもう、顔をしかめる人も大勢いますよ」牧師は苦笑した。「私の話を聞いて怒《おこ》り出す人もいます。しょっちゅう抗議《こうぎ》も受けます。『なぜ聖書に書かれていることは事実だと教えないのか』とね……ひどい噂《うわさ》を流されたこともありますし、腐《くさ》った卵や猫《ねこ》の死骸《しがい》を投げこまれたのも、一度や二度ではありません」 「でも、教えるのをやめない?」 「ええ。抗議する人に対し、私はいつもこう答えることにしています。『事実ではないことを事実だと教えることは、私にはできません。それは私の良心が許さない。良心に反する行いをすることは、それこそ神の御心《みこころ》にそむくことではないですか』……とね」  摩耶はようやく、アリッサがこの牧師に惹《ひ》かれる理由が分かった。二人はよく似ている——正義と真実を尊び、自分のポリシーを決して曲げない誠実なところが。 「でも、牧師様のお話を聞いていると、聖書に書いてある言葉はほとんど嘘《うそ》という気がしてくるんですけど……」 「実際、ほとんど嘘なのだからしかたありません。聖書学者たちの共同研究によれば、福音書に記されているイエスの言葉のうち、実際にイエスの口から出たものではないとされる言葉は、八二パーセントに達するそうです」 「そんなに!?」摩耶は仰天《ぎょうてん》した。「じゃあ……じゃあ、本当にイエスが言われた言葉は、たった一八パーセント?」 「そういうことになります。もちろんこの数字には異論もありますが、福音書の記述の大半が創作だという点では、聖書学者の意見は一致しています」 「では、どれが本当のイエスの言葉なんですか?」 「Q資料というのをご存知ですか?」  摩耶が初めて耳にする言葉だった。「いいえ」 「ご存知のように、福音書は『マタイ』『マルコ』『ルカ』『ヨハネ』の四編。このうち、最も早く書かれたのが『マルコ』で、さっきも言いましたように紀元七〇年代です。『マタイ』と『ルカ』はその十数年後、『ヨハネ』はもっと遅《おそ》く、九〇年代か、もしかしたら二世紀に入ってからかもしれません。  さて、『ヨハネ』は他の三編と内容が違《ちが》いすぎるので、ひとまず置くとして、『マルコ』『マタイ』『ルカ』を比較《ひかく》すると面白いことが分かります。『マタイ』と『ルカ』の著者は、イエスの生涯《しょうがい》に関して、明らかに『マルコ』の記述をベースにして書いていますが、それ以外に共通する別の資料を用いているのです。聖書学者はこれをQ資料と呼んでいます。  Q資料はいわばイエスの語録集——イエスが語った言葉を誰《だれ》かが書き留めておいたものと考えられています。つまり、それだけイエスの生の声に近いものだと。『マタイ』と『ルカ』の著者は、『マルコ』の内容にQ資料をプラスして、福音書を書いたわけです。  もちろん、Q資料そのものは現存していませんが、福音書の内容の比較研究から、かなりの程度まで復元されています。一九四五年、エジプトのナグ・ハマディで発見された文書との比較からも、Q資料仮説の正しさは実証されています」 「それで、そのQ資料には、何が書いてあるんですか?」 「何が書いてないか、と問うべきでしょうね。オリジナルのQ資料の中では、イエスは奇跡《きせき》を何ひとつ起こされません。水の上を歩いたり、パンを増やしたり、死者を蘇《よみがえ》らせたりなさらないのです。エルサレムの神殿が崩壊《ほうかい》するとか、ご自分が死後に復活するといったことも予言されていません。ご自分が救世主だとも明言されていません。この世がまもなく滅《ほろ》びるとも言われません……」 「ええ!?」摩耶は驚《おどろ》き、思わず身を乗り出した。「本当ですか!? イエスはこの世が滅びることを予言しておられない?」 「Q資料の中ではね」 「でも、Q資料はイエスの真実の言葉に近いものなんでしょう? その中に神の国の到来《とうらい》は予言されていないということですか?」 「そうです。もちろんQ資料の中にも『神の国』というフレーズは何度も出てきます。たとえば、あの有名な言葉——『貧しい人々は幸いである。彼らには神の国がある』というのは、Q資料の中にあります。あるいはこんな言葉も。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔《ま》くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣《す》を作る』『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨《ふく》れる』……。  これらの言葉から分かるのは、イエスは『神の国』という言葉を比喩《ひゆ》として用いられているということです。それは決して城壁《じょうへき》に囲まれた王国のことではないし、ましてや空から降りてくる新しいエルサレムのことでもない。もしそうだとしたら、からし種やパン種に似ているなどとは仰《おっしゃ》らなかったでしょう」 「確かに……」 「ですから聖書学者の中には、『イエスは終末を予言しなかった』と唱える者もいます。福音書の中の終末思想は、イエスの死後、ユダヤ教の終末思想を元に信者たちが考えつき、広めたものであって、イエス自身の言葉ではないと——異論はありますが、私としては信憑《しんぴょう》性のある説だと思っています」  牧師の話を聞きながら、摩耶はアザゼルから聞かされた話を思い出した。一世紀中|頃《ごろ》、皇帝ネロの時代のキリスト教徒が、どれほどひどい弾圧を受けたかを——闘技《とうぎ》場でライオンの餌《えさ》にされたり、タールを塗《ぬ》られて生きたまま焼かれたことを。  彼らにとって、この世はまさに末世、終わりの見えない地獄《じごく》であったことだろう。この忌《い》まわしい世界が終末を迎《むか》え、苦難が終わりを告げることを、切実に待望したことだろう。やがて彼らの間に、「イエスはこの世の終わりが近いと予言された」という噂が、自然発生的に芽生え、信じられていった。彼らのうちの誰《だれ》かが、イエスが終末を予言した言葉を創作して広め、それが数十年後に福音書に盛《も》りこまれた……。  無論、ただの仮説であり、証拠《しょうこ》はない。しかし、エルサレム神殿崩壊の予言について『マルコ』が使ったトリックを見ると、充分に可能性のある話だ。 「では、イエスの言われた『神の国』とは何なのですか?」 「正典の福音書からそれを知るのは困難でしょうね。Q資料の中に終末思想を否定する言葉があったとしても、『マタイ』や『ルカ』の著者には無視されてしまったでしょうから」 「では、分からないのですか?」 「手がかりはあります。『トマスによる福音書』という文書があるのです。いわゆる外典《げてん》で、以前から断片的に知られていたのですが、一九四五年にナグ・ハマディでコプト語の本文が発見されたことで、全貌《ぜんぼう》が明らかになりました」  聖書には外典・偽典《ぎてん》と呼ばれるものがたくさんある。それらは決して偽文書というわけではないし、正典に比べて歴史的正確さが劣《おと》るわけでもない。重要性が低かったり、教会の教義に合わないという理由で、正典に採用されなかったというだけだ。 『トマスによる福音書』は、イエスの弟子のディデュモス・ユーダス・トマスによって書かれたとされている。もちろんその点は嘘《うそ》だろう。しかし、正典の福音書もマルコやマタイやルカやヨハネによって書かれたものではないのだから(福音書にはもともと個々の書名はなく、それらの名前は二世紀になってつけられたものだ)、信憑性という点では大差ない。 「『トマスによる福音書』には、Q資料からの引用が大量に含《ふく》まれています。成立したのは二世紀|頃《ごろ》ですが、聖書学者の中には、『マルコ』に先行する古い伝承が存在し、それが『トマス』に受け継《つ》がれていると推論する者もいます。だとすれば、『トマス』の方が正典の福音書よりも真のイエスの言葉に近い、という可能性もあるわけです」 「どんなことが書かれているのですか?」 「たとえば、『トマス』の中のイエスは、いつ新しい世が来るのかと弟子たちから訊《たず》ねられ、こうお答えになります。『あなた方が待っているものは、すでに来た。しかし、あなた方はそれを知らない』……」 「すでに来た……?」 「また、こうも言われます。『御国《みくに》はあなた方の中にある。そして、それはあなた方の外にある。あなた方があなた方自身を知る時に、その時にあなた方は知られるであろう。そして、あなた方は知るであろう、あなた方が生ける父の子であることを』……」 「私たちが、私たち自身を知る時に……?」摩耶はその新しい福音を噛《か》み締《し》めた。「神の国が私たちの中に……?」 「そうです」  ドアがノックされた。牧師が「どうぞ」と言うと、ボランティアの青年が顔を出した。 「牧師様、そろそろ時間ですが」 「ああ、すまない。あと五分だけ待ってくれるかな」  青年が出て行くと、牧師は満足げな笑顔で摩耶に向き遭った。 「彼らはよく働いてくれています。アリッサもね。貧しい人たちを救うために、実に熱心に働いてくれる。誰かに強制されたわけでもなく、一セントの報酬《ほうしゅう》も期待するわけでもなく、マスコミに取り上げられて有名になれるわけでもないというのに……自分の意志で、やりたいからやっているだけなのです。  私はこれこそ真のイエスの教えではなかったかと思います。待っているだけでは神の国は訪れない。神の国は私たちの中に、そして私たちの周囲にある。私たちはみな神の子であり、それに気づきさえすれば、この世界こそ神の国であることが分かる——それがイエスの伝えたいことではなかったか、と」 「この世界が神の国……ですか?」摩耶はまだ納得しきれなかった。「でも、この世には不幸もたくさんあるじゃありませんか。戦争とか、犯罪とか、貧困とか……」 「もちろんそうです。なぜなら、神の国が私たちの中にあるように、悪魔《あくま》の国もまた私たちの中にあるからです。  ご存知でしょうが、私たち黒人の先祖は、捕《と》らえられ、帆船《はんせん》の船倉に詰《つ》めこまれて、この国に運ばれてきました。このマンハッタン島の端《はし》、ウォール街のイースト河沿いには、一八世紀まで奴隷《どれい》市場があったのです。そこでは人間が家畜《かちく》のように売買されていました。反抗《はんこう》した者は鞭《むち》で打たれ、ひどい時には火あぶりにされたのです……。  そんな恐《おそ》ろしいことをしたのは誰でしょう? 無神論者でしょうか? いいえ、違《ちが》います。彼らはみんなキリスト教徒でした。彼らは自分たちのやっていることが悪魔の所業であることを知らなかったのです。なぜなら、聖書のどこにも『黒人を奴隷にして虐待《ぎゃくたい》してはならない』とは書かれていなかったからです」  それどころか、聖書には奴隷制を肯定《こうてい》する記述もある。たとえば『エフェソ人への手紙』第六章や、『テモテへの第一の手紙』第六章では、奴隷は主人を尊敬し、喜んで仕えなくてはならないと説かれている。 「しかし、奴隷解放に尽力《じんりょく》したのもまたキリスト教徒であることは、忘れてはいけません。聖書には明言されていなくても、彼らはそこに刻《きざ》まれたイエスの精神を読み取ったのです。何が正しいことなのかを。人は何をすべきであるかを。  聖書に書かれていないことはたくさんあります。環境汚染《かんきょうおせん》については何ひとつ触《ふ》れられていません。核兵器についても、コカインやLSDの害についても、地球温暖化やオゾン・ホール、希少動物の絶滅《ぜつめつ》の危機についても、まったく触れられていません。それらはイエスの時代には存在しなかった問題なのですから。にもかかわらず、現代に生きる私たちはみんな、それらが悪であることを知っている。聖書に教えられるまでもなく、何が善で何が悪かを知っているのです——どうしてでしょう?」  摩耶は少しためらってから答えた。「良心……ですか?」 「その通り!」牧師の表情がばっと輝《かがや》いた。「それが答えです。良心を持つのは人間だけです。何が善で何が悪か、見分けることができるのは人間だけなのです。自分の行動を決めるのに、いちいち聖書にお伺《うかが》いを立てる必要などない。自分の魂《たましい》に訊ねてみればいい——これは正しいことなのですか、と」 「自分の魂に……」 「そうです。いくら神を信じていようと、ビルを爆破《ばくは》したり毒ガスを撒《ま》いたりして、大勢の人の生命を奪《うば》う行為《こうい》は、本当の信仰ではありません。そうしたことをする人たちは、本当の神を見失っているのです。教祖の命令や聖書の言葉に従うのではなく、自分自身の魂に訊ねてみさえすれば、それが誤った行為であることはすぐに分かったはずです。私たちの中に眠《ねむ》る良心、善と悪を見分ける力こそ、神が私たちにお与えくださった最大の贈《おく》り物です。神の国が私たちの中にあるというのは、そういうことなのです」  牧師は静かに立ち上がり、窓《まど》の外を見た。バザーの開催時間が迫《せま》り、人が集まりはじめているらしく、にぎやかなざわめきが聞こえてくる。 「ねえ、マヤさん。イエスの時代の人たちが、今のこの世を見たらどう思うでしょうね? もちろん、まだ貧しい人はたくさんいますし、犯罪や戦争もあります。しかし、奴隷制は消滅《しょうめつ》しています。異端《いたん》の考えを口にしただけで火あぶりにされることもない。性別や肌《はだ》の色で差別されることも少なくなりました。字の読める人も増えている。ほとんどの病気は治療《ちりょう》が可能になり、寿命《じゅみょう》も大幅《おおはば》に伸《の》びている。一日に一六時間も働かなくても暮らしていける。飢饉《ききん》で人が死ぬことも少なくなっている……まさに夢《ゆめ》のようでしょう。『これこそ神の国だ』と思うのではないでしょうか?  この二〇〇〇年の間に、私たちがここまで進歩したのは、神の国が空から降りてくるのを漫然《まんぜん》と待っていたからではありません。自分たちでどうにかしよう、この世の悪を滅《ほろ》ぼし、苦しんでいる人たちを救い、より豊かで安全で幸福な世界を築こうと、多くの人が努力してきた結果なのです。そして、これからも努力を続ければ、より素晴らしい未来が訪れるでしょう。私はそう確信しています。 『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨《ふく》れる』……神の国は空から降りてくるものではない、とイエスは教えています。それは私たちの手でこね、作り上げなくてはならないものだと。そうすればパンは膨れ、私たちはそれを味わうことができるのです」  牧師はおもむろに振《ふ》り返り、穏《おだ》やかな表情で摩耶を見つめた。 「まだ何かご質問は?」  なかった。摩耶の心から、疑念や迷いはすっかり消えていた。アリッサが�神�を「ニセモン」と言い切ったことも納得できた。『ヨハネの黙示録《もくしろく》』の終末思想は、イエスの本来の教えとは関係のないものであり、そこから生まれた�神�や天使たちは、まさに「ニセモン」でしかないのだ。  イエスに対する信仰《しんこう》も復活していた。そう、彼がただの人間だったとしても、それがどうだというのだ? 伝説が事実かどうかなど、どうでもいいことだ。イエスが偉大だったのは、水の上を歩いたからでも、墓から復活したからでもない。人の良心を信じ、未来を信じ、素晴らしい教えをたくさん遺《のこ》したからではないのか? 「あの、ひとつだけ、些細《ささい》なことなんですけど……」 「何でしょうか?」 「この教会では、クリスマスは何月何日に祝うんですか?」  牧師は笑った。「もちろん一二月二五日ですよ。イエスの本当の誕生日《たんじょうび》は分からないのだから、一二月二五日に祝っても、何も悪いことはないでしょう?」 「ええ、そうですね」摩耶もつられて笑った。 「もし年末までニューヨークに滞在《たいざい》されるのでしたら、お出でになってください。ささやかですが、楽しいクリスマスですよ」 「ええ、ぜひ」  摩耶は立ち上がり、握手《あくしゅ》を求めた。牧師の手は細いが、温かかった。 「なあ、マヤ! ひょっとしてキーボードとか弾《ひ》ける!?」  牧師とともに私室から出てきたとたん、アリッサが息せき切って駆《か》け寄ってきた。 「え? まあ、少しぐらいなら……」  小学生の時、母親にエレクトーンを習わされたことがあり、かなりの腕前《うでまえ》だった。 「良かったあ!」アリッサは飛び上がって喜び、摩耶の腕をつかんだ。「な、な、ちょっと弾いてくれねえか?」 「どうして?」 「バザーがはじまる時に、景気づけに歌うたうことになってんだけどさ。キーボード担当の奴《やつ》が遅刻《ちこく》してまだ来ねえんだ。誰《だれ》か代理がいねえか探してたんだよ」 「あの、でも私……」 「いいから早く!」  アリッサはとまどう摩耶の手を強引に引いて、ポーチに置かれたキーボードのところまで連れてきた。すでにバンドの他のメンバーはスタンバイしており、「へい!」「よろしく!」などと呼びかけてくる。観客も見たところ三〜四〇人は集まっていた。  どうやらやらねばならないようだ。摩耶はやむなく覚悟《かくご》を決めた。 「何これ? 賛美歌……じゃない?」  用意された譜面《ふめん》をざっと見て、彼女は首をかしげた。どう見てもロックだ。 「賛美歌さ」若い黒人のドラマーが、じゃーんとシンバルを鳴らし、白い歯を剥《む》き出して微笑《ほほえ》んだ。「ここのオリジナルのね。いつまでもバッハやフォスターの時代じゃねえだろ?」  摩耶は困惑《こんわく》しながらも、譜面に目を通し終えた。幸い、テンポはさほど速くない。途中《とちゅう》、いくつか難しい箇所《かしょ》があるが、ぶっつけでもどうにかなりそうだ。 「どう? 行けそう?」  マイクを手に、アリッサが譜面を覗《のぞ》きこむ。どうやら彼女がボーカルらしい。 「……オーケイ」摩耶はためらいがちにうなずいた。「何とかやれると思う」 「ちょっとばかしミスったってかまわねえぜ。どうせ発表会じゃねえんだし。大切なのはテンポとノリ、それに——」 「ハート?」 「分かってんじゃん!」  アリッサは親指を立て、にやりと笑った。 「ほんじゃ、行くぜ! ワン、トゥー……」  少女のかけ声とともに、ギターがかき鳴らされ、ドラムが連打された。摩耶も慌《あわ》ててキーボードに指を走らせる。最初の一小節は乱れたが、じきに遅《おく》れを取り戻《もど》した。  アリッサはマイクに噛《か》みつかんばかりに口を寄せた。身体《からだ》を揺《ゆ》らしながら、澄んだ美しい声で歌いはじめる。 [#ここから2字下げ] 希望を捨ててはいけない 決して 世界が闇《やみ》に 閉ざされようと 心に響《ひび》く 神の言葉に 耳を傾《かたむ》け 信じ続けよう! [#ここで字下げ終わり]  それまで暗い調子だった曲が、一気に明るく転調した。 [#ここから2字下げ] やがて荒れ野に 光が満ちあふれ 新たな時代の ページが開くだろう 我らのこの地に! [#ここで字下げ終わり]  アリッサが腕を振《ふ》り上げ、「WOW!」とシャウトすると、数十人がいっせいに「WOW!」と返した。彼女はこの教会のアイドルらしい。 [#ここから2字下げ] Keep your belief! この身は傷つき倒《たお》れても Never submit! 誰かが後に続くさ 楽園の礎《いしずえ》を 私たちのこの腕で 積み上げよう [#ここで字下げ終わり]  ビルの合間の青空に、少女の熱唱が響き渡《わた》る。小さな教会の前庭は今や熱気に包まれていた。人数も広さもコンサート会場とは比較《ひかく》にならないが、老人も若者たちも子供も、心から楽しんでいるようだ。 [#ここから2字下げ] その目を閉ざしてはいけない 決して 偽《いつわ》りの夢《ゆめ》に 逃《に》げこまないで 神の剣《つるぎ》を 心に掲《かか》げ 闇を見据《みす》えて 戦い続ける! [#ここで字下げ終わり]  摩耶はすっかりこの教会が気に入っていた。聴衆《ちょうしゅう》の中にはアリッサよりも小さい子供たちの姿もあった。彼らはこの教会で教えを学び、いずれ社会に出て行って、世界を改革するために働くのだろう。だとすれば、この場所こそ地上に蒔《ま》かれたからし種に違いない、と摩耶は思った。いずれ成長して木になり、その枝には空の鳥が巣《す》を作る……。  バザーがこれだけ楽しいのなら、クリスマスはもっと楽しいのだろう。彼女は強く願った。今年も一二月二五日がやって来ることを。この小さな教会が、いつもの年と同じ、ささやかだが平和なクリスマスを迎《むか》えられることを……。  いや、迎えさせねばならないのだ。  歌は終わりに近づいた。アリッサは鋼《どう》色の髪《かみ》を振り乱し、力強く声を振り絞《しぼ》った。汗《あせ》の粒《つぶ》が飛び散り、夏の陽射《ひざ》しを浴びてきらめく。 [#ここから2字下げ] Keep your belief! あきらめたら明日はない Never submit! 愛は報われるだろう 楽園の礎を 私たちのこの腕で 積み上げよう…… [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]    13 空が開く  ミッドタウン・ウエスト——  二〇〇〇年八月二七日・午前四時五分(東部標準時)——  タイムズ・スクエアに近い四七丁目に面した安ホテル。バスなし一泊五五ドルの狭苦《せまくる》しいシングルルームで、電話がけたたましく鳴り響《ひび》いた。まだ夜明け前であるうえ、空は曇《くも》っており、窓《まど》の外は暗い。 「ううん……もう」  枕《まくら》を抱《だ》くようにして眠《ねむ》っていたかなたは、毛布の中でもぞもぞと身をよじり、眼《め》を閉じたまま手を伸《の》ばして受話器を取った。 「はあい、七〇七号室……」まだ夢《ゆめ》から完全に醒《さ》めておらず、かなたの声はひどく間延びしていた。「ああ、八環《やたまき》さん?……久しぶり。今、どこ?……へえ、フランスからかけてんの……よくこのホテルの番号、分かったね……ああ、聖良《せいら》さんが連絡《れんらく》してたのか……ところでどう、未亜子《みあこ》さんとの新婚旅行? 楽しんでる? えへへ……ん〜?…… <ル・トリオンファン> ?……何それ? 香水《こうすい》の名前……?」 <香水じゃない! 原潜《げんせん》だって言ってるだろ!> 電話の向こうで八環が怒鳴《どな》った。 <フランス海軍の最新型の戦略原潜。核《かく》ミサイルを一六発積んでる。それが天使に乗っ取られた!>  かなたはいっぺんに眠気《ねむけ》が吹《ふ》っ飛んだ。「確かなの!?」 <ああ。こっちのネットワークに協力して、西ヨーロッパに根を張っていた狂信《きょうしん》的秘密結社の活動を探ってたんだ。昨日、そのアジトを襲《おそ》って、メンバーの名簿《めいぼ》を入手した。そうしたら、フランス海軍内部に天使の�お告げ�を受けたメンバーが七六人もいて、その半数が同じ原潜に配属されてることが判明したんだ) 「それが <ル・トリオンファン> ……?」 <そうだ。三日前に出港してる。いったん地中海に向かったんだが、予定の航路をそれて、行方《ゆくえ》が分からなくなってるらしい> 「それって、すごくヤバいんじゃ……?」 <ああ。しかも連中、核ミサイルの弾道《だんどう》プログラムを改変するための極秘コードも入手していた。つまり、ミサイルの目標を変更《へんこう》して、世界中どこの国にでも打ちこめるんだ。捕《つか》まえたメンバーの口を割らせたところ、目標はアメリカだと分かった。アメリカの主要都市を核攻撃《かくごうげき》して、それに続いて起きる世界的混乱に乗じて本格的|侵攻《しんこう》を開始する計画だ> 「核弾頭《かくだんとう》が……一六発って言ったっけ?」 <違《ちが》う。MJRV——多弾頭ミサイルってやつだ。一発のミサイルに六個の核弾頭が入っていて、別々の目標を攻撃できる。ええと……つまり合計九六発だな> 八環はメモを見ながら喋《しゃべ》っているようだった。 <ちなみに核弾頭丁発の破墳力は一五〇キロトン。広島に落ちた原爆《げんばく》が約一三キロトンと言われてるから、その一〇倍以上だ>  かなたは顔から血の気が引くのを覚えた。広島型原爆の一〇倍以上の破壊力を持つ弾頭が、九六発もアメリカに降ってくる……。 <俺《おれ》たちは潜水艦《せんすいかん》の行方を追う。だが、阻止《そし》できなかった場合、四八時間以内に核攻撃が開始される可能性が高い> 「でも……最終決戦は明日の予定なんだよ!」 <それじゃ間に合わない。すでに東海岸は射程に入ってるから、いつ一発目が発射されてもおかしくないんだ。たぶん弾頭のひとつはニューヨークに照準を合わせてあるだろう> 「じゃあ、急いで退避《たいひ》して……」 <そうだ。決戦の予定を一日繰り上げるしかあるまい。最初の核攻撃が開始される前に、天使に先制攻撃をかければ、その後の被害《ひがい》を食い止められる可能性がある。それを知らせるために電話した。今、ヨーロッパのネットワークがいっせいにそっちの関係者に連絡を入れてる。できるだけ早くニュースを広めるために> 「分かった。みんなに知らせる」  かなたは電話を切ると、パジャマのまま廊下《ろうか》に飛び出し、隣《となり》の部屋《へや》のドアを激《はげ》しく叩《たた》いた。 「流くん、起きて! ハルマゲドンがはじまるよ!」  ワシントンDC・ペンシルバニア通り一六〇〇番地——  同日・午前八時二〇分(東部標準時)——  大統領も日曜日の早朝から叩き起こされ、ホワイトハウスの執務《しつむ》室で同じニュースを聞かされていた。 「今から一〇時間前、大西洋中央|海嶺《かいれい》のオーシャノグラファー断裂帯《だんれつたい》において、 <ル・トリオンファン> をロストしました」海軍作戦部長が深刻《しんこく》な表情で報告する。「NATO海軍の追跡《ついせき》は振《ふ》り切られました。北大西洋のSOSUS(海底|敷設《ふせつ》式水中固定|聴音網《ちょうおんもう》)が耳を澄《す》ませていますが、該当《がいとう》する音紋《おんもん》はキャッチされておりません」 「そんな説明で納得できるか!」大統領はひどく不機嫌《ふきげん》だった。「NATOが全力を尽《つ》くしても見つからないというのか? 全長四五〇フィート(一三八メートル)もある鉄の塊《かたまり》が!?」 「 <ル・トリオンファン> は主機ラフト方式とポンプジェット推進を採用し、静謐《せいひつ》性がきわめて高いのです」海軍作戦部長は首をすくめ、弁明した。「それに、あの海域は海底地形が複雑で、サウンド・チャンネルも狭《せま》く……」 「言い訳はいい! ミサイルが飛んでくるのはいつだ!?」 「M45の射程は三三〇〇マイル(五三〇〇キロ)です。すでに東海岸は射程|圏内《けんない》に入っています。しかし、合衆国全土を狙《ねら》うとすると、少なくとも西経六〇度線、バミューダ海膨《かいぼう》のあたりまで接近しなければなりません。 <ル・トリオンファン> の最大速力は二五ノット(時速四六キロ)ですが、速力を上げると推進器の発するキャビテーション・ノイズが大きくなり、探知されやすくなります。おそらく四分の三程度の速力しか出せないでしょう。さらに、こちらの探知をかわすために迂回《うかい》してくるとすると……」 「技術的なことはいい。要点だけを言いたまえ」 「はい。今から四〇時間後、二九日の午前〇時には、合衆国全土がM45、ミサイルの射程圏内に入ると思われます」 「阻止できるのか?」 「大西洋|艦隊《かんたい》に緊急《きんきゅう》体制を発動し、ありったけの潜水艦、駆逐《くちく》艦、巡洋《じゅんよう》艦を派遣《はけん》して、 <ル・トリオンファン> を捜索《そうさく》させていますが、可能性は何とも申し上げられません。まさに干し草の中の針を探すようなものですから」 「大統領、ロシアにも協力を求めてはいかがでしょう?」大統領補佐官が進言する。「この際、人手は多い方がいいと思われます」 「私も同意見です」と海軍作戦部長。「国力は衰《おとろ》えたとはいえ、ロシア海軍、特に潜水艦乗り《サブマリナー》には有能な人材がまだ少なくありません」 「あまりクレムリンに借りは作りたくないが……やむを得まい」大統領は苦々《にがにが》しげな表情で言った。「ただちにホットラインを入れよう——しかし、万一、ミサイルが発射された場合はどうなる? 迎撃《げいげき》できるのか?」 「それも五分五分といったところでしょう。ご存知の通り、 <パトリオット> の性能にはあまり期待できませんので」  地対空ミサイル <パトリオット> PAC—2は、湾岸《わんがん》戦争の際、イラク軍のミサイル <アル・フセイン> (スカッド)を多数|撃墜《げきつい》したことで有名になった。だが、事実は報道とはかなり違《ちが》う。ほとんどの <アル・フセイン> はコースをそれただけで、地上に落ちて爆発《ばくはつ》していたのである。目標の手前で爆発し、破片を敵ミサイルにぶつけるタイプのPAC—2では、弾頭《だんとう》を傷つけることはできても、無力化することができなかったのだ。その後、敵ミサイルに直接|衝突《しょうとつ》するタイプのPAC—3が開発されたが、こちらは命中率が低いという難点がある。 「まだ新型のM5に換装《かんそう》されていなかったのを感謝すべきでしょうね」海軍作戦部長が気休めを言った。「あれの射程はM45の倍以上、核《かく》弾頭を一二発|搭載《とうさい》できるそうですから」 「まったく!」大統領はデスクを叩《たた》いた。「だからNMD(米本土ミサイル防衛)構想を進めるべきだと力説していたのに!」  そこへホワイトハウス首席補佐官が新しいニュースを持って飛びこんできた。 「ハリケーンが速度を二倍に上げました!」 「何!?」 「時速五〇マイル(八〇キロ)で北上中。このベースですと、今夕にはロングアイランドは暴風雨圏に入ります」 「ヨウカイたちは予定を早めたようですね」大統領補佐官がうなずいた。「決戦は今夜、ということになりそうです」  気象学の常識を無視したハリケーンの振《ふ》る舞《ま》いに、今頃《いまごろ》、気象学者や天気予報官は頭を抱《かか》えていることだろう。 「現地の避難状況《ひなんじょうきょう》は?」 「六割から七割といったところです。テレビやラジオで強く呼びかけ、急がせましょう」 「そうしてくれ」 「それから、本日の予定はすべてキャンセルなさってください。ここで待機し、万一の場合、ただちに <エアフォース> に移っていただきます」 「分かっている」  そう答えながら、大統領は強い無力感に襲《おそ》われていた。  いつ降ってくるか分からない核ミサイルも恐《おそ》ろしい。『黙示録《もくしろく》』に予言された天使たちによる人類|虐殺《ぎゃくさつ》も恐ろしい。だが、味方であるはずの妖怪《ようかい》たちの力に対しても、目もくらむばかりの驚異《きょうい》と畏怖《いふ》の念を抱いていた。たった一|匹《ぴき》で原子力空母を無力化し、力を合わせればハリケーンをも自在に操ることができる存在。それが地球上に何万といる……。  彼らがその気になれば、人類などあっさり征服《せいふく》されてしまうだろう。この一四〇〇年間、人類文明は彼らのお情けで存続してきたようなものだ。 (人類は地球の支配者などではなかった!)  大統領はその事実をあらためて心の中で噛《か》み締《し》めていた。  イースト・ビレッジ——  同日・午前一〇時四〇分(東部標準時)——  薄汚《うすよご》れたロフトの中。早くもハリケーンの影響が出ているのか、窓の外はどんよりと暗く、小雨がガラスを叩《たた》いていた。 「どうしても行くの……?」  ベッドに腰《こし》を下ろして黙々《もくもく》とブーツのストラップを締めている娘を、アンナ・メイベルは哀《かな》しげな目で見下ろしていた。娘と同じ鋼《どう》色の髪《かみ》。まだ二八歳だが、苦労を重ねてきたせいで、実際より老けて見える。 「私が行くなと言ったら……」 「それでも行くぜ」  アリッサは小声で、しかしきっぱりと言った。ブーツの踵《かかと》で床《ゆか》をとんとんと叩き、履《は》き心地を確認する。  アンナはそれ以上の説得をあきらめた。一度決意したら、アリッサは決してそれを曲げることはない。どんな言葉も、暴力さえも、彼女を屈服《くっぷく》させることはできはしない。その一途《いちず》さは、母親である自分がいちばんよく知っている。 「育て方を間違《まちが》ったのかな……」アンナは目をそらし、ため息をついた。「こんな強い子に育てなければ……」 「そんなことねえよ!」  アリッサは勢いよく立ち上がり、母の背中から抱《だ》きついた。 「あんたの教育方針、間違っちゃいねえ! オレ、あんたに育ててもらったの、感謝してんだから。あんたが好きなんだ。クラスメートも、牧師様も、この街のみんなも……だから行くんじゃねえか。誰《だれ》も死なせたくないから……」  彼女は母に気づかれないよう、こっそり涙《なみだ》をぬぐった。 「ああ、そうだ……」 「何?」 「今晩さあ、『オズの魔法《まほう》使い』放映するじゃん。あれ、録画しといてくんねえかな? 帰ってきたら見るから」  アンナはゆっくりと振り返り、娘の澄《す》んだエイプリルブルーの瞳《ひとみ》を覗《のぞ》きこんだ。 「本当?……本当に帰ってきて、見るのね?」 「ああ」  ガンチェリーは親指を立て、自信たっぷりに微笑《ほほえ》んだ。 「約束するぜ!」  ロングアイランド——  同日・午後一時(東部標準時)——  昼過ぎになると、風が強くなり、東から灰色の雲が広がって空を覆《おお》いはじめた。住民たちは危機感をつのらせ、窓《まど》に板を打ちつけたり、食糧《しょくりょう》を買いこんで地下室に運び入れたりと、災害対策に奔走《ほんそう》しはじめた。海岸や山沿いなどの危険地帯に住む者は、本土にいる親戚《しんせき》や知人の家に避難《ひなん》することにした。  観光客の中には、危機意識が薄《うす》く、ぎりぎりまで避暑《ひしょ》地に滞在《たいざい》し、夏のバカンスを楽しもうとした者が少なくなかった。しかし、今朝からマスコミがこぞってハリケーンの脅威《きょうい》を煽《あお》り立てたのが功を奏した。彼らは荷物をまとめ、大慌《おおあわ》てで脱出《だっしゅつ》を開始した。ハリケーンから逃《のが》れるためにニューヨークに向かうワゴンやキャンピングカーの列で、西行きの車線はひどく混雑していた。  そんな渋滞《じゅうたい》を尻目《しりめ》に、がらがらの東行き車線を進む大型トレーラーの列があった。側面には有名な運送会社のロゴが描《か》かれており、誰も怪《あや》しむ者はない。避難民が家財道具を運び出すために呼んだもので、中身は空っぽだろう、と思うだけだ。  よく見れば、サスペンションが沈《しず》んでおり、重い荷物を積んでいることが分かるのだが、そこまで観察眼の鋭《するど》い人間はめったにいるものではない。  鉄道も臨時便を増発し、ピストン輸送で避難民を運んでいた。当然、東行きの車両はがら空きのはずなのだが、閉ざされたブラインドの奥《おく》には、なぜかぎっしりと人影《ひとかげ》が見えた。彼らは駅ではない場所から乗りこみ、終着駅の手前で降りているのだ。  西へ向かう避難民の間で、妙《みょう》な噂《うわさ》が流れていた。東に向かうUFOの編隊を見たとか、大きな鳥のようなものを見たという者が何人も現われたのだ。中には、「ドラゴンを見た」「幽霊船《ゆうれいせん》が空を飛んでいた」などと主張する者もいた。  だが、それらの噂は、巨大ハリケーン関連のニュースの洪水《こうずい》に押《お》し流され、マスコミに取り上げられることはなかった。  モントーク基地——  同日・午後五時一〇分(東部標準時)——  二時間前から降りはじめた雨は、急速に雨量を増し、放置された滑走路《かっそうろ》を川に変えつつあった。風もかなり強まっており、着陸している飛行船は、ワイヤーで係留されているにもかかわらず、ゆっくりと左右に揺《ゆ》れている。 「……というのが私の計画だ」  揺《ゆ》れるゴンドラの中で、ミスターWは説明を終えた。話を聞いていた一同—— <Xヒューマーズ> のメンバーや、摩耶、アザゼル、かなた、流といった面々は、あまりにも大胆《だいたん》不敵なプランに茫然《ぼうぜん》となっていた。しばらくは誰《だれ》も発言しなかったほどだ。  ひゅう……。  重い沈黙《ちんもく》を破ったのは、エッジの軽薄《けいはく》な口笛《くちぶえ》だった。 「そんなすげえアイデアを秘密にしてたのかよ? まったく人が悪いぜ、ミスターW」 「すまない。うかつに情報を広めるわけにはいかなかったんだ。どこで天使が聞いているか分からなかったからね。この作戦は奇襲《きしゅう》でないと成功しない」 「そりゃそうだけどさ……」 「それに、正直言って、私も一〇〇パーセントの自信があるわけじゃない。理論は完璧《かんぺき》なはずだが、ぶっつけ本番だし、成功率がどれほどのものか予想もつかない。生還率となるとさらに小さいかもしれん。はっきり言えば、カミカゼのような作戦だ」  彼はいつになく真剣《しんけん》な表情で、ガンチェリーの顔を正面から見つめた。 「だから強制はしない。君たちにこの危険な任務を強制する権利など、私にはない。いやだと患うなら、降りてもらってかまわない……」 「誰がいやだなんて言った!?」自分の勇気を信頼《しんらい》されていないのが、ガンチェリーには不満だった。「それで�神�の野郎にとどめ刺《さ》せるんだろ? 少しぐらい危険だって、やってみる価値、おおありじゃん」 「しかし、生きて帰れないかもしれないんだよ?」 「そんなこたぁない!」ガンチェリーは胸を張った。「オレ、アニーに約束してんだ。家に帰ってビデオ見るって」 「それに俺《おれ》との……」  エッジが何か言いかけたが、ガンチェリーは「うるせえ!」と制した。 「確かに、最高の名案ではあるな」アザゼルはうなった。「成功すれば、�神�は二度と復活できない……」 「私も、やってみたいです」摩耶は進み出た。「私、何かお手伝いできることはないかって、ずっと考えてたんです。でも、私はただの人間で、何の力もないし……もし、お役に立てるんでしたら、こんなに嬉《うれ》しいことはありません」  彼女は振《ふ》り返って、アザゼルに微笑《ほほえ》みかけた。 「ねえ、やりたいの。やってもいいでしょ?」 「なぜ俺に訊《き》く?」アザゼルはわざと突《つ》き放すように言った。「君は俺の所有物じゃない。自分で決めればいい」 「ありがとう」 「ただ……」 「ただ?」  彼は摩耶の髪《かみ》を撫《な》で、愛《いと》しげな視線を投げかけた。 「……まだ死なないでくれ。寂《さび》しくなる」 「だいじょうぶ。あと一〇年は死なないわよ」  摩耶はそう言って、恋人の胸に頬《ほお》を寄せ、優しく背中を叩《たた》いた。 「もう……寂しがり屋さんなんだから」  二五〇〇歳《さい》の悪魔《あくま》はひどく赤面した。 「ありがとう、お嬢《じょう》さんたち。協力を感謝するよ」  ミスターWは満足げに何度もうなずくと、ふと窓の外に目をやった。 「ああ、ちょうど到着《とうちゃく》したようだ」  横殴《よこなぐ》りの雨をものともせず、もう一|隻《せき》の船が雲間からゆっくりと降下してきて、今まさにモントーク基地の滑走路に着陸しようとしていた。こちらは飛行船ではない。立派な帆《ほ》を張った中世の帆船《はんせん》である。風にあおられ、操船に苦労しているようだ。 「わお! 『ピーターパン』みてえだ!」  ガンチェリーが目を輝《かがや》かせ、無邪気《むじゃき》にはしゃいだ。摩耶も驚《おどろ》きを隠《かく》せない。これまで数多くの不思議な光景を目にしてきたが、さすがに船が空を飛ぶのは初めて見た。 「あれが……マゴニアの船」  昔のヨーロッパの民衆は、雲の上にマゴニアという王国があると想像し、その住人は空飛ぶ船で地上を訪れて果物を採取してゆくと信じていた。空飛ぶ船やその乗員の目撃《もくげき》例は、古くからいくつも存在する。九世紀のリヨンでは、空飛ぶ船から降りてきた四人のマゴニア人が群集に捕《つか》まり、リンチにかけられそうになった事件があったことを、大司教アバゴールが記している。九五六年には、北アイルランドのクロエラの町で、上空を横切ろうとした船の錨《いかり》が教会の屋根に引っかかった。大勢の人が驚いて見守る中、水夫が降りてきてロープを切断し、船は錨を残して逃《に》げ去ったという。一三世紀初頭、イギリスのブリストルの墓地でも同様の事件が起きたが、降りてきた水夫は群集に捕《と》らえられ、死んでしまった。  昔から人間たちは「空の上に何かがいる」と信じ、多くの未確認飛行物体を目撃してきた。その形状は時代によって流行がある。中世ではUFOは帆船の形をしていた。一六世紀|頃《ごろ》からは、空を行進する軍隊や、空中での軍隊同士の戦闘《せんとう》がしばしば目撃されている。一九世紀末になって大型飛行船が構想されるようになると、イギリスやアメリカで相次いで「幽霊飛行船」が目撃されるようになった。一九三三年から三四年にかけて、スカンジナビア半島各地に「幽霊飛行機」が出現したが、それは当時としては最新型の単葉機だった。四六年にはやはりスカンジナビアで「幽霊ロケット」が何度も目撃されている。そして一九四七年以降は円盤《えんばん》型が主流になった……。  つまりミスターWは、ノエルたちスペース・ブラザーの先輩であり、さらにその大先輩がマゴニア人というわけである。  高度一〇メートルまで降下したところで、帆船から錨が投げ落とされ、帆が畳《たた》まれた。十数人のマゴニア人がロープを伝ってばらばらと降りてきて、嵐《あらし》でひっくり返らないようにロープで船を固定する作業に取りかかる。みんな服装《ふくそう》は中世風だが、酸素マスクのようなものを口に当てていた。高空に住む彼らは、大気の濃い地上ではマスクなしで長時間活動できない。�溺《おぼ》れて�しまうのである。 「さあて、忙《いそが》しくなるぞ」ミスターWは嬉《うれ》しそうに揉《も》み手をした。「特にサヴェッジバイト」 「え、俺か!?」サヴェッジバイトは驚いて自分を指差した。 「そう。君とパワーフェアリーには、すぐに取りかかってもらわねばならん仕事がある——重い荷物を運んでほしいんだ」  モントーク岬《みさき》——  同日・午後六時三〇分(東部標準時)——  今やロングアイランドは巨大《きょだい》ハリケーンに呑《の》みこまれつつあった。レーダーでその動きを追跡《ついせき》していた気象学者は、またまた頭を抱《かか》えたことだろう。ロングアイランドの端《はし》が暴風雨圏にかかったとたん、ハリケーンの北上するスピードががくんとダウンし、その勢いが急速に衰《おとろ》えはじめたからだ。今や瞬間《しゅんかん》最大風速は三〇メートルを割り、雨量も大幅《おおはば》に低下していた。気象学の理論は完全に無視されていた。  妖怪《ようかい》たちにしてみれば、ハリケーンは単に人間たちを戦場に近づけないための処置であり、それによって死傷者が出るのは本意ではない。洪水《こうずい》や高潮《たかしお》などで被害が出るのは避《さ》けられないにしても、最小限にとどめるつもりだった。  もっとも、いくら勢いが衰えたとはいえ、中心付近の風雨は依然《いぜん》として猛烈《もうれつ》だ。モントーク岬の海岸には大波が続けざまにぶつかり、真っ白な水のカーテンとなって炸裂《さくれつ》している。一撃ごとに岩肌《いわはだ》がえぐられるかのようなすさまじさだ。  その岬に通じる海岸沿いの路上に、吹《ふ》きすさぶ風や雨をものともせず、一人の男がすっくと立っていた。身長二メートルを超《こ》える巨漢《きょかん》で、バイキングのように二本の角がついた兜《かぶと》をかぶり、右手に槍《やり》、左手に盾《たて》を持ち、鎧《よろい》をまとっている。眼《め》は片方しかなく、顔の下半分を覆《おお》う豊かな髭《ひげ》は強風に激しくはためいていた。  ゲルマン神話の最高神オーディン——天を駆《か》け、気象を自在に操る彼にとって、嵐は親しい友のようなものだ。  辛抱《しんぼう》強く待っていると、西の方からヘッドライトの列が近づいてきた。数十台の大型トレーラーのキャラバンである。その先頭をのろのろと進んでいるのは、こんな場所にはまるで場違《ぱちが》いな高級車だ。道路はすでに深さ二センチまで水没しているため、どの車もタイヤから激《はげ》しい水しぶきをあげている。  何か合図があったらしく、トレーラーの列は停止した。高級車だけはさらに前進し、オーディンの一〇メートル手前で止まった。  後部ドアが開き、黒いレインコートに身を包んだ男が降りてきた。やはり大きな男ではあるが、オーディンほどたくましくはない。激《はげ》しい風雨の中、川のようになった道路を歩いてくるのだが、水に足を取られ、苦労しているように見えた。その後ろには、ほっそりした体型の女性が影《かげ》のように付き従っていた。  黒ずくめの男女は、ゲルマンの神の二メートル手前で立ち止まると、フードをはずし、素顔をさらけ出した。ここにマスコミ関係者がいたら「スクープだ!」と叫《さけ》んだかもしれない。男の名はロス・モーゲンスターン。ウォール街を舞台《ぶたい》に活躍《かつやく》する大物投資家で、『TIME』の表紙にもなった人物だからだ。ヘッジファンドを最大限に活用し、時として一日に何億ドルという利益を得ている。儲《もう》けのためにはなりふりかまわぬその活動は、為替《かわせ》相場を混乱させ、一国の経済さえも揺《ゆ》さぶるほどだ。そんな人物が、なぜこんな嵐《あらし》の中で、怪《あや》しいコスプレをした男と会見しているのか?  だが今、半径五〇キロ以内にマスコミはいない。CNNの取材班も、ずっと手前のパッチョーグの街で、州軍による道路|封鎖《ふうさ》にひっかかっていた。 「こんな場所で会見とは意地が悪いな!」  モーゲンスターンは嵐に負けまいと大声を張り上げた。レインコートは風に激しくはためき、隙間《すきま》から吹《ふ》きこむ雨のために、高級スーツはすでにびしょ濡《ぬ》れになっている。 「もっと静かなところがありそうなものじゃないか!?」 「この程度の嵐で怖気《おじけ》づくおぬしではあるまい」オーディンの声はもともと大きいので、怒鳴《どな》る必要がなかった。「�獣《けもの》�の名が泣くぞ」 「怖気づいてるんじゃない! 水に濡れるのがいやなだけだ!」  オーディンは豪快《ごうかい》に笑った。「すっかり堕落《だらく》したな、おぬし! 文明に毒されたか!」 「あんたが時代|遅《おく》れなだけだろう!」  モーゲンスターン—— <ザ・ビースト> の最高幹部の一人は、憮然《ぶぜん》とした表情で言った。  世界最大の妖怪《ようかい》ネットワーク <ザ・ビースト> の最高位にあるのは、『黙示録《もくしろく》』に預言された七つの頭を持つ獣である。彼は自らの肉体を七体に分身し、世界各地に散らばって、世界|征服《せいふく》のための活動を進めてきた。陰謀《いんぼう》に長《た》けた頭脳と、人の心を操る妖術《ようじゅつ》を駆使《くし》して、それぞれの分野で高い地位に登りつめているのだ。大物投資家、合衆国の上院議員、日本に本社のある世界的大企業の社長、ロシアの軍人……その財力と政治力は強大なもので、この半世紀に世界で起きた紛争《ふんそう》のいくつかほ、彼らが仕組んだものと言われている。  モーゲンスターンたちにしてみれば、 <ザ・ビースト> は常に時代の最先端《さいせんたん》に立ち、最新のテクノロジーを取り入れ、世界の歴史をリードしてきたという自負がある。彼の目から見れば、この数世紀、北欧《ほくおう》の山奥《やまおく》でなかは隠遁《いんとん》生活を送ってきたオーディンは、過去の遺物、時代|錯誤《さくご》な偏屈者《へんくつもの》でしかない。  しかし、崇拝《すうはい》者が減り、妖力《ようりょく》も昔より衰《おとろ》えたとはいえ、古代の神々はまだ大きな力を誇《ほこ》っている。今回の作戦では両者の協力がどうしても必要なのだ。 「まあいい」オーディンは相手の無礼な発言をまるで気にしていない様子で、太い右手を差し出した。「過去のことを水に流そうとは言わぬが、とりあえずこの戦いでは我らは戦友だ。ともにラグナロクに勝利しようではないか!」 「まったくだな」  二人はぎこちない握手《あくしゅ》を交わした。  前回の大戦では、 <ザ・ビースト> と共闘《きょうとう》することを嫌《きら》う妖怪が多かったため、なかなか足|並《な》みが揃《そろ》わなかった。妖怪同士のいざこざも数多く発生した。そのため、戦闘《せんとう》が長期化し、一〇年もずるずると続いてしまったのだ。そんな愚は何としても避《さ》けねばならない。速戦|即決《そっけつ》、全力で一気に神の国に攻《せ》めこみ、天使や�神�を打ち倒《たお》すというのが、今回の作戦の基本構想であった。 「で、例の件はどうなった?」 「全面的に受諾《じゅだく》した。 <ザ・ビースト> の軍が先鋒《せんぽう》を務める」 「ほう?」オーディンは疑わしげに眼《め》を細めた。「えらくあっさりと要求を呑《の》んだな。何か企《たくら》んでおるのか?」 「何も。この期《ご》に及《およ》んで、内輪もめをしている時間などない。あんたらが怖気づいて、前に立ちたくないとごねているから、我々が前に出てやるだけだ」 「わしは悪魔《あくま》どもの言葉を信じるほど純朴《じゅんぼく》ではないぞ」オーディンは男の背後にあるトレーラーの列に目をやった。「いや、何か隠《かく》しているに違《ちが》いない。そう言えば、他の六人——ではなかったな、四人はどうした?」 <ザ・ビースト> の大幹部は今、五人しかいない。今年の四月、インドの巨大カルト教団の教祖マールターンダが飛行機事故で死に、五月にはヨーロッパの犯罪組織の首領コッツィが爆弾《ばくだん》で暗殺された。『黙示録』の預言を信じる人間がいるかぎり、いずれ生まれ変わってはくるだろうが、何年も先のことである。 「みんなそれぞれ忙しい。物資の輸送、情勢|分析《ぶんせき》、情報操作……後方でも、やることは山ほどある。私はここで部隊の指揮《しき》を執《と》る」 「前線には出ぬのか?」 「冗談《じょうだん》だろう!」モーゲンスターンは古代の神の非常識を笑った。「昔の武将じゃあるまいし、前線に立って戦う指揮官などいるものか!」 「いちおう筋は通っておるな。まあいい、信じておいてやる」  そう言うと、オーディンは左|腕《うで》のダイバーウォッチに目をやった。時代|遅《おく》れの戦神も、腕時計ぐらいはする。 「あと二時間半だな……」  モントーク基地——  同日・午後八時一〇分(東部標準時)—— 「おい、本当にだいじょうぶなのかよ、この船!?」  エッジが悲鳴に近い声を上げた。風速二五メートルの嵐《あらし》の中で、木製の幽霊《ゆうれい》飛行船は大きく揺《ゆ》れ、ぎしぎしと不気味にきしんでいる。十教本のワイヤーで地面に固定されているとはいえ、いつ吹《ふ》き飛ばされるか分からず、冷や汗《あせ》ものだ。 「心配いらない。見かけよりは頑丈《がんじょう》だよ」  そう言うミスターWも、操縦装置の舵輪《だりん》にしがみつき、緊張《きんちょう》の表情を隠せなかった。世界の空を回ってきた彼にとっても、さすがにこんな悪天候は初めての経験である。計算では強度は充分《じゅうぶん》なはずなのだが……。  揺れているのはマゴニアの船も同様である。幸い、外での作業は予定よりもずっと早く完了し、乗員たちは全員、船内に退避して、嵐が過ぎ去るのを待っていた。 「なあ、エッジ、ちょっと……」  ガンチェリーが小声でエッジを誘った。二人はこっそりコクピットを抜《ぬ》け出し、後方のコンパートメントに入った。 「何だよ、まだ着替《きが》えてなかったのか?」  ガンチェリーは例のCIDを着用することになっていた。エッジはすでに太陽光線防護用のスーツに着替えている。神の国の中は光があふれていると予想されるからだ。闇《やみ》に生まれたエッジにとって、強い光は致命《ちめい》的である。 「まあ、これから着替えるんだけどさ…」ガンチェリーは珍《めずら》しくもじもじしていて、なぜか言いにくそうだった。「ちょっと頼《たの》みがあるんだ」 「何だ?」 「中に入ったらさ、離《はな》れ離《ばな》れになるかもしれねえだろ……?」 「まあな」 「だから、ちょっと預かっといてほしいもんがあるんだ……」  次の瞬間《しゅんかん》、エッジは「わお!」と叫んで、目をまん丸に見開いた。ガンチェリーがいきなりTシャツをまくり上げ、ノーブラの胸をさらけ出したからだ。  モントーク岬——  同日・午後八時五〇分(東部標準時)——  さっきまであんなに激しかった雨が、急速に衰えつつあった。風も少しずつ弱くなってゆく。海岸に打ち寄せる白波も、心なしか小さくなってきたように見えた。  やがて雨がやみ、風の音も小さくなって、魔法《まほう》のような静けさが訪れた。モントーク岬《みさき》の上空に垂れこめていた厚い黒雲が、北西の方角に吹《ふ》き流されてゆく。やがて雲の壁《かべ》はすっかり後退し、空にぽっかりと巨大《きょだい》な穴が開いた。今夜は新月の二日前。月のない暗い夜空に無数の星がまたたいている。  モントーク岬はハリケーンの目に入ったのだ。  しかし、その星空を見上げた人間はほとんどいなかった。モントーク周辺の住民は大半が避難《ひなん》していたし、避難しなかった者も安全な地下室に閉じこもっていたからだ。パトロール中の警官、自警団員などは、妖怪《ようかい》たちによって眠《ねむ》らされていた。  それでもやはり、数十人の人間が窓《まど》から空を見上げ、その後に起きた信じられない出来事を目撃《もくげき》してしまった。彼らのうち何人かは、恐怖《きょうふ》のあまり精神に異常をきたした。正気を保っていた者は、政府によって口止めされたり、妖怪《ようかい》によって記憶《きおく》を消されたりした。ビデオカメラで事件の一部始終を撮影《さつえい》した者もいたが、空中にひらめく炎《ほのお》や稲妻《いなずま》しか写っておらず、何の証拠《しょうこ》にもならなかった。  それでも噂《うわさ》はどこからともなく洩《も》れた。一年後、あるオカルト研究家が、断片的に入手した不正確な情報(その中には、例によって、軍やCIAが故意に流した偽情報が多数|含《ふく》まれていた)を組み合わせ、『モントークの恐怖の夜』という本を発表した。彼の信じるところによれば、すべては米政府がモントーク基地で極秘に開発していた気象コントロール兵器の実験によるものであり、カメラに写った炎や光は、マシンの発する強力な電磁波によって空中に発生したプラズマ現象だという。住民たちは電磁波の影響《えいきょう》を脳に受け、幻覚《げんかく》を見たのだ。その本はベストセラーになり、映画化もされて、新たな伝説となった——「フィラデルフィア・エクスペリメント」や「米政府と異星人の密約」といった伝説と同様に。  中には真相を探り当て、インターネットのホームページで真実を広めようとする者もいたが、ほとんど世間の注目を集めなかった。米政府の極秘実験なら信じられる。だが、いったい誰《だれ》が信じるだろう——「二〇〇〇年八月二七日の夜、ロングアイランドでハルマゲドンが行なわれた」などという話を。 「ゴー」  モーゲンスターンが携帯《けいたい》電話に向かって発した短いひと言が、戦いの開幕を告げた。  近くの山や森の中から、無数の黒い影《かげ》がいっせいに空に舞《ま》い上がった。数時間前から待機していた <ザ・ビースト> の飛行部隊だ。彼らは海岸を離れ、南の方角へ急上昇《じょうしょう》してゆく。その中核《ちゅうかく》を構成するのは、悪魔たちの騎兵《きへい》部隊だ。  彼らの多くは空飛ぶ馬にまたがり、宙を駆《か》けていた。ライオンの頭を持つ悪魔サブノックが乗っているのは、立派な葦毛《あしげ》の馬だ。太った老人フルカスは、長い髭《ひげ》をなびかせ、青白い小さな馬にまたがっている。美男子セーレは翼《つばさ》のある白い馬、鎖椎子《くさりかたぴら》を着たヴィネは黒い馬、赤い衣をまとったべリスは赤い馬、屈強《くっきょう》なバシンは蛇《へび》の尾を持つ青い馬である。  馬以外のものにまたがっているものもいた。人間と蛇と子牛の三つの頭を持つアイムは、大きな毒蛇《どくじゃ》にまたがり、空を滑《すべ》ってゆく。子供の天使のような姿のヴァラックが乗っているのは、双頭《そうとう》の真っ赤なドラゴンだ。フクロウの頭のアンドラスは黒い狼《おおかみ》に、武装《ぶそう》した戦士サロスは鰐《わに》に、プルソンは熊《くま》に、ムルムルはグリフォンに乗っている。エリゴスにいたっては、暴走族風のファッションで、バイクにまたがって空を駆けていた。剣《つるぎ》や槍《やり》のような古風な武器を携《たずさ》えている者もいたが、多くの者は近代的な銃器《じゅうき》で武装していた。光に弱いため、マスクやゴーグルをかけている者も少なくない。  騎兵部隊の中には、あのグレモリーの姿もあった。黒いボンデージ・ルックで、旧ソ連製のAKMアサルトライフルを肩から提げている。彼女がまたがっているのは、狼の身体《からだ》に鷲《わし》の翼、蛇の尾を持つ魔獣《まじゅう》マルコシアスだ。その鞍《くら》には、多数の弾倉《だんそう》、予備の銃、手榴弾《しゅりゅうだん》、対戦専ミサイルなどがマウントされていた。  乗り物に乗らず、自力で空を飛んでいる者も多い。カイムはツグミ、マルファスは大鴉《おおがらす》、シャツクスは野鳩《のばと》、ストラスは巨大なフクロウの姿をしている。フルフルは人間の腕《うで》を持つ鹿《しか》で、コウモリのような翼をはばたかせている。アンドレアルファスは馬の頭を持つ孔雀《くじゃく》で、アムドゥシアスは下半身が人間の一角獣《いっかくじゅう》、グラシャラボラスは鷲の翼を持つ犬、ハゲンチは人の頭と鷲の翼を持つ牛、ウヴァルは巨大なヒトコブラクダ、ボティスは巨大な毒蛇、アミは人の形をした炎の柱だ。  彼ら名のある悪魔たちは、 <ザ・ビースト> 軍の将軍であった。その後方や周囲には、世界各地から召集《しょうしゅう》された名もない小悪魔や邪悪《じゃあく》妖怪たちが乱舞《らんぶ》している。ハルピュイア、魔女《まじょ》、ドラゴン、悪霊《あくりょう》、UFO、吸血鬼《きゅうけつき》、グレムリン、マンティコア、ジン、ガーゴイル……その総数、ゆうに三〇〇〇を超《こ》える。一見したところ規律らしいものはなく、隊列も組まずに飛行していた。彼らが夜空に向かって上昇してゆく光景は、遠くから眺《なが》めれば、つむじ風に舞い上げられた紙屑《かみくず》の群れのように見えた。 <こじ開けろ>  高度二〇〇〇メートルに達したところで、将軍たちの装着《そうちゃく》したインカムから、モーゲンスターンの指示が飛んだ。  騎兵部隊が上昇速度をやや落とし、空間を歪曲《わいきょく》する能力を持つ六|匹《ぴき》の悪魔が前に出た。彼らは部隊を追い越《こ》すと、かねてからの打ち合わせ通り、空中の一点に集結した。六本の手が、何もない空間をぐいとつかむ。  彼らが力を入れて引っ張ると、空間が不気味な音を立てて裂《さ》けた。  穏《おだ》やかな金色の光が夜空にあふれ出た。それは悪魔たちが生じさせた空間の裂け目から洩《も》れ出して、光のカーテンとなって海にまで垂れ下がり、オーロラのようにゆらめいていた。六匹の悪魔が空間をつかんだまま六方向に散開するにつれ、裂け目はぐんぐん広がり、光も明るさを増していった。 「おお!?」 「すげえ……」  地上からそれを見上げていた <Xヒューマーズ> のメンバーの間から、思わず驚《おどろ》きの声が洩れた。摩耶やかなたも、ほんの一時、それが地球に破滅《はめつ》をもたらす恐《おそ》ろしい存在であることを忘れ、純粋《じゅんすい》にその美しさに感動し、畏怖《いふ》の念に打たれていた。ただ一人、ロードレイザーだけが、何の感慨《かんがい》もこもっていない目で見上げていた。  夜空に生じた六芒星《ろくぼうせい》形の裂け目の向こうには、色とりどりの宝石でモザイクのように埋《う》め尽《つ》くされた巨大《きょだい》な天井《てんじょう》があった。赤いメノウ、青いサファイア、緑色のエメラルド、黄色いトパーズ、紫色のアメジスト……それらの放つきらめきが混ざり合い、黄金色の光となっているのだ。天井は水平だが、わずかに奥《おく》に湾曲《わんきょく》しているように見えた。  それは神の国——ニュー・エルサレムの底面だった。湾曲しているように見えるのは、あまりにも大きすぎるために生じた目の錯覚《さっかく》で、実際には完璧《かんぺき》な平面である。もっとも、厳密には水平ではなく、南に〇・四五度|傾《かたむ》いている。ニュー・エルサレムの底面の中心は、ここより五〇キロも南の海上にあり、そこでは底面は海面に平行なのだが、地球が湾曲しているため、このあたりでは平行にならないのだ。 「ははあ」双眼鏡《そうがんきょう》で空を眺《なが》めていたミスターWが感心した。「さすがに迎撃《げいげき》部隊は配置してあったな」  ニュー・エルサレムから放たれる黄金の光をバックに、天使の軍団が舞い降りてくるのが見えた。最初は小さな点の集まりにすぎなかったのだが、急速に数が増え、見る見る空を埋め尽くしてゆく。空中で整然と立体的な隊列を組んでいる姿は、まるで結晶体《けっしょうたい》の原子構造の模型を見るようだ。悪魔たちの無秩序《むちつじょ》さとは対照的である。  戦闘《せんとう》が開始された。  天使軍の数はざっと悪魔軍の二倍以上。その中核はミカエルの騎兵部隊で、その両翼《りょうよく》を怪物《かいぶつ》に乗っていない天使たちが守っている。ミカエルは部下を率い、敵軍に向かって勇猛《ゆうもう》に急降下していった。 「攻撃《こうげき》開始!」  ミカエルの号令一下、空間の裂け目から神の国に侵入《しんにゅう》しようとする悪魔たちに向かって、炎の雨、電光、雹《ひょう》が降りそそいだ。たちまち何百という悪魔や小妖怪が火に包まれ、あるいは大きな竜で頭を砕《くだ》かれて、ばらばらと落下していった。悪魔たちは浮《う》き足立ち、突進《とっしん》の勢いが削《そ》がれた。そこへミカエルの騎兵部隊が突入し、一気にかき乱した。  悪魔たちはよく戦った。ヴィネは風を起こし、天使の騎兵たちを怪物の背から吹《ふ》き飛ばした。アイムは灼熱《しゃくねつ》の炎《ほのお》を振《ふ》りまき、天使たちの軍を焼いた。フルカスはロバにまたがって戦場を駆《か》けながら、死神の鎌《かま》で天使たちを切り裂《さ》いた。エリゴスは「ひゃっほう!」と歓声を上げながらバイクで走り回り、天使を片っ端《ばし》からはね飛ばした。その他の悪魔《あくま》や小|妖怪《ようかい》たちも、銃《じゅう》を撃《う》ちまくり、あるいは天使にしがみついて肉弾《にくだん》戦を挑《いど》んだ。ドラゴンは火炎《かえん》を、魔女《まじょ》たちは魔法《まほう》の火の玉を、UFOは光線を発射し、天使たちを焼き殺した。ガーゴイルやハルピュイアは爪《つめ》で天使をかきむしり、マンティコアは肉を食いちぎった。  グレモリーの活躍《かつやく》もめざましかった。魔獣《まじゅう》マルコシアスの翼から放たれる炎の矢は、着実に天使たちを撃墜《げきつい》していった。魔獣の死角から攻撃《こうげき》しようとする天使に対しては、グレモリーのAKMが容赦《ようしゃ》なく火を噴《ふ》いた。  だが、やはり数の差はいかんともしがたい。雷《かみなり》を司《つかさど》る天使ラミエルは、ひときわ強烈《きょうれつ》な電撃《でんげき》を放ち、フルカスを撃墜した。雨を司る天使マトリエルは、炎系の悪魔に大量の水を浴びせかけ、殺していった。恐怖《きょうふ》を司る天使イロウルは戦場を駆けながら悪魔たちに恐怖心を植えつけ、パニックに陥《おちい》らせた。ドラゴンは記憶を司る天使ザドキエルによって記憶を奪《うば》われ、怒《いか》り狂《くる》って仲間に襲《おそ》いかかった。多くの天使を殺戮《さつりく》したジンも、猛烈な雹に打たれ、力|尽《つ》きてふらふらと墜落していった。  天使が、悪魔が、UFOが、魔女たちが、炎に包まれ、血を流し、あるいはばらばらに四散した醜《みにく》い残骸《ざんがい》となって、海面に雨のように降っていった。中には海面にたどり着く前に消滅《しょうめつ》してしまうものもあった。 「……これが限界ね」  グレモリーは舌打ちした。悪魔の将軍たちは次々に打ち倒され、悪魔軍は総崩《そうくず》れになっていった。ほんの十数分の戦闘で、戦力の三分の一が失われていた。 「撤退《てったい》する! 闇《やみ》を張れ!」  彼女はマルコシアスを反転させ、逃走《とうそう》に移った。闇を支配する悪魔や妖怪たちが、戦場に巨大な闇の壁を作り出す。それにまぎれて、悪魔軍は撤退を開始した。 「一気に蹴散《けち》らせ! 一匹も逃がすな!」  天使たちは圧倒的勝利に浮かれ、追撃を開始した。天使たちの戦線が空間の裂け目よりも前に出て、逃走する悪魔軍の後尾に肉薄《にくはく》する。そのため、一時的に後方ががら空きになった。  それこそ、悪魔たちの狙《ねら》っていたチャンスだった。 「今だ。矢を放て」  モーゲンスターンの命令を受け、地上で待機していた悪魔ガープの部隊が動いた。ガープとその部下たちは瞬間移動能力を持ち、大量の貨物を遠く離れた場所へ移送できる。もちろん距離《きょり》の制限はあるものの、有効に使えば恐ろしい力を発揮する。  彼らはトレーラーに隠《かく》されていた貨物とともに、がら空きになった天使軍の背後に瞬間《しゅんかん》移動した。彼らが運んできたのは、長さ四メートル近いミサイルだ。旧ソ連が二〇年前に開発し、一三か国に輸出している空対地ミサイルAS—14 <ケッジ> である。全部で四〇発。飛行機から発射して地上を攻撃《こうげき》する兵器なのだが、今夜に限っては、上に向かって発射される。  リモコンで発射スイッチを入れると同時に、悪魔《あくま》たちはミサィルから手を離《はな》し、瞬間移動で退避《たいひ》した。ミサイルの噴射《ふんしゃ》ガスで焼かれてはたまらない。  いったん水平に飛び出した計四〇発の <ケッジ> は、充分《じゅうぶん》に加速したところで、あらかじめインプットされた通り、急角度で上昇《じょうしょう》を開始した。軌道《きどう》が交差し合い、レース編みを思わせる白い曲線状の軌跡《きせき》を空中に描《えが》きながら、ニュー・エルサレムの底面めがけて突《つ》き進んでゆく。本来はレーザーで目標まで誘導《ゆうどう》するのだが、今回はその必要はない。目標はあまりにも大きすぎ、はずしようがないからだ。  ニュー・エルサレムの底面で、続けざまに四〇回、爆発《ばくはつ》が起きた。三一七キロの高性能爆薬の爆発には、どんな硬《かた》い宝石も耐《た》えられない。サファイアやエメラルドが派手にはじけ飛び、無数の破片がきらめく雨となって海面に降ってゆく。 「しまった!」  後ろを振《ふ》り返り、ミカエルは唇《くちびる》を噛《か》んで悔《くや》しがった。単純な陽動作戦にひっかかってしまった。悪魔たちの無秩序な突進《とっしん》も、慌《あわ》てふためいた撤退も、天使軍を前面に誘《さそ》い出すための罠《わな》だったのだ。  だが、攻撃を仕掛《しか》けたガープにとっても、結果は好ましいものとは言えなかった。確かに大きなクレーターは何十個もできたが、ひとつも貫通《かんつう》していない。さすがに通常|弾頭《だんとう》では何十メートルもの厚さの宝石に穴は開けられないようだ。 「四一番の使用を」  ガープが無線で要請《ようせい》すると、 <許可する> というモーゲンスターンのそっけない返答が戻《もど》ってきた。ガープと部下たちはすぐに地上に取って返すと、四一番目のミサイルを運んで戻ってきた。今度のは一発だけだが、全長七メートルもある円筒《えんとう》形のキャニスターに収納されている。その頃《ころ》には、悪魔たちの目論見《もくろみ》に気づいた天使軍の後衛が、慌《あわ》てて戻ってきていた。だが、間に合いはしない。ガープは発射スイッチを入れると、ただちに地上に瞬間《しゅんかん》移動した。  キャニスターから飛び出したBGM—109A <トマホーク> は、収納されていた翼《つばさ》をさっと展開すると、ターボファン・エンジンを全開にして急上昇しはじめた。その速度はたちまちマッハ〇・五を超《こ》えた。天使たちでも追いつけない。 「空間を閉じろ!」  ガープの命令で、空間に裂《さ》け目を生じさせていた悪魔たちが、いっせいに妖力を切った。  六芒星《ろくぼうせい》形の裂け目が見る見る収縮してゆく。  裂け目が完全に閉じる直前、 <トマホーク> がニュー・エルサレムの底面に衝突《しょうとつ》した。わずかに残ったアスタリスク(*)形の裂け目から、一瞬、まばゆい閃光《せんこう》が放射されたかと思うと、十数秒して、雷鳴《らいめい》のような衝撃音が地上に到達《とうたつ》した。 「核《かく》を使ったのか!?」  さしものオーディンも、悪魔の大胆《だいたん》なやり口に愕然《がくぜん》となっていた。彼らは地上に影響《えいきょう》が及《およ》ばないよう、空間が閉じる速度まで完全に計算に入れていたのだ。撤退する際に暗闇を張ったのも、空間が閉じるのが遅れた場合、閃光や放射線から自軍を守るためだろう。 「手っ取り早いだろう?」モーゲンスターンは戦神の驚《おどろ》きようを面白がっていた。「厚さ何百フィートもあるものに、ちまちまと穴を開けてはいられない」 「こんなのは聞いていなかったぞ!」 「訊《き》かなかっただろう?」  オーディンはどうにか怒《いか》りを抑《おさ》えた。「……まだ何か隠《かく》しているのではあるまいな?」 「いや、ミサイルはあれだけだ。我々のコネでも、核は一発手に入れるのがせいぜいでね。どのみち、天使どもは二度と同じトリックにはかかるまい。一回しか使えない手だ」 「確かにな」  オーディンは不愉快《ふゆかい》に感じながらも、相手の主張の正しさは認めざるを得なかった。 「次はあんたらの出番だ。空に残っている天使どもを一掃《いっそう》したら、また空間を開く。そうしたら突入して、橋頭堡《きょうとうほ》を確保する……」 「核爆発の直後に!? わしらにアトミック・ソルジャーになれというのか!」 「風を起こせる者を前面に出す。空間を開くと同時に、突風《とっぷう》を吹きこんで、放射性降下物を拡散させる。心配はいらん。シミュレーションによれば、WHOが定めている年間|被曝《ひばく》許容量を少し上回る程度だ」 「何もかも計算済みか……」オーディンは吐《は》き捨てるように言った。「だが、感情的に納得できるものではないな」  戦争の神として崇拝《すうはい》されているオーディンだが、人間たちの戦争を煽《あお》ることはとっくにやめている。千数百年も生きてきて、人間同士の醜《みにく》い殺し合いをさんざん目にし、空《むな》しさを覚えるようになったからだ。人間たちは殺戮《さつりく》の効率をアップすることにばかり狂奔《きょうほん》し、英雄的な戦いというものを忘れてしまった。特に毒ガスや核兵器などというおぞましいものが出現してからは、自分の時代は終わったと痛感していた。神々の国アスガルドで隠遁《いんとん》生活を送っていたのもそのためだ。  今度の戦いに参加を決意したのは、久しぶりに正しい戦争——正義とモラルに基づく戦争ができると思ったからだ。地球のすべての生命を守るために戦う……これほど崇高《すうこう》で名誉《めいよ》に満ちた戦いがあるだろうか?  だが、そんな戦いのモラルを、 <ザ・ビースト> はいきなり踏《ふ》みにじった。 「感情などに惑《まど》わされては正しい判断はできん」モーゲンスターンは冷笑した。「純粋《じゅんすい》に理性のみで判断する者が、最後に勝利する」 「……チェスタトンの言葉を知っておるか?」 「ん?」 「こういう言葉だ——『狂気《きょうき》とは理性のなくなった状態ではない。理性以外何もなくなった状態である』……」 「それがどうした?」  古代の神の強烈《きょうれつ》な嫌悪《けんお》の視線を受けても、モーゲンスターンは平然としていた。オーディンは憤然《ふんぜん》として背を向けると、待機していた自軍に呼びかけた。 「出撃《しゅつげき》するぞ!」  空間が閉じた瞬間《しゅんかん》、裂《さ》け目より外に突出《とっしゅつ》していたミカエルの騎兵《きへい》隊だけが難を逃《のが》れた。残りの天使たちは裂け目の向こうに取り残され、核《かく》の炎《ほのお》で蒸発してしまっただろう。  状況《じょうきょう》は完全に逆転していた。一挙に三分の二を失った天使の迎撃《げいげき》部隊は、悪魔たちの反攻《はんこう》によって散り散りなっていた。そこへさらに地上から援軍《えんぐん》が上がってきた。  最初に上がってきたのほ、神々や伝説の英雄《えいゆう》たちの騎馬《きば》・戦車部隊だった。オーディンは八本足の愛馬スレイプニールにまたがり、勇壮《ゆうそう》な雄叫《おたけ》びとともに先頭を駆《か》けていた。そのすぐ横では、二匹の山羊《やぎ》の引く空飛ぶ戦車に乗り、雷神《らいじん》トールが無敵の石槌《いしづち》ミョルニルを振《ふ》り回している。その後には武装《ぶそう》した戦乙女《いくさおとめ》ヴァルキューレたちが続く。ペルシャの戦神ミスラも巨大な槌矛《つちほこ》を持って戦車に乗り、獰猛《どうもう》な猪《いのしし》ウルスラグナを連れていた。四つの頭を持つスラブの戟神スヴァンテヴィトは白馬にまたがり、アイルランドの英雄クーフーリーンは血まみれの首で飾《かざ》り立てた戦車に乗っていた。  薄衣《はくい》をまとった半|透明《とうめい》の美少女の群れも空を飛んできた。女王オリエンスに率いられた空気の精シルフたちだ。その後ろからほ、ライオンの頭を持つシュメールの嵐《あらし》の鳥ズー、アルゼンチンの火の駝鳥《だちょう》ニャンドゥタタ、ドイツの龍《りゅう》族リントヴルム、日本の火車、ギリシャの妖鳥《ようちょう》セイレーン、インドの白猿神《はくえんじん》ハヌマーン、箒《ほうき》に乗ったロシアの魔女バーバヤーガ、エジプトの不死鳥フェニックス、中国の空飛ぶ生首・飛頭蛮《ひとうばん》などが続く。中国|奥地《おくち》から駆けつけた龍族も、編隊を組んで空に駆《か》け上がっていった。  形のない火の玉のようなものもたくさん飛んできた。海の怪光《かいこう》として有名なセントエルモの火、日本の鬼火《おにび》やつるべ火、イングランドのウィル・オ・ザ・ウィスプやジャック・オ・ランタン、スコットランドのゲールガム、オーストラリアのクインズ・ライトなどだ。彼らの炎が天使たちの燃えやすい翼《つばさ》に絶大な効果を発揮《はっき》することは、渋谷での戦いで実証されている。  力の差は圧倒《あっとう》的だった。天使たちは炎で焼かれ、槍《やり》で突《つ》かれ、銃で撃《う》たれ、爪で切り裂かれ、歯で噛《か》み砕かれ、次々に墜落《ついらく》していった。  ミカエルはよく戦った。部下たちが壊滅《かいめつ》してゆく絶望的な光景を目にしながらも、最後まで戦い続けた。ミスラと一騎《いっき》打ちをして突き殺し、数匹のリントグルムを屠《ほふ》り、ハヌマーンに深手を負わせ、何十という小妖怪を切り裂いた。彼もその騎獣《きじゅう》も、大量の返り血を浴び、凄惨《せいさん》な赤に染まっていた。  だが、ついに最後の時が来た。騎獣が傷つき、動きが鈍《にぷ》ったところを狙《ねら》って、グレモリーが頭上から急降下してきたのだ。 「バイバイ!」  照準をミカエルの背中に合わせると、グレモリーはにやりと笑い、アメリカ製の小型バズーカ砲M72A2のトリガーを引いた。  対戦車ミサイルの直撃を受け、ミカエルは粉々に四散した。 「我々も発進するぞ!」  双眼鏡《そうがんきょう》で戦いを見守っていたミスターWが、マイクに向かって怒鳴《どな》った。同時に、いくらかのボタンを押《お》し、レバーを引いて、飛行船のエンジンを始動させる。  プロペラが回りだし、幽霊《ゆうれい》飛行船はゆっくりと浮上《ふじょう》した。マゴニアの船も続いて浮上する。  二|隻《せき》は空中でポジションを入れ替《か》え、マゴニアの船が上になった。大きな気嚢《きのう》を持つ飛行船は上が死角だし、マゴニアの船は下が死角なので、上下に並《なら》べば互《たが》いにカバーできるというわけである。二隻の船は慎重《しんちょう》に速度を合わせ、上昇《じょうしょう》していった。  空ではすでに天使の残存勢力の掃討《そうとう》が終了し、悪魔たちがまた空間の裂け目を開いていた。核爆発《かくばくはつ》の衝撃《しょうげき》で、ニュー・エルサレムの底部が直径数百メートルにわたって崩落《ほうらく》し、巨大《きょだい》な穴《あな》が貫通《かんつう》していた。穴の縁《ふち》は無残に黒く焦げており、炭化したり熱で変成した宝石が、まだがらがらと崩れ続けていた。  シルフや天候神が力を合わせて突風《とっぷう》を起こし、放射能を帯びた空気を穴の中に押《お》し戻《もど》す。ひとしきり突風を吹きこんだ後、ガイガー・カウンターを持った悪魔が前に出て、放射線量を確認し、OKのサインを出した。  空を飛べる悪魔や妖怪《ようかい》、神々は、穴の中へ飛びこんでいった。地上で待機していた飛行能力を持たない妖怪たちも、つむじ風の妖精《ようせい》ムリネッロの起こす風に乗ったり、大型の飛行妖怪の背中にまたがったり、瞬間移動能力を持つ悪魔に運ばれたりして、穴の中へピストン輸送されてゆく。空を飛び交う妖怪たちの間を縫《ぬ》って、幽霊飛行船とマゴニアの船も穴をくぐり抜《ぬ》け、ニュー・エルサレムに侵入《しんにゅう》した。  たちまち彼らは思い知らされることになった。迎撃に出た天使たちは、天使軍のほんの一部にすぎなかったことを——本当の戦いはこれからであることを。  神の国の空は、何十万という天使で埋《う》め尽《つ》くされていた。 [#改ページ]    14 今夜かぎり世界が……  ワシントンDC・ペンシルバニア通り一六〇〇番地——  同日・午後一一時一〇分(東部標準時)——  もう深夜だというのに、大統領はホワイトハウスの一室に閉じこもり、まんじりともせずテレビのニュースに見入っていた。急速に勢力の衰《おとろ》えたハリケーンは、温帯性低気圧に変化しつつ あったが、依然《いぜん》としてロングアイランドに居座っているため、コネチカット州、ロードアイランド州、マサチューセッツ州のほぼ全域、ニューヨーク州とニュージャージー州の東側で、大雨による被害《ひがい》が続出していた。崖崩《がけくず》れ、堤防《ていぼう》の決壊《けっかい》、道路や鉄道の寸断……被害総額が何億ドルになるのか、今の時点では見当もつかない。  いや、災害からの復旧など、明日になって考えればいいことだ。本当に知りたいのはハルマゲドンの行方《ゆくえ》だが、もちろんテレビはそんな話題などひと言も流さない。現地にはCIAやNSAの諜報員《ちょうほういん》が派遣《はけん》され、戦いの趨勢《すうせい》を見守っているはずだが、電話線が切れているうえ、電波状態もひどく悪く、切れ切れにしか情報が入ってこない。一時間半前の連絡《れんらく》によれば、戦場はニュー・エルサレム内に移ったようなのだが……。  ハリケーンは消滅《しょうめつ》しつつ ある。今はどうにか情報操作に成功しているが、明日の朝までに戦いに決着がつかなければ、雨と雲のヴェールは吹《ふ》き払《はら》われ、多くの人間が真実を目にすることになる——空に開いたニュー・エルサレムへの入口や、天使と妖怪《ようかい》たちの戦いを。  仮に戦いが妖怪の勝利に終わったとしても、素直には喜べない。今度の一件で、妖怪の存在が世間に知られてしまうかもしれないからだ。それを想像し、大統領は暗澹《あんたん》たる気分になった。おぞましい怪物《かいぶつ》や悪魔《あくま》が人間に化け、社会に深く根を張っていることが明らかになったら、民衆の間に強烈《きょうれつ》な疑心暗鬼《ぎしんあんき》が芽生えるだろう。五〇年代のマッカーシー旋風《せんぷう》どころの騒《さわ》ぎではない。政界も宗教界も大混乱に陥《おちい》るだろうし、魔女狩《まじょが》りのようなことも起きるかもしれない。さらに、�神�や天使が実在したこと、妖怪たちが彼らを攻撃《こうげき》したことや、政府がすべてを知りながら秘密にしていたことが発覚すれば、怒《いか》り狂《くる》ったファンダメンタリスト勢力がミリシアや州軍を押《お》し立てて蜂起《ほうき》し、内戦にも発展しかねない。  困ったことに、大統領としての任期はあと四か月も残っている。すべての責任は自分がかぶることになるのだ。こんな不条理なことがあっていいのだろうか。いっそ弾劾《だんがい》されて、さっさと表|舞台《ぶたい》から退場してしまおうか……。  そんなことを考えていた時、顔色を変えた秘書官が部屋《へや》に入ってきた。 「悪いニュースです」 「まだ何かあるのか?」  大統領はこの数日で、悪いニュースにすっかり免疫《めんえき》ができていた。 「二〇分前、NORAD(北米防空司令部)のメイン・システムがハッキングされました」 「被害は?」 「バックアップまで根こそぎやられました。さらにNORADに直結するすべてのレーダー基地にもウイルスを撒《ま》かれました。内部の者の犯行の可能性もあります。特に防空識別システムは完全にアウトです」 「復旧の見通しは?」 「まだ不明ですが、かなりの時間がかかると思われます」 「ということは、その間、ミサイルが飛んできても迎撃《げいげき》できないのか?」 「迎撃できないことはありませんが、システムの支援《しえん》なしでは、精度はかなり下がるでしょう」 「 <ル・トリオンファン> はどうした? まだ発見できんのか?」 「はい。ハリケーンの影響《えいきょう》による荒天《こうてん》のため、水上|艦艇《かんてい》の探知能力はかなり制限されているようです」 「やれやれ……」大統領は額に手を当て、大きく哀《かな》しげなため息をついた。「私が何を考えているか、分かるかね?」 「何でしょう?」 「不謹慎《ふきんしん》かもしれんが、こう思うんだよ——いっそ世界が滅《ほろ》びればどんなに楽か、と。この苦しみや悩《なや》みや恐怖《きょうふ》から、すべて解放されるのだからね」 「しかし、それは……」 「分かっている。現実|逃避《とうひ》だ」大統領はうなずいた。「きっと、一九〇〇年前のヨハネも、こんな心理で『黙示録《もくしろく》』を書いたのだろうな……」  ニュー・エルサレム——  同日・午後一一時二〇分(東部標準時)—— 「こんなの、いつまで続くのよお!?」  森林地帯の上空を飛行するマゴニアの船。その船尾に設置された中古のブローニング〇・三〇三インチMk2対空機銃《たいくうきじゅう》を撃《う》ちまくりながら、かなたは泣きそうな声で叫《さけ》んでいた。 「もう! 髪《かみ》が汚《よご》れる!」  給弾《きゅうだん》を手伝いながら、聖良《せいら》も悲鳴を上げていた。この船に設置された対空機銃は全部で四基。船上には機銃の銃口《じゅうこう》から発する猛烈《もうれつ》な硝煙《しょうえん》が漂《ただよ》い、むせかえりそうだ。  この戦いに参加した旧 <うさぎの穴> のメンバーのうち、彼女ら二人だけが遠隔攻撃《えんかくこうげき》用の妖術《ようじゅつ》を持たず、空も飛べない。それで銃座《じゅうざ》に配置されたのである。無論、対空機銃を撃つなど、かなたには初めての体験だ。しかし、技術など必要なかった。空はどこもかしこも天使でいっぱいで、トリガーを引けば必ず当たるのだ。むしろ船の周囲を飛び回る仲間の妖怪に当てないようにするのが大変だった。  ニュー・エルサレムに突入《とつにゅう》してからすでに二時間。戦いの趨勢がどうなっているのか、かなたには見当もつかない。決して夜が来ない神の国の空では、何万という妖怪、何十万という天使が入り乱れて戦いを続けている。絶え間なく電光がひらめき、炎《ほのお》が飛び交う。爆発《ばくはつ》音や銃声《じゅうせい》が轟《とどろ》き、それに混じって、悲鳴、怒号《どごう》、雄叫《おたけ》び、助けを求める声が聞こえる。それらがすべて渾然《こんぜん》となって、恐《おそ》ろしい大|交響楽《こうきょうがく》を構成し、神の国の空を満たしていた。  そして、死骸《しがい》が降ってくる。白い羽根をまき散らしながら、雪のようにひらひらと舞《ま》い落ちてくる無数の天使の死骸。炎に包まれて流星のように落下してくる悪魔たちの死骸。血まみれになって墜落《ついらく》してくる龍《りゅう》族や神々の死骸。原形すら分からぬほどばらばらになって降ってくる妖怪たちの死骸……それらは樹の枝にひっかかったり、草原に激突《げきとつ》したり、河に落下したりして、神の国の大地と水を血で染めていった。  飛行能力を持たない妖怪たちは地上を進軍していた。天使は彼らにも襲《おそ》いかかってきたので、地上のそこかしこで激戦が繰り広げられていた。大地が震《ふる》え、森が炎上《えんじょう》した。河には何百という死骸が流れていた。見たところ天使の死骸の方が圧倒《あっとう》的に多いが、もともと天使の勢力の方が何十倍も多いので、これだけでは勝敗の行方は判断できない。 「もう……いやだよ、こんなの……!」  かなたはついにぼろぼろと泣きはじめた。父の仇《かたき》を討《う》ちたいと参加した戦いだったが、もう充分《じゅうぶん》すぎるほどに殺している。いくら落としても、天使は次から次に現われるのだ。いったい何十人の天使を撃墜《げきつい》したのか、自分でも分からない。この先、まだどれだけ殺し続けなくてはならないのかも……。 「ちょっと! 手え休めないで!」  マストの頂部にしがみつき、接近してくる天使を糸で切り裂《さ》きながら、湧《ゆう》が叫んだ。さっき背後から天使の電撃《でんげき》を食らい、Tシャツの背中が無残に焼け焦《こ》げているが、それでも気丈《きじょう》に戦い続けている。マストの根元には大樹《だいき》がいて、破壊《はかい》音波で彼女を援護《えんご》していた。蔦矢《つたや》は船首近くに立ち、刃物のような葉を発射して、前方から来る天使を迎撃している。流は金色の龍に変身し、アザゼルとともに船の周囲を飛び回って、機銃の死角から接近してくる天使を叩《たた》き落していた。  広い戦場のどこかには、 <海賊《かいぞく》の名誉亭《めいよてい》> をはじめ、日本から来た妖怪も多数いるはずだが、どこで何をしているのか、生きているのかどうかも分からない。  後方上空から新たな天使の一団が接近してきた。かなたは涙を拭《ふ》いていたので、対応が遅《おく》れた。先頭の天使が急降下してきて、手にした鎌《かま》を投げる。金色の鎌は回転しながらブーメランのように弧《こ》を描《えが》いて飛翔《ひしょう》し、かなたの頭の数センチ横をかすめた。彼女が慌《あわ》てて発砲《はっぽう》すると、天使たちはさっと左右によけた。 「聖良さん!?」  かなたは振《ふ》り返り、悲鳴を上げた。鎌は聖良に命中し、肩《かた》を大きく切り裂いていた。 「ごめん! あたしがぼうっとしてて……」 「平気ですわ、これぐらい……」  血が流れ出している肩を押《お》さえ、痛みに耐《た》えながら、聖良はどうにか微笑《ほほえ》んだ。人間なら死につながりかねない重傷だが、妖怪《ようかい》は人間よりかなりタフにできている。 「それより、戦いはまだ続いてますわよ」 「う、うん……」  かなたは気を取り直し、また機銃《きじゅう》にしがみついて撃《う》ちはじめた。 「ヴィシュヌだ!」 「ヴィシュヌたちが来てくれたぞ!」  かなたたちのはるか後方、ニュー・エルサレムの開口部近くでは、妖怪たちの軍が歓喜で沸《わ》き立っていた。参戦をしぶっていたヴィシュヌを筆頭とするヒンドゥー神群が、ようやく重い腰《こし》を上げ、ヒマラヤの奥地《おくち》にある須弥山《しゅみせん》から出てきたのである。  ヴィシュヌ——日本では那羅延天《ならえんてん》と呼ばれる神は、巨鳥《きょちょう》ガルダに乗って空を飛び、軍団を指揮《しき》している。青い肌《はだ》をした美男子で、きらびやかな装飾《そうしょく》で身を飾《かざ》り、四本の手に棍棒《こんぼう》、戦輪《チャクラム》、法螺貝《ほらがい》、蓮華《れんげ》を持っていた。  そのすぐ後ろにはシヴァがいた。マハーデーヴァ(大天)、マへーシュヴァラ(大自在天)、マハーカーラ(大黒)など、多くの別名を持つ神である。青黒い肌で、首に蛇《へび》を巻き、虎《とら》の皮を腰にまとって、牡牛《おうし》ナンディンにまたがっていた。その額にある第三の眼《め》から放たれる死の光線は、一撃で天使を跡形《あとかた》もなく焼き尽《つ》くす。その放つ矢は空中で大|爆発《ばくはつ》を起こし、一度に何百という天使を葬《ほうむ》り去る。  もっと恐《おそ》ろしいのは彼の妻のパールヴァティーである。夫と同様、いくつもの違《ちが》った姿、違った名を持つ彼女だが、今回は殺戮《さつりく》の女神カーリーとして現われた。黒い肌をした全裸に近い格好の女で、長い舌を垂らし、四本の腕《うで》に剣《つるぎ》や鎌や槍《やり》を持ち、首には頭蓋骨《ずがいこつ》をつなぎ合わせた首飾りを垂らし、敵から切り取った腕を何十本も腰の周りにぶら提げている。敵の群れに果敢《かかん》に飛びこみ、踊《おど》るような優雅《ゆうが》な動作で四本の武器を縦横無尽に振り回し、天使たちを切り裂いていた。その美しい裸身はたちまち返り血にまみれていった。  この夫婦の息子とされるガネーシャ(聖天)とスカンダ(韋駄天《いだてん》)も来ていた。象の頭と四本の腕を持つガネーシャは、その優れた頭脳で戦況《せんきょう》を分析《ぶんせき》している。六つの頭と六本の腕を持っスカンダは、孔雀《くじゃく》に乗って戦場を風のように駆《か》けめぐりながら、天使たちを殺戮し、敵軍に恐ろしい疫病《えきびょう》をばらまいている。  別の方面では、阿修羅《あしゅら》王バリ、別名ヴァイローチャナ(毘慮遮那《びるしゃな》)が、アスラ(阿修羅)、ヤクシャ(夜叉《やしゃ》)、ラクシャサ(羅刹《らせつ》)といった妖怪・悪鬼《あっき》たちを引き連れ、大暴れしていた。彼らの殺戮はすさまじく、たちまち天使軍の防衛線は総崩《そうくず》れになっていった。  膠着《こうちゃく》状態は破れた。援軍の到着で勢いに乗った妖怪軍は、一気にニュー・エルサレムの中心へと進撃《しんげき》を開始した。  ニュー・エルサレム——  二〇〇〇年八月二八日・午前〇時四〇分(東部標準時)——  マゴニアの船のすぐ下を飛んでいる幽霊《ゆうれい》飛行船の中でも、 <Xヒューマーズ> が下方から接近してくる天使の迎撃《げいげき》に大わらわだった。身軽なシャドーキックは気嚢《きのう》の上に立ち、手裏剣《しゅりけん》や爆裂弾《ばくれつだん》を投げている。他のメンバーはゴンドラの中にいた。ガンチェリーは前方の窓《まど》から銃《じゅう》を撃《う》ちまくり、エッジは床《ゆか》の揚《あ》げ蓋《ぶた》を開いて下向きに光の刃を放ち、サヴェッジバイトとロードレイザーは両側面の窓から対空機銃を撃っている。銃を使えないパワーフェアリーは戸口に立ち、用意していた数十本の槍《やり》を投げて、天使を正確に射抜《いぬ》いていた。ミスターXは舵輪《だりん》やレバーを忙《いそが》しく操作し、マゴニアの船と一定の距離《きょり》を保ちつつ、衝突《しょうとつ》しないように操船するので手いっぱいだ。  摩耶はというと、護身用に三八口径のリボルバーを渡《わた》されていたが、まだ一発も撃っていなかった。安全な船の中央近くにいて、縮こまっている。まだ死ぬわけにはいかない。自分には天使を殺すよりももっと重要な任務があるのだから……。 「ちくしょう! やっぱ普通のガンは威力《いりょく》が弱いぜ!」  S&WのM29に新たな四五口径マグナム弾を装填《そうてん》しながら、ガンチェリーはぼやいた。愛用のシルバーバレルはまだホルスターに収まっている。強力な破壊《はかい》力を発揮するシルバーバレルの魔法《まほう》の弾丸《だんがん》は、一日に六発しか発射できないので、節約する必要があるのだ。 「おい、やばいぜ!」揚げ蓋から下を覗《のぞ》きこんでいたエッジが叫《さけ》んだ。「下から新手《あらて》がわんさか……うわっ!?」  強烈《きょうれつ》な衝撃《しょうげき》とともに、ゴンドラの床が爆発し、炎《ほのお》が激《はげ》しく噴出《ふんしゅつ》した。炎を操る天使たちによる攻撃をくらったのだ。飛行船は大きく揺《ゆ》れ、乗員はみんな床に投げ出された。ミスターWの手を離《はな》れた舵輪がくるくる回転する。 「ぐわっ!? こんちくしょう!」  衝撃でヘルメットを吹《ふ》き飛ばされたエッジは、顔を押《お》さえてのたうち回った。窓から差しこむ神の国の光をまともに浴びてしまったのだ。ガンチェリーが慌《あわ》てて駆《か》け寄り、コンパートメントのカーテンをむしり取って、少年の頭からかぷせる。  ゴンドラの床には幅《はば》二メートルはある大きな亀裂《きれつ》が口を開け、地上の風景が見えていた。布張りの天井《てんじょう》がぶすぶすと燃えている。サヴェッジバイトとロードレイザーが消火器を手に取り、懸命《けんめい》に火を消し止めようとする。  その時、またも衝撃が襲った。コントロールを失った飛行船が、マゴニアの船の船底に衝突したのだ。柔《やわ》らかい気嚢がクッションになったので、たいしたダメージにはならなかったものの、大きくバウンドし、今度は急速に高度が下がりはじめた。  対空砲火《たいくうほうか》が止まったのに気づき、天使たちが飛行船にとどめを刺《さ》そうと群がってくる。その前を七つの頭の赤い巨龍《きょりゅう》が横切った。 「アザゼルだ!」  天使たちは歓声を上げ、手柄《てがら》を競って大物に目標を変更した。アザゼルはわざと弱っているふりをしてふらふらと飛び、攻撃をその身に受けながら、飛行船から離れていった。自分を囮《おとり》にして、天使たちを飛行船から引き離そうというのだ。その策略はまんまと図に当たり、天使たちは煙《けむり》を上げて墜落《ついらく》してゆく飛行船などそっちのけで、アザゼルを追撃《ついげき》しはじめた。  ゴンドラの正面の窓の外に、エメラルド色の美しい大河が迫った。ミスターWは高度一〇〇メートルでどうにか船体を立て直した。降下時に加速のついた飛行船は、河の流れに沿って、水面すれすれを時速一〇〇キロ近いスピードで飛行する。床に開いた亀裂からはびゅうびゅうと風が吹きこみ、エメラルド色の水面が急流のように後方に飛び去ってゆくのが見えた。 「参ったな……」  ミスターWは舌打ちした。どうしても高度が上がらない。大河は前方で大きく蛇行《だこう》し、森に覆《おお》われた丘《おか》が針路に立ちふさがっているのだが、それを飛び越《こ》えられそうにないのだ。おまけに舵《かじ》もおかしくなっており、カーブしてかわすこともできない。プロペラを逆回転させてブレーキをかけるが、間に合いそうにない。 「これは衝突するぞ」ミスターWはやけに冷静な口調でそう言うと、振り返って摩耶たちを見た。「お嬢《じょう》さんたち、今のうちに飛び降りることをお勧めするよ」 「マジぃ!?」ガンチェリーは悲鳴を上げた。 「ああ、マジだ」とミスターW。  ガンチェリーはすぐに覚悟《かくご》を決めた。ミスターWはこんな非常時にジョークを飛ばすようなタイプではない。彼が飛び降りた方がいいと言うなら、本当にそうなのだ。妖怪なら衝突の衝撃に耐《た》えられるかもしれないが、生身の人間はそうは行かない。河に飛びこんだ方が、まだ助かる可能性は高い。 「すまねえ、ガンチェリー!」カーテンの布にくるまって、エッジが叫ぶ。「俺《おれ》、いっしょに行けそうにねえ!」  この状態で外に飛び出すのは、彼にとって致命《ちめい》的だろう。 「分かってる! オレとやりたきゃ生き延びろ!」  そう叫ぶなり、ガンチェリーは摩耶の手を引いて、床の亀裂に身を躍《おど》らせた。続いてサヴェッジバイトとロードレイザーが飛び降りる。  パワーフェアリーが飛び出そうとした時、飛行船がまた大きく揺れ、彼女は尻餅《しりもち》をついた。高度が下がりすぎて、ゴンドラの底が水面を打ったのだ。  いったん跳《は》ね上がった飛行船は、またふらふらと高度を下げた。丘はもう目の前だ。 「何かにしがみつけ!」ミスターWは怒鳴《どな》った。  次の瞬間《しゅんかん》、飛行船は森の中に突《つ》っこんだ。  北大西洋・ソーム深海平原——  同日・同時刻—— 「一|軸《じく》スクリュー、シュラウドつき……間違《まちが》いありません。シーウルフ級です」  ソナー員からの報告を受け、艦長《かんちょう》のリノ・バルジャベル中佐は、「くそっ」と小声で毒づいた。人間の声紋《せいもん》が人によってみな違うように、潜水艦《せんすいかん》の発するスクリュー音にも艦種《かんしゅ》によって明確な個性がある。今、この艦の左舷《さげん》前方四〇キロから迫《せま》ってくるのは、最悪なことに、アメリカ海軍の最新鋭の攻撃型原潜《こうげきがたげんせん》なのだ。  ここは深度二〇〇メートルを航行するフランス海軍の戦略ミサイル原潜 <ル・トリオンファン> の発令所。バルジャベル中佐の目の前にあるディスプレイには、ソナーによって探知された艦の周囲の状況《じょうきょう》が、簡略化されたCGで表示されている。  つい一五分前、前方に水上艦、それも軍艦のものらしいスクリュー音をかすかにキャッチした。おそらくアメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦《くちくかん》だろう。幸い、距離《きょり》はまだ遠く、荒れている海面が発するノイズのせいもあって、こちらには気づいていないようだった。そこで遭遇《そうぐう》を避《さ》けるために左に九〇度ターンし、速度を落としてやり過ごそうとした。そのとたん、今度は左舷前方からシーウルフ級が出現したのだ。 <ル・トリオンファン> は二|隻《せき》の軍艦《ぐんかん》にはさみ撃《う》ちにされた格好だった。 「捕《つか》まったかな?」 「おそらくは」ソナー員が苦しそうに答える。「シーウルフ級のBSY—2システムは我が艦より優秀ですので」  潜水艦戦の勝敗は、相手の位置をいかに早く正確に捕捉《ほそく》できるかで決まると言っても過言ではない。シーウルフ級は、艦首のBQQ—6球形ソナーの他に、艦体側面三|箇所《かしょ》にフランク・アレイ・ソナー、艦尾にTB—23曳航《えいこう》アレイ・ソナーを有し、高い探知能力と分析《ぶんせき》能力を誇《ほこ》っている。海中の音波|伝播《でんぱ》状態にもよるが、コンディションがいいと一五〇キロ先の敵艦のスクリュー音を探知できるとも言われている。  まともにシーウルフ級と渡《わた》り合っても、勝てる可能性はほとんどない。いくら最新型と言っても、 <ル・トリオンファン> はしょせん戦略原潜、重い核《かく》ミサイルを背負っているために動きが鈍《にぶ》く、武装《ぶそう》も少なく、搭載《とうさい》された魚雷《ぎょらい》の射程距離も短い。反転して逃《に》げても無駄《むだ》だ。最大速力はシーウルフ級の方が一・五倍も早い。 「ここまでか……」  バルジャベル中佐は唇《くちびる》を噛《か》んだ。この危機を切り抜《ぬ》けられる可能性はゼロに近い。乗員の疲労《ひろう》も限界だ。本来は一一一人の乗員によって三|交替《こうたい》制で動かしている艦を、わずか三四人の手で、三六時間ぶっ続けで航行させてきたのだから。  肉体の疲労だけではなく、精神的疲労も限界に近く、部下の中には異常な言動も目立つようになってきた。この緊張《きんちょう》状態では、頭がおかしくなるのも無理はない。バルジャベル自身、仮眠中にうなされて飛び起きたことがある。ミサイル・ルームに詰《つ》めこまれた七七人の死体——この艦を制圧する際に毒ガスとサブマシンガンで虐殺《ぎゃくさつ》した乗員たちが、ゾンビとなってぞろぞろ起き上がってくるという悪夢《あくむ》を見たのだ。  バルジャベルは決意した。まだ合衆国の面積の半分しか射程に入っておらず、天使の指示に完璧《かんぺき》には従えないことになるが、この状況《じょうきょう》ではやむを得ない。ロサンゼルスやサンフランシスコはあきらめるしかない。 「アップトリム。変温層の上に出る。深度四〇に——副長、キーを」  副長のミシェル・キュルヴァル少佐は無言でうなずき、シャツの下に肌身離《はだみはな》さず身につけていたキーを取り出した。バルジャベルも自分のキーを取り出す。二人はそれぞれ発令所の両端に移動し、赤く塗《ぬ》られた小さなボックスを開いた。その中にある鍵穴《かぎあな》にキーを挿《さ》しこむ。  どの国でもそうだが、核ミサイルの安全装置を解除するキーは二本あり、二人の責任者によって保管され、離《はな》れた場所にある鍵穴に挿しこんで同時に回さなければ解除できない仕掛《しか》けになっている。一人が精神に異常をきたしても、勝手にミサイルを発射できないようになっているのだ。  だが、艦長と副長が同時に同じ狂気《きょうき》に取り憑《つ》かれる可能性など、誰《だれ》も考慮《こうりょ》してはいない。 「行くぞ……アン、ドゥ、トロワ!」  バルジャベルの合図で、二人は同時にキーを回した。  かちっ、という小さな音とともに、世界に破滅《はめつ》をもたらす兵器の封印《ふういん》が解かれた。  ニュー・エルサレム——  同日・午前〇時五〇分(東部標準時)—— 「ちっくしょー! まったくミスターWの発明ってろくなもんがねえ! このくそったれなアーマーのおかげで死にかけたじゃねえか!」  ずぶ濡《ぬ》れで河から這《は》い上がりながら、ガンチェリーは悪態をついていた。重量一四キロもあるCIDのせいで危うく沸《おぼ》れかけたところを、ティラノサウルスの化石に変身したサヴェッジバイトに助けられたのだ。摩耶はひと足先に泳ぎ着いていたし、ロードレイザーも水面を走って岸にたどり着いていた。そこは河に面した小さな空き地で、深い広葉樹の森がすぐ目の前に立ちはだかっていた。  水を吸ったCIDはさらに重くなっていた。もう使い物にならないと判断したガンチェリーは、迷うことなくそれを脱《ぬ》ぎ捨て、Tシャツとショーツだけの身軽な姿になった。 「来たぞ」  ロードレイザーが空を見上げてつぶやぐ。武装《ぶそう》した天使の一隊がこちらに降下してくるところだった。 「お前ら、先に行け」とサヴェッジバイト。 「え、でも……」 「もたもたすんな!」ためらっている摩耶たちを、サヴェッジバイトは五メートルの高さからどやしつけた。「俺《おれ》の脚《あし》は遅《おそ》いんだよ! お前らには使命があるんだろ!? 俺の歩調に合わせてたら、目的地まで何日かかるか分かんねえぞ!」 「うん……」  ガンチェリーは苦しい表情でうなずいた。彼の言うことは正しい。こうしている間にも妖怪《ようかい》たちはばたばたと死んでゆく。この愚《おろ》かしい戦いを一刻も早く終わらせるには、先に進むしかないのだ。  たとえ仲間を見殺しにしてでも。 「すまねえ、サヴェッジバイト!」  そう言いながら、ガンチェリーはバイクに変身したロードレイザーにまたがった。摩耶も慌《あわ》てて後部シートに座り、少女の細い腰《こし》に抱きつく。  ロードレイザーは豪快《ごうかい》な排気音《はいきおん》を轟《とどろ》かせ、ダッシュした。バイクは森の中の小道に突入《とつにゅう》し、たちまち見えなくなった。 「死なないでくださーい!」  振《ふ》り向いた摩耶の叫《さけ》び声が、ドップラー効果を起こしながら遠ざかってゆく。 「まだ死ぬかよ!」  サヴェッジバイトはそう不敵に言い放つと、向かってくる天使たちに向き直った。 「さあ、来やがれ、ザコども!」  北大西洋——  同日・同時刻—— 「 <ル・トリオンファン> 、なおブロー続けています」  敵潜の動向に耳を傾《かたむ》けているソナー室からの報告が発令所に響《ひび》く。 「どういうことだ……?」  アメリカ海軍攻撃型原潜シーウルフ級ネームシップSSN—21 <シーウルフ> の艦長アンドリュー・バドリス中佐は、不安な面持ちで首をひねった。最初、 <ル・トリオンファン> が深度を上げたのは、変温層の上に出てこちらのソナーを逃《のが》れるつもりかと思った。変温層は音波を反射する性質があるため、変温層をはさむと探知が困難になるからだ。それで <シーウルフ> も変温層の上に出たのだが、 <ル・トリオンファン> はなおも深度を上げ続けており、自分の位置を隠《かく》そうともしない。 「浮上《ふじょう》して投降する気でしょうか?」  副長のオスカー・ハーネス少佐が自信なさそうにささやく。 「そうであってくれればいいんだがな……」  バドリス中佐は心底からそう願っていた。 <ル・トリオンファン> には撃沈《げきちん》命令が出ているが、いくら反乱を起こした艦《かん》とはいえ、友軍を攻撃《こうげき》するのには抵抗《ていこう》がある。できれば抵抗せずに投降してくれれば、それに越したことはない。この艦の性能に勝てないことは、 <ル・トリオンファン> の艦長もよく知っているはずだ……。 「艦長、ブロー音に混じって妙《みょう》な音が聞こえます」  ソナー員が緊張《きんちょう》した声で伝えてきた。 「どんな音だ?」 「何かに注水しているような音です。さっきから二回も……あっ、また聞こえました。三回目です」 「魚雷《ぎょらい》発射管か?」  バドリス中佐は警戒した。魚雷を発射する前には、発射管に注水しなければならない。一か八か、攻撃をかけてくる気だろうか? 「いえ、似ていますが、少し違《ちが》います。二一インチ発射管に注水する音なら聞き慣れていますから……あっ、またです。四回目」 「いったい何をやってるんだ……?」  バドリスの胸に疑惑《ぎわく》が広がっていった。背筋に冷たいものが走る。まさか、そんなことは信じたくない……。 「またです。五回目!」 「艦長!」副長が蒼《あお》ざめた顔で叫《さけ》んだ。「 <ル・トリオンファン> に魚雷発射管は四門しかありません!」 「魚雷発射管じゃない……!」バドリスの疑惑は確信に変わった。「SLBM(潜水艦《せんすいかん》発射式|弾道《だんどう》ミサイル)だ!」  魚雷と同様、核《かく》ミサイルの発射管も発射前に注水しなければならない。さっきから <ル・トリオンファン> が頻繁《ひんぱん》にバラスト内に圧搾《あっさく》空気をブローしていたのは、浮上するためではなく、注水によって艦体が重くなるのでバランスを取るためだったのだ。 「魚雷室!」バドリスはマイクをひっつかんで怒鳴《どな》った。「一番から四番まで、ADCAPをスタンバイ! 命令がありしだい、ただちに発射せよ!」 「しかし、艦長……!」副長は泣きそうな顔をしていた。 「分かっている……」  バドリスは深い恐怖《きょうふ》と絶望を味わっていた。 <シーウルフ> に装備《そうび》されたMk48ADCAP魚雷は、最大射程三二キロ、五五ノット(時速一〇〇キロ)という猛《もう》スピードで水中を突《つ》き進み、目標を確実に破壊《はかい》する。しかし、その速力をもってしても、今の二艦の距離では、命中までに一五分以上かかってしまう。それまでに <ル・トリオンファン> は一六発のミサイルをすべて発射し終えているだろう。 「くそっ、なぜサブロックを退役させた!?」  バドリスは潜望鏡を叩《たた》いて悔《くや》しがった。サブロック——潜水艦発射式ロケット魚雷なら、ロケットモーターで空中を飛んで、ほんの数分で敵艦に命中させられたはずである。だが、あいにくアメリカ海軍は、八〇年代末に旧式になったサブロックをすべて退役させ、新型ロケット魚雷 <シーランス> の配備も中止した。だから <シーウルフ> にはロケット魚雷は一発も搭載《とうさい》されていない。  だが、バドリスは自分のその言葉からヒントを得た。 「そうだ! アクティブ・ピンを打て!」 「え? しかし……」 「この近くに <マハン> がいるはずだ! ピンを打ちまくって、 <ル・トリオンファン> の位置を知らせてやるんだ!  <マハン> のVLアスロックなら届くかもしれん!」 「ならいっそ、モールス信号を送りましょう」 「それがいい! すぐにやれ!」  ただちに <シーウルフ> の艦首《かんしゅ》のBQQ—6ソナーから、最大出力で探信音《ピン》が連打されはじめた。その音響《おんきょう》はすさまじく、一撃ごとに海水が揺《ゆ》さぶられ、ソナードームの周囲から気泡《きほう》が発生するほどだ。不運なのは艦の前にいた魚たちである。強烈《きょうれつ》な音波を浴びて気絶し、腹を上に向けて海面に浮《う》かび上がってゆく。  その大音響は二〇秒で <ル・トリオンファン> に命中し、艦体表面で反射して、明瞭《めいりょう》なメッセージを海中に轟《とどろ》かせた。 『ここに <ル・トリオンファン> 。すでにミサイル発射管に注水。ただちに撃沈せよ』  ニュー・エルサレム——  同日・午前〇時五四分(東部標準時)—— 「うわあっ!?」 「きゃあ!」  森の中の小道を疾走《しっそう》していたロードレイザーが、突然《とつぜん》、前につんのめるように転倒《てんとう》した。ガンチェリーと摩耶は勢いよく前方に放り出される。幸い、深い茂《しげ》みとふわふわした苔《こけ》に覆《おお》われた地面のおかげで、怪我《けが》はなくて済んだ。 「こんにゃろ!」  ガンチェリーは苔の上を転がりながら体勢を立て直し、斜《なな》め上方に向かって続けて三回、発砲《はっぽう》した。彼女たちに追いすがってきていた三人の天使が、シルバーバレルの弾丸《だんがん》を受けて派手に爆散《ばくさん》する。 「ロードレイザー!?」  ガンチェリーは慌《あわ》てて駆《か》け寄った。ロードレイザーは草むらに横たわって、上半身だけ人間の姿に戻《もど》り、身を震《ふる》わせて苦しんでいる。後輪に真横から天使の槍が突《つ》き刺《さ》さり、スポークをへし折っていた。胴《どう》からは黒いオイルも流れ出している。 「すまない。もう走れそうにない」 「分かった。ここで休んでろ」とガンチェリー。「この戦い、じきに終わらせるから」 「頼《たの》んだぞ」  ガンチェリーは摩耶の手を引き、後ろも見ずに走り出した——涙《なみだ》が出そうになるのを必死にこらえながら。  北大西洋——  同日・同時刻——  ハリケーン通過の影響で、海面にはまだ小雨が吹《ふ》きすさび、高さ一メートル近い波がうねっていた。アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦《くちくかん》DDG—72 <マハン> は、その悪天候をものともせず、深夜の海を突き進んでいる。 <シーウルフ> の発信したアクティブ・ピンとその反射波は、 <マハン> のソナーに明瞭に捉《とら》えられていた。原潜は今、 <マハン> の右舷《うげん》後方、二五キロの海中にいる。 「さっき遭遇《そうぐう》したロシアのヴィクター㈽級じゃないんだな?」  艦長のマイケル・スラデック中佐が、オペレーターの肩越《かたご》しに統合|戦闘《せんとう》システムのディスプレイを覗《のぞ》きこんだ。間違《まちが》って別の潜水艦を撃沈したらしゃれにならない。 「違います。ヴィクターは本艦のずっと左です。それに、この反射波からすると、 <シーウルフ> より三割はでかい—— <ル・トリオンファン> に間違いありません」 「VLアスロック、撃《う》てるか?」 「だめです。射程外です」  VLアスロックは、従来のアスロック(対潜ロケット短魚雷)をVL(垂直発射)方式に改良、性能を向上させたもので、射程距離も二倍近い一七キロまで伸《の》びている。それでも <ル・トリオンファン> には届かない。 「回頭、右一一〇度!」  スラデックの命令で、 <マハン> は大きく回頭しはじめた。 <ル・トリオンファン> に接近し、VLアスロックの射程に捉えようというのだ。  だが、この荒天《こうてん》では速力も制限される。一七キロ以内に近づくためには、まだ一〇分以上かかるのは確実だった。  ニュー・エルサレム——  同日・午前〇時五七分(東部標準時)—— 「何だ!?」  森の中の小道を走り抜《ぬ》け、広い場所に飛び出したとたん、ガンチェリーと摩耶は驚《おどろ》きのあまり立ちすくんだ。  そこは自然公園のような場所だった。広さはセントラルパークの何倍もありそうで、なだらかに起伏《きふく》した地面は、一面、不自然なほど鮮《あざ》やかな緑色の芝生《しばふ》に覆《おお》われている。白い東屋《あずまや》のような建物や、自然界にはありえない完全にシンメトリーな樹が、あちこちに立っていた。ゴミひとつ、枯葉一枚、虫の一|匹《ぴき》も見当たらない。CGで合成された映像のような、あまりにもわざとらしい風景だ。  二人の目の前には少年が歩いていた。  黒い髪《かみ》の白人で、歳《とし》は一四|歳《さい》かそこらだろう。ギリシャの哲人《てつじん》がまとっていたような白い衣を着ており、額にはヘブライ文字が書かれていた。その顔には幸福そうな笑みを浮かべており、小声で歌うようにつぶやいていた。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者。昔いまし、常にいまし、後に来られる方……」  少年は森の中から現われた少女たちに驚いた様子もなく、にこにこ笑いながら二人の前を通り過ぎていった。その眼《め》をちらりと覗《のぞ》きこんで、摩耶はぞっとなった。そこには知性のかけらさえも感じられなかった。  その少年だけではない。広い草原のあちこちに、年齢も人種も様々な少年が何百人もいて、草の上に座りこんだり、目的もなしにぶらぶら歩き回りながら、それぞれの国の言語で、神を称《たた》える言葉を繰り返しつぶやいているのだ。みんな額にヘブライ文字を記され、不自然なほど明るい笑顔を浮かべており、空で繰り広げられている死闘《しとう》にも、お互《たが》い同士にも、何の関心もない様子だった。  摩耶ははっとした。『黙示録《もくしろく》』の一節を思い出したのだ。 『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆《なげ》きも労苦もない……』 『もはや、呪《のろ》われるものは何一つない。神と小羊《こひつじ》の玉座が都にあって、神の僕《しもべ》たちは神を礼拝し、神を仰《あお》ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている……』  ここにいる子供たちは、ほんの一部にすぎない。このニュー・エルサレムには、おそらく半世紀間に誘拐《ゆうかい》された一〇万人近い少年が連れて来られているはずだ。みんな知性を破壊《はかい》され、肉欲を消され、悲しみや怒《いか》りといった否定的感情を奪《うば》われ、限りない幸福感を植えつけられている。家族から引き離《はな》されたことも、世界が滅《ほろ》び去ることも、彼らにはどうでもいいことだ。彼らにできるのはただ、微笑《ほほえ》みながら神を称えることだけ。  永遠にこの状態が続くのだ。 「ひでえ……」  さしもの気丈《きじょう》なガンチェリーも、動揺《どうよう》し、声が激《はげ》しく震《ふる》えていた。今にも泣き出してしまいそうだ。 「これじゃ……まるでゾンビじゃねえか……」  その時、頭上でばさばさという翼《つばさ》の音がした。はっとして振《ふ》り仰《あお》いだ二人は、数十枚の翼を持つ巨大《きょだい》な花のような天使が舞《ま》い降りてくるのを目にした。  メタトロンだ。  ガンチェリーは銃《じゅう》を向けたものの、発砲《はっぽう》をためらった。メタトロンは四人の天使を連れていたからだ。弾丸《だんがん》の残りは三発。五人を倒《たお》すのは無理だ。 「フリーズ!」  一か八か、彼女はメタトロンの頭に狙《ねら》いを定め、怒鳴《どな》った。あのでっかい奴《やつ》さえホールドアップさせられれば、どうにかなるかも……。  だが、メタトロンは動じる様子はない。襲《おそ》いかかろうとする部下たちを制し、空中にホバリングすると、冷たい目で摩耶を見下ろした。事には長さ四メートルはありそうな金色の細い槍《やり》を持っている。 「アザゼルの女か……」彼は摩耶に向かって言った。「奴はどこにいる?」  摩耶は質問に答えなかった。その代わり、どうしようもなく高ぶった感情を目の前の大天使にぶつけた。 「どうしてこんなひどいことをするの!? こんなの……こんなの、死よりもひどいわ! あの子たちは永遠に死ねない……天国にも行けないのよ!?」 「天国に行けない、だと?」メタトロンは嘲笑《ちょうしょう》した。「愚《おろ》かなことを! ここが天国なのだ!」 「フリーズ!」  ガンチェリーがまた叫んだが、二人には無視された。 「違《ちが》う!」摩耶は激しくかぶりを振った。「違う違う違う! こんなの天国じゃない! こんなのはただのまやかしよ! 牢獄《ろうごく》だわ!」 「いいや、ここが天国だ。お前たち人間が何千牢も夢《ゆめ》見てきた理想の世界なのだ!」  メタトロンはそう言うと、誇《ほこ》らしげに手を広げ、少年たちを指差した。 「見よ! あの子たちはみな幸福だ! ここには病気もなく、老いもなく、死もない。争いもなく、飢《う》えもなく、貧困もなく、身分や肌《はだ》の色による差別もない。働く必要はなく、ああやって永遠に遊んでいられる。悲しみもなく、憎《にく》しみもなく、恐怖《きょうふ》もない……まさにお前たちが望んだ通りではないか。これ以上、いったい何を望む?」  摩耶は反論できなかった。人間たちは確かに大昔からそれを望んでいた。神による完全統治。不老不死。永遠の幸福。労働からの解放。悲しみのない世界……それらの強烈《きょうれつ》な願望が集まって、このニュー・エルサレムを生み出したことは間違《まちが》いない。  まさに人間たちの夢見た世界。 「でも……違う!」彼女は泣きながら絶叫《ぜっきょう》した。「こんなのは違うわ!」 「違わない! 我々はお前たちの願望を叶《かな》えてやっているだけだ! 我々はお前たちが望んだからこそ存在するのだ!」 「おい、フリーズって言ってるだろ!」完全に無視され、ガンチェリーは苛立《いらだ》っていた。「ドタマ吹《ふ》っ飛ばされてえのか、てめえ!?」  その時、初めてメタトロンはガンチェリーを見た。下着姿で虚勢《きょせい》を張る少女の姿に、楽しそうに目を細める。 「フリーズ、だと?」 「うっ!?」少女の顔色が変わった。トリガーにかけた人差し指が、凍《こお》りついたように硬《かた》くなったのだ。見えない手につかまれたかのように、銃《じゅう》を支えていた左手が強い力でもぎ離《はな》され、細い腕《うで》が左右に押し広げられてゆく。爪先《つまさき》が地面から離れ、しなやかな身体《からだ》が宙に浮《う》かぶ。 「ちっ……くそ!」  ガンチェリーは苦悶《くもん》した。今や彼女は天使のサイコキネシスによって、両腕を水平に広げ、十字架《じゅうじか》上のキリストのようなポーズで、空中高く宙|吊《づ》りにされていた。銃はまだ右手に握《にぎ》り締《し》めているが、手が石のように硬くなってしまっており、どうにもならない。まだ濡《ぬ》れているTシャツが肌に貼《は》りついていて、幼い胸の形をあらわにしていた。 「女は穢《けが》れだ」メタトロンは冷たく言い放った。「女によって人間は堕落《だらく》する。だから、この楽園に女は必要ない……」 「ちくしょう! どうせだったらひと思いにやりやがれ!」ガンチェリーは空中で身悶《みもだ》えしながら叫んだ。「心臓をぶすっとやったらどうなんだ!?」 「……そうさせてもらおう」  メタトロンは事務的な口調で言うと、槍を持ち上げ、少女に狙いを定めた。ガンチェリーは覚悟を決め、青い眼をいっぱいに見開いて、最後の瞬間《しゅんかん》を待ち受けた。 「やめてーっ!!」  摩耶が絶叫したが、無駄《むだ》だった。  メタトロンの突き出した槍は、少女の左胸を正確に貫《つらぬ》いた。  北大西洋——  同日・同時刻—— <シーウルフ> の発したアクティブ・ピンによるモールス信号は、もちろん当の <ル・トリオンファン> の乗員にも聞こえていた。数十キロ離れていても、ハンマーで船体を叩《たた》くような音は聞き間違えようがない。 「悪あがきだな……」  バルジャベル艦長《かんちょう》は勝利を確信し、虚無《きょむ》的な笑みを浮かべた。シーウルフ級はすでに魚雷《ぎょらい》を発射しているかもしれないが、届くにはまだ一〇分やそこらはかかる。右舷《うげん》にいたアーレイ・バーク級が反転してくるのもキャッチしたが、距離は充分《じゅうぶん》に離れている。間に合いはしない。  無論、ミサイルを発射し終えた後、撃沈《げきちん》されることは覚悟している。シーウルフ級の魚雷にやられるか、それともアーレイ・バーク級のアスロックが飛んでくるか——いずれにせよ、命中率はきわめて高く、簡単に回避《かいひ》できるようなものではない。  だが、それでもかまわないのだ。死など恐《おそ》れない。与えられた使命を果たしさえすれば、神が天国に迎《むか》え入れてくださるのだから……。  無論、神の国には童貞《どうてい》の少年しか入れないことなど、バルジャベルは聞かされていなかった。 「海面の波高、一メートル弱」ソナー員が報告する。「発射に支障ありません」 「よし、一番発射」  バルジャベルは静かな声で命じた。 <ル・トリオンファン> の後部|甲板《かんぱん》では、すでにミサイル発射管のハッチが開放されていた。スイッチが押《お》されると、発射管の先端部の白いプラスチック製カバーを突き破り、最初のM45ミサイルが水中に飛び出した。全長一一メートル、白い鉛筆《えんぴつ》のような巨体《きょたい》は、小型ロケットの発する蒸気力によって母艦《ぼかん》から押し出され、海面に向かって上昇《じょうしょう》してゆく。  その円錐《えんすい》形の先端部に格納された六個の再|突入体《とつにゅうたい》には、一五〇キロトンの核弾頭《かくだんとう》が収められ、それぞれ別の攻撃目標がインプットされている。ニューヨークに二個、ワシントンに二個、フィラデルフィアとボルティモアに各一個——核弾頭が落下すれば、それらの都市は新たなヒロシマと化す。  しかもそれは最初の一発にすぎない。後にはまだ一五発のミサイルが発射の合図を待っているのだ。 [#改ページ]    15 結晶核  ニュー・エルサレム——  同日・午前一時(東部標準時)——  妖怪《ようかい》たちの軍は天使たちの防御陣《ぼうぎょじん》を打ち破り、ついにニュー・エルサレムの中心部、�神�の玉座にたどり着いた。 「あれが……」  初めて�神�を見た者は、驚《おどろ》きのあまりみな絶句した。前回の大戦に参加した古い神々も、当惑《とうわく》と驚愕《きょうがく》を隠《かく》せなかった。�神�は前回よりもはるかに大きく、はるかに力強い姿となって復活していたからだ。  玉座から立ち上がったその姿は、身長一〇〇メートル近くあろうかという巨人《きょじん》である。全身がまばゆい光に包まれているので、ディテールを見定めることは難しい。かろうじて分かるのは、白い衣をまとっていること、髪《かみ》が炎《ほのお》のように燃えてゆらめいていること、二つの眼がひときわ強烈《きょうれつ》にぎらぎらと輝《かがや》いていることだ。  その光のため、悪魔《あくま》や悪鬼《あっき》たちは近寄ることさえできず、遠巻きにして震《ふる》えているばかりだ。それでも、多くの神々が勇気を奮《ふる》い、雄叫《おたけ》びをあげて突進《とっしん》していった。  最初に突入《とつにゅう》したのほ新大陸の神々だった。ペルー北部のモチカ人の神アイ・アパエクは、顔は猫《ねこ》のようで牙《きば》があり、蛇《へび》の頭のイヤリング、ジャガー形の頭|飾《かざ》りをつけている。アステカ人の火の神シウテクトリは巨大《きょだい》な火柱だ。マヤの死の神アフ・プチは腐敗《ふはい》して膨張《ぼうちょう》した死体で、手には骸骨《がいこつ》をぶらさげている。同じくマヤの自殺の女神イシュタムは、首に縄《なわ》をかけられて吊《つ》るされた姿で宙に浮《う》いている。ハイチのヴードゥー神話の神ダムバラー・ウェドーや、アマゾンの女神ボイウナは、巨大な蛇の姿をしている。  だが、彼らは�神�の足元に到達《とうたつ》することさえできなかった。すさまじい火と硫黄《いおう》の雨が空から降り注いできたからだ。彼らは悲鳴を上げ、四散したが、逃《に》げ遅《おく》れた何体かの神は炎に包まれ、燃え尽《つ》きてしまった。  頭上から近づこうとする者もいた。雲に乗った仙人《せんにん》たちや箒《ほうき》にまたがった魔女《まじょ》たち。中国の龍《りゅう》族やアラビアの魔神。空気の精シルフや日本の天狗《てんぐ》たち。アルゼンチンの空飛ぶ生首チョンチョン。鳴蛇《めいだ》やアンフィスパイナといった空飛ぶ蛇。禺彊《ぐきょう》や※[#「禺+頁」、第3水準1-93-92]《ぎょう》、ハルピュイアといった人面鳥の群れ。鬼火《おにび》、つるべ火、しゃんしゃん火、ウィル・オ・ザ・ウィスプ……彼らは雲のような大群となって、上空から急降下し、�神�の頭にむらがっていった。  しかし、やはり彼らも�神�に触《ふ》れることはできなかった。轟音《ごうおん》とともに、何百という稲妻《いなずま》が空を走り、彼らを容赦《ようしゃ》なく撃《う》ち落としていったのだ。  その間に、蛇の姿をした神々や妖怪が、�神�の背後から忍《しの》び寄っていた。オーストラリアのカビ族の神で、半分魚で半分蛇のダーカーン。リトアニアの緑色の蛇ザルテュス。インドの人面の蛇族ナーガ。ソロモン諸島の女の霊《れい》力ハウシブワレ。北部オーストラリアのムルンギン族の「偉大《いだい》なる父なる蛇」ユルルングル……彼らは音もなく地を這《は》い、�神�の隙《すき》をついて、その踵《かかと》に牙を突き立てようとした。  だが、�神�の目をごまかすことはできない。彼らは猛烈《もうれつ》な雹《ひょう》の爆撃《ばくげき》を浴び、ずたずたに切り裂《さ》かれた肉片と化した。 「何という力だ!」  スレイプニールにまたがって上空を旋回《せんかい》しながら、さしものオーディンも戦慄《せんりつ》を覚えていた。傷を負わせるどころか、近寄ることさえできない。人間たちの神を信じる想《おも》いが強いことは知っていたが、これほど強大だったとは……。  接近戦は不利と見て、北欧《ほくおう》のトールや、フィリピンのカダクラン、東アフリカのウェレといった雷神《らいじん》たちが力を合わせ、空から強力な雷《かみなり》を次々に落とした。だが、それらは�神�を包みこむ光のヴェールに吸収《きゅうしゅう》され、何のダメージも及《およ》ぼさない。逆に強烈な電撃が空に向かって放たれ、トールを戦車から叩《たた》き落とした。  ようやくヒンドゥー神軍が到着した。妖怪たちは彼らに望みを託《たく》した。何倍というキリスト教徒やイスラム教徒の信念によって支えられた�神�。それを倒《たお》せる者があるとしたら、同じく何億という信奉者がいる仏教やヒンドゥー教の神々しかいない。  真っ先に突《つ》っこんでいったのはカーリーであった。たちまち全身に火の雨を浴びるが、それをものともせずに突進し、奇声《きせい》を発しながら四本の武器で�神�の脛《すね》に斬《き》りかかる。�神�の輝く衣の裾《すそ》が裂けるのが確かに見えた。�神�に対して初めて与えたダメージである。妖怪たちの間からどっと歓声が上がる。  だが、その歓声もすぐに潮《しお》が引くように小さくなっていった。急にカーリーの動きが鈍《にぶ》ってきたからだ。  彼女は苦しんでいた。美しい黒い肌《はだ》いっぱいに、醜《みにく》い腫瘍《しゅよう》が広がってゆく。�神�の呪《のろ》いを受け、恐ろしい病魔《びょうま》に感染してしまったのだ。全身から膿《うみ》と血を垂れ流し、激痛《げきつう》に苦しみながらも、彼女は戦うのをやめようとしなかった。四本の腕《うで》を死に物|狂《ぐる》いに振《ふ》り回し、�神�の脚に斬りつけるが、その動きにはスピードも優雅《ゆうが》さも失われていた。  妻の危機を目にして、シヴァが駆《か》けつけてきた。第三の目から死の光線を放ち、�神�の眼《め》を焼こうとする。だが、�神�の眼光はそれを受けつけなかった。逆にシヴァの腕が呪いをかけられ、石化しはじめる。  ヴィシュヌは戦輪《チャクラム》を投げつけた。スカンダも斬りかかった。アシュラやラクシャサたちもわらわらと�神�に群がってゆく。しかし、�神�はそれらの攻撃をことごとくはねのけた。逆に火の雨や氷の雨を降らせ、ヒンドゥーの神々に傷を負わせ、小妖怪たちを虐殺《ぎゃくさつ》していった。 �神�はまだ指一本動かしてはいない——そこにじっと立っているだけなのに、何千という妖怪、何百という神々は、有効なダメージを与えることができず、逆に一方的に焼かれ、切り裂かれ、腐《くさ》らされ、石化されてゆくのだ。  北大西洋——  同日・同時刻—— 「ミサイルです!」  双眼鏡《そうがんきょう》で前方を監視《かんし》していた士官が叫《さけ》んだ。 <マハン> のブリッジはどよめいた。慌《あわ》てて暗い窓《まど》の外を見たスラデック艦長の目にも、小雨の向こう、水平線から上昇《じょうしょう》してゆくマッチの火のようなものがはっきりと見えた。 「 <スタンダード> 撃《う》て!」  スラデックの命令で、艦対空《かんたいくう》ミサイルRIM—67 <スタンダード> が発射された。上昇してゆくM45ミサイルを追尾し、撃墜《げきつい》しようというのだ。  だが、もともと <スタンダード> は海面近くをこちらに向かって飛んでくるミサイルを迎撃《げいげき》するために開発されたもので、上昇性能はM45に劣《おと》る。最初の一分でどうにか数キロまで接近できたものの、じきにM45の速度の方が上回った。M45は迎撃ミサイルをぐんぐん引き離《はな》し、厚く垂れこめた雲の上、手の届かない高みへと消えてゆく。 「もっと近づかなければだめだ!」  スラデック艦長はヒステリックに叫んだ。まだミサイルは一五発残っている。これ以上、一発も取り逃《に》がすわけにはいかない。 「艦長、あのう……」  窓の外を見ていた士官が、双眼鏡から眼を離し、当惑した表情で振り返った。 「何だ?」 「あのう、発射地点の近くに、燃えている帆船《はんせん》のようなものが見えるのですが……錯覚《さっかく》でしょうか?」  錯覚ではなかった。その船は確かにそこに実在していた。ただ、 <マハン> のレーダーに映っていなかっただけだ。  幽霊船《ゆうれいせん》 <パラタイン> 号——伝説によれば、この船はオランダの移民船で、一七五二年に大西洋を横断してアメリカに向かったが、途中で暴風雨に見舞《みま》われて船長が死亡、乗員たちは反乱を起こし、乗客を置き去りにして救命ポートで脱出した。操る者もなく漂流《ひょうりゅう》を続けた <パラタイン> 号は、ロードアイランド州のブロック島に漂着したが、そこで島民と衝突《しょうとつ》が起きた。島民は乗員を虐殺し、船に火をつけた。再び沖に漂《ただよ》い出た <パラタイン> 号は、不運な乗客を乗せたまま、今もごうごうと燃え続け、北米大陸の沿岸をさまよっているという。  無論、伝説がどこまで真実かは誰《だれ》も知らない。本当に <パラタイン> 号という船が実在したのかどうかも。だが、その伝説を信じた人々の想《おも》いによって、 <パラタイン> 号は実際に現われた。この船が激《はげ》しく燃えながら嵐《あらし》の海を漂っている姿は、この二世紀の間、多くの船乗りに目撃《もくげき》されている。  M45が海面から飛び出す瞬間《しゅんかん》は、その甲板《かんぱん》上にいた者たちも目にしていた。 「やりやがったな!」  小雨が吹《ふ》きつける中、手すりから身を乗り出し、鴉天狗《からすてんぐ》の八環|秀志《ひでし》は叫《さけ》んだ。彼はヨーロッパのネットワークのコネで、 <ル・トリオンファン> 捜索《そうさく》のために、この <パラタイン> 号に乗りこんでいたのだ。船内には探知能力や遠隔透視《えんかくとうし》能力に優れた妖怪《ようかい》が何|匹《びき》もいて、行方《ゆくえ》をくらませた潜水艦《せんすいかん》を追跡《ついせき》していた。  ようやく位置を捕捉《ほそく》したのは一時間前。だが、深度二〇〇メートルを航行《こうこう》していたため、攻撃《こうげき》する手段がなかった。さすがに二〇気圧下を一五ノットで泳げる妖怪はそんなに多くない。それで <ル・トリオンファン> が深度を上げるのを待っていたのだ。  だが、ほんのちょっとの差で、正確な位置を読みそこなった。最初の一発の発射を阻止《そし》できなかったのだ。 「行くぞ、未亜子!」  八環はそう言って上着を脱《ぬ》ぎ捨てると、背中から翼《つばさ》を広げた。燃えている帆《ほ》で焼かれないように注意しつつ空に舞《ま》い上がり、ミサイルが飛び出したあたりに向かう。やはり船に乗りこんでいた嵐の魔女《まじょ》テンペスタリーも後に続いた。上昇してゆくミサイルには追いつけないが、次の発射を阻止することはできるかもしれない。  彼のパートナーの九鬼《くき》未亜子も、濡《ぬ》れ女——長い髪《かみ》を持つ半人|半蛇《はんじゃ》の妖怪に変身し、海に飛びこんでいた。フランスの水の精モルガン、スコットランドのシェリーコートも、続いて海に飛びこんだ。まだ <シーウルフ> がアクティブ・ピンを発信し続けているので、水中には騒音《そうおん》が満ちあふれている。  海面が大きく盛《も》り上がり、二発目のミサイルが頭を出した。水中用の小型ロケットモーターから、空中用の固体ロケットブースターに切り替《か》わり、派手な水柱を上げて一気に飛び上がろうとする。  そこに八環とテンペスタリーが力を合わせ、秒速数十メートルの突風《とっぷう》を吹きつけた。バランスを崩《くず》したミサイルは転倒《てんとう》した。海面をモーターボートのように滑《すべ》り、大波に乗り上げて何度もジャンプしたあげく、ブースターが爆発《ばくはつ》して火の玉と化した。  数十秒後、三発目が飛び出してきた。これも八環たちはうまく転倒させることができた。だが、うまくやりすぎた。ミサイルは噴射《ふんしゃ》ガスをネズミ花火のように振《ふ》りまきながら、空中で二七〇度のとんぼ返りを打ち、尾部から海面に叩《たた》きつけられ、爆発したのである。 「うわっ!?」  至近距離《しきんきょり》で爆風《ばくふう》を浴び、八環は吹《ふ》き飛ばされた。くるくる回転しながら海面に叩きつけられる。テンペスタリーはもっと悲惨《ひさん》だった。高温の噴射ガスをまともに浴び、全身に重度の火傷《やけど》を負ってしまったのだ。 「ちくしょう!」  八環は海面から顔を出し、肩《かた》を押《お》さえてうめいた。右の軍を折ってしまった。これではもう風は起こせない。 「未亜子、頼《たの》んだぞ!」  その頃、未亜子やモルガンたちはようやく海面下四〇メートルの <ル・トリオンファン> に取りついていた。だが、頑丈《がんじょう》な耐圧船殻《たいあつせんかく》に彼女たちの妖術《ようじゅつ》が通用するとは思えない。その代わり、まだ発射されていないミサイル発射管のプラスチック製カバーを切り裂《さ》き、中に水中用爆薬を投げこんだ。タイマーは二〇秒。爆発に巻きこまれないよう、急いで退避《たいひ》する。  四発目が発射される直前、隣《となり》の発射管の中で爆発が起きた。ロケットエンジンが誘爆《ゆうばく》し、 <ル・トリオンファン> に激しい衝撃《しょうげき》が走った。 「何だ!?」バルジャベル中佐は手すりにしがみついて叫んだ。 「誤爆《ごばく》のようです! 六番発射管が損傷!」 「ダメージを調べろ!」  兵装《へいそう》関係のディスプレイにダメージが表示される。三六時間の勤務で疲労《ひろう》の蓄積《ちくせき》している士官が、眼《め》をこすりながらそれをチェックする間、致命《ちめい》的な二分が費やされた。  ニュー・エルサレム——  同日・午前一時三分(東部標準時)—— 「アリッサ……」  摩耶は茫然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。そんなことはありえない。こんな不条理なことが現実にあっていいはずがない……。  ガンチェリーは槍《やり》で左胸を貫《つらぬ》かれ、地面に串刺《くしざ》しにされていた。Tシャツに血がにじみ、愛らしい口許《くちもと》からも血を流している。エイプリルブルーの眼は見開かれたままだ。銃《じゅう》はまだ手の中にあるが、細い腕《うで》はぐったりと地面に投げ出されていた。  近寄って脈を取ってみるまでもない。人間が心臓を貫かれて生きていられるはずがない。そして、死んだ人間はもはや生き返ることはない。  神の奇跡《きせき》でもないかぎり。 「ああ……!」  摩耶の胸の中で、熱いものが膨《ふく》れ上がった。友人を失った悲しみ、彼女を救えなかったことへの後悔《こうかい》、天使たちに対する恨《うら》み、残酷《ざんこく》な運命に対する怒《いか》り……それらが入り混じり、もはや分類すら不可能な感情となって渦《うず》を巻く。それは安全弁の壊《こわ》れたボイラーのように、急速に圧力を高めていった。  そして、ついにそれは限界点を超《こ》え、噴出《ふんしゅつ》した。 「うわあああああああああ〜!!」摩耶は空に向かって絶叫《ぜっきょう》した。「こんちくしょう!!」  その瞬間、黒い影が彼女の周囲で爆発した。性的欲求不満などとは比べものにならない強い感情が、彼女の中に眠《ねむ》る夢魔《むま》を呼び覚ましたのだ。  一瞬にして夢魔の装甲《そうこう》をまとった摩耶は、弾丸《だんがん》のように飛翔《ひしょう》し、メタトロンに向かって突《つ》っこんでいった。  メタトロンを守ろうと、一人の天使が立ちはだかる。摩耶はそいつに体当たりし、はじき飛ばした。別の天使が横から襲《おそ》いかかってくる。摩耶は突き出された槍をかわし、逆にもぎ取って、そいつの腹を突き刺した。他の二人の天使も飛びかかってきた。彼女はそいつらを相手に空中戦を繰り広げた。槍を振り回し、悪鬼《あっき》のように戦った。天使たちの顔面に怒りのパンチを叩きこみ、白い翼をずたずたに引き裂いた。  四人のうち三人まで倒したが、それが限界だった。ついに衝撃波の直撃を受け、地面に叩きっけられた。起き上がろうとしたとたん、左右の地面が盛り上がり、巨大《きょだい》な怪物《かいぶつ》の顎《あご》となって彼女をくわえこんだ。無生物を生物に変えるメタトロンの妖術だ。 「くだらん余興だったな」メタトロンは嘲笑《ちょうしょう》した。「だが、これで終わりだ」  彼が念をこめると、土から生まれた怪物はゆっくりと顎を閉じはじめた。 「あああああーっ!!」  全身を見舞《みま》う激痛に、摩耶は苦悶《くもん》し、絶叫した。夢魔の怪力《かいりき》をもってしても、怪物の顎の力に対抗《たいこう》できない。なすすべもなく、プレス機にかけられたガラクタのように押《お》し漬《つぶ》されてゆく。あと数秒で全身の骨が砕《くだ》けるだろう。もはやこれまでか……。  その時。  銃声《じゅうせい》が轟《とどろ》いた。 「ぐわっ!?」  メタトロンは悲鳴を上げ、空中でのたうち回った。左腕が肩から吹き飛び、噴水《ふんすい》のように血が噴出していた。翼にも大きな穴が開いている。精神集中が途切《とぎ》れたため、土から生まれた怪物は土に戻《もど》り、解放された摩耶はどさっと地面に落下した。  数秒の間、何が起きたのか、誰《だれ》にも分からなかった。摩耶にも、メタトロンにも、彼の部下の天使にも——なぜなら、それはあまりにも常識を超えたこと、絶対に起きるはずがないことだったからだ。 「一度だけ……改心のチャンスをやる」  槍で地面に串刺しにされた状態のまま、硝煙《しょうえん》を上げている妖銃《ようじゅう》シルバーバレルを手に、ガンチェリーは不敵に微笑《ほほえ》んでいた。 「二度はやらねえ」 「ミスターW! ミスターW! だいじょうぶですかあ!」  マゴニアの船の甲板《かんばん》上。舷側《げんそく》から地上を見下ろしながら、ジャムは懸命《けんめい》に通信機のマイクに呼びかけていた。  幽霊《ゆうれい》飛行船は森に突《つ》っこみ、前のめりになって擱坐《かくざ》していた。幸い、それほど大きな損傷は見られない。シャドーキックとパワーフェアリーが力を合わせて、気嚢《きのう》に突《つ》き刺《さ》さった枝を引き抜《ぬ》き、応急修理をしている。 <ああ……だいじょうぶだ> 通信機からは少し苦しそうなミスターWの声が聞こえた。 <かなりひどくやられたが、どうにか再|浮上《ふじょう》できそうだ> 「良かった!」ジャムは安堵《あんど》した。「サヴェッジバイトとロードレイザーも無事です。かなり負傷していましたが、さっき収容しました」 <ガンチェリーとマヤは?> 「まだ分かりません。フェザーが探してます」 <私はいい。急いで目的地に向かうんだ。彼女たちもそこに向かっているはずだ。我々の希望は、あの二人だけなのだから> 「はい、そうですね!」  ジャムは元気よく答えると、振《ふ》り返ってマゴニアの船の船員たちに告げた。 「�神�の玉座に向かうわよ! 急いで!」 「さあ、どうする?」口から血を流しながら、ガンチェリーは苦しそうな声で言った。「神様の前で悔《く》い改めるなら、見逃《のが》してやってもいいぜ……もちろん、本物の神様に、だけどな」 「そんな……!」 「馬鹿《ばか》な……!」  摩耶とメタトロンは同時に同じ感想を口にした。そんなはずはない。どう見てもガンチェリーは左胸を貫《つらぬ》かれている。それなのに、生きていられるはずがない……。 「貴様、人間ではないのか!?」 「あいにく、オレは混じりっ気なしの人間さ」 「なら、どうして……!?」 「さあ?」少女はいたずらっぼく微笑んだ。「奇跡《きせき》ってやつじゃねえの?」 「そんな……そんなことはありえない!」メタトロンは狼狽《ろうばい》していた。「奇跡などというものがあるはずが……」 「はっ! 語るに落ちるってやつだな」  少女に笑われ、メタトロンは真っ青な顔で口をつぐんだ。確かに、神の奇跡を否定するということは、神の実在を否定すること——自分が仕えている存在が、本当は神などではないことを自白しているに等しい。 「こいつ!」  メタトロンの部下が激昂《げっこう》して、ガンチェリーに槍《やり》を放とうとする。摩耶はそいつに体当たりした。地面に押《お》さえこみ、パンチの乱打を浴びせかけて沈黙《ちんもく》させる。ガンチェリーはメタトロンの頭に照準を合わせたままだ。 「さあ、どうするよ、天使様?」  少女に挑発《ちょうはつ》されても、メタトロンは動けなかった。彼はこれまでの生で一度も味わったことのない強烈《きょうれつ》な感情——心底からの恐怖《きょうふ》を味わっていた。彼は常に恐怖をもたらす側であり、人間たちに恐怖心を抱いたことなど一度もない。だが今は、たった一人の生身の少女の存在が、大天使を死ぬほどおびえさせていた。  本当に神は存在するのか——我々の主である�神�ではない、本当の神が?  地球上空・高度一〇〇〇キロ——  同日・同時刻—— 「上がってきたぞ!」  スコープを覗《のぞ》きこんでいたノエルが叫《さけ》んだ。厚い雲に覆《おお》われた北大西洋の一画から、小さな火の矢が上昇《じょうしょう》してくるのが見えたのだ。 「まずいな。予想よりもかなり東だ。すでに第二段に点火している」彼はスコープから顔を上げた。「捕捉《ほそく》できるか?」 「やってみるさ!」  そう言ってパイロットは操縦装置のキーを叩いた。  バミューダ上空の宇宙空間で待機していたアダムスキー型UFOは、ゴムではじかれたようにダッシュした。一〇G以上の高加速だが、人間の航空機やロケットと違《ちが》い、内部の乗員にGはかからない。  ノエルはただちにミサイルの発射地点の座標を無線で他のUFOに知らせた。連絡を受けた一七機のUFOが、それぞれの待機ポイントからいっせいに移動をはじめた。スペース・ブラザーのものだけではない。宿敵であるグレイのUFOをはじめ、ボロネジ・エイリアン、フラットウッズ・モンスター、パスカグーラ・モンスターなど、何種類もの宇宙人|妖怪《ようかい》による混成部隊である。彼らにとっても、地球が破滅《はめつ》するのは好ましいことではないのだ。  どのUFOもビーム砲《ほう》を装備《そうび》しているが、問題は相対速度である。のんびりとミサイルにスピードを合わせている余裕《よゆう》はない。秒速何キロという相対速度で交差しながら攻撃《こうげき》することになるのだが、UFOのビームの射程|距離《きょり》はきわめて短く、数百メートルまで接近しないと効果がないのだ。すなわち、コンマ何秒という絶妙《ぜつみょう》のタイミングで発射しなければならず、まさに神業《かみわざ》が要求される。命中の確率はきわめて小さい。 「第二段が燃え尽《つ》きた」  ノエルはうなった。今、地球のこちら側は夜なので、ミサイルに太陽の光が反射しない。ロケット噴射《ふんしゃ》が停止すると、可視光線では見えなくなってしまうのだ。スコープを赤外線に切り替《か》える一方、レーダーにも目をやる。  レーダー・スクリーンの中で、光点がいくつにも分裂《ぶんれつ》しはじめた。 「ポスト・ブースト段階に入ったぞ」とノエル。「再|突入体《とつにゅうたい》を投射しはじめた。二個……三個……五個……七個……ああ、だめだ、多すぎる!」 「デコイ(囮《おとり》)を見分けられないか?」 「無理だ」  ノエルはかぶりを振《ふ》った。発射されているのはすべて核弾頭《かくだんとう》ではない。薄《うす》いアルミ箔《はく》で作られたデコイも多数混じっている。空気|抵抗《ていこう》のない宇宙空間では、軽いデコイも本物の再突入体と同じように放物線を描《えが》いて飛んでゆく。遠距離から見分けるのは困難だ。 「こうなったら、すべて撃《う》ち落とすしかない!」  絶望的な決意を胸に、ノエルたちは上昇《じょうしょう》を続ける弾頭の群れに迫《せま》っていった。  ニュー・エルサレム——  同日・午前一時五分(東部標準時)——  突然《とつぜん》、電光がメタトロンの翼を打った。振り返った摩耶は、森の向こうから流とアザゼルが飛んでくるのを見た。つきまとっていた天使たちをようやく一掃《いっそう》し、摩耶たちを助けに駆《か》けつけて来たのだ。 「くっ!」  メタトロンは反転し、逃走《とうそう》に移った。肩《かた》からはまだ血が噴《ふ》き出し続けている。この深手でアザゼルと戦うのは無理だ。 「ふう……」  緊張《きんちょう》から解放され、ガンチェリーは銃口《じゅうこう》を下ろした。実のところ、相手を脅《おど》したはいいが、本気で向かって来られたらどうしようかと思っていたのだ。強気を装《よそお》ってはいたが、胸の激痛《げきつう》のせいで視界はかすみ、今にも気を失いそうだった。一発目も本当は頭を狙《ねら》ったのに、腕《うで》に命中してしまった。二発目をうまく当てられた自信はない。 「だいじょうぶか!?」  アザゼルはさっと舞《ま》い降りてくると、人間の姿になり、ガンチェリーの傍《そば》に膝《ひざ》をついた。 「ああ、平気さ……急所ははずしてる[#「急所ははずしてる」に傍点]から」  胸を貫《つらぬ》かれているというのに、彼女にはまだ冗談《じょうだん》を言う余裕があった。 「まったく、無茶をする」アザゼルはあきれた。「こんな戦い方をしていたら、生命《いのち》がいくつあっても足りんぞ」 「だいじょうぶ。まだ死なねえさ。帰って録画してある『オズの魔法使い』見なくちゃ……うわおぐわあああ〜っ!」  ガンチェリーはすさまじい悲鳴を上げ、のたうち回った。アザゼルが乱暴に槍《やり》を引き抜《ぬ》いたのだ。普通の人間なら失神してもおかしくないはどの激痛だが、彼女は人並《ひとな》みはずれた意志力で、かろうじてそれに耐《た》えた。  アザゼルはすぐに少女の胸と背中に手を当て、傷を治療《ちりょう》しはじめた。  北大西洋——  同日・同時刻—— 「くそ、まだか! まだ届かんのか!?」 <マハン> のブリッジでは、スラデック艦長《かんちょう》が歯ぎしりしながら前方を見つめていた。海面上での爆発《ばくはつ》を二度確認している。どうやらミサイルが高波のために転倒《てんとう》したようだが、次もそんな幸運が訪れるとは限らない。一刻も早く、VLアスロックでしとめなくてはならないのだが、射程|圏《けん》に入るにはまだ何分もかかる……。  その時、レーダー員が叫《さけ》んだ。 「艦長、本艦後方より、ミサイルが二発! 接近してきます!」 「後方だと!?」  スラデックは驚《おどろ》いた。レーダー・スクリーンには、後方から急速に接近してくる二個の光点が表示されている。敵がもう一|隻《せき》いたというのか? 「 <シースパロー> 、撃《う》てるか!?」 「いえ、違います! 目標は本艦ではなく、本艦を飛び越《こ》えて前方へ……」 「艦長!」ソナー員零歓声を上げた。「本艦の後方にヴィクター級が!」  スラデックは窓《まど》に駆《か》け寄り、ガラスに頬《ほお》を押《お》しつけるようにして夜空を見上げた。鮮やかなオレンジ色の尾を引く流星が二つ、垂れこめた雲に見え隠《かく》れしながら、 <マハン> の上を飛び越えてゆくところだった。暗い空をまっすぐに飛翔《ひしょう》し、 <ル・トリオンファン> がいるはずの海域に向かってゆく。  ロシア製のロケット魚雷《ぎょらい》SS—N—16 <スタリオン> ——ロシア名は <ヴォドポッド> 。その射程距離はVLアスロックをはるかに上回り、四七キロもある。 「頼《たの》む! 当たれ!」  スラデックは拳《こぶし》を窓枠《まどわく》に叩《たた》きつけ、神に祈った[#「神に祈った」に傍点]。 「だいじょうぶ、秀志?」  浮上《ふじょう》した未亜子は、傷を負った八環を抱《かか》え、 <パラタイン> 号に泳いで戻《もど》る途中《とちゅう》だった。 「だいじょうぶじゃねえよ」八環は傷の痛みに耐えながらぼやいた。「核《かく》ミサイルを落とした鴉天狗《からすてんぐ》なんて、俺《おれ》が最初で最後だぞ……」 「ねえ、何か来るわ!」  モルガンが叫び、夜空を指差した。黒い物体が二つ、隕石《いんせき》のように落下してきたかと思うと、ばっとパラシュートを開いて減速した。海面に近づいたところで、先端部の魚雷を切り離《はな》す。・二本の魚雷はまっすぐに海に突入《とつにゅう》し、水柱を上げた。 「やばい! ありゃ核魚雷だぞ!」八環はあせった。「退避《たいひ》しろ! 早く!」  海中の <ル・トリオンファン> の中では、ようやくダメージのチェック作業が終了しようとしていた。 「四番、反応ありません。断線したようです。五番、七番、八番も……」 「九番以降は?」 「どうにか使えそうです」  その時、乗員たちは異変に気づいた。ずっと続いていた <シーウルフ> からのアクティブ・ピンに重なって、別のアクティブ・ピンが聞こえてきたのだ。それも二つのピンが微妙《びみょう》な時差で重なっている。 「右舷《うげん》より魚雷二本!」ソナー員が悲鳴を上げた。「あと一五秒で衝突」 <スタリオン> から切り離された二本の魚雷が、アクティブ・ソナーで正確に <ル・トリオンファン> の位置を探知し、その横腹めがけてまっすぐに突進してくるのだ。この距離では回避するすべもない。  バルジャベルは叫んだ。「九番発射!」  九番発射管のカバーを突《つ》き破り、M45が飛び出してきた。まさにその瞬間《しゅんかん》、一発目の魚雷が <ル・トリオンファン> の側面に衝突し、爆発した。核弾頭《かくだんとう》ではなかったものの、高性能爆薬の爆発は外殻《がいかく》を打ち破り、メイン・バラスト・タンクに大穴を開けるのに充分《じゅうぶん》だった。  衝撃が艦全体を揺《ゆ》さぶった。開いていたミサイル発射口のハッチが勢いよく倒《たお》れ、飛び出しかけていたM45の尾部を打った。ロケットモーターを損傷したM45は、海中には飛び出したものの、海面までたどり着くパワーを失い、後ろ向きにずぶずぶと沈《しず》んでいった。 「まだだ!」傾《かたむ》いてゆく発令所の中で、バルジャベルは潜望鏡《せんぼうきょう》にしがみついて絶叫《ぜっきょう》した。「あと一発……せめてあと一発を……!」  その瞬間、二発目の魚雷が命中した。発電機室が破壊《はかい》され、艦内は真っ暗になった。  浸水《しんすい》した <ル・トリオンファン> は、右に九〇度傾き、ゆっくりと沈下《ちんか》しはじめた。たとえ電力が回復しても、もはやミサイルの発射は不可能である。浮力《ふりょく》を失った一万四〇〇〇トンの巨体《きょたい》はなすすべもなく、四〇〇〇メートルの暗黒の深海めがけて落下していった。  ニュー・エルサレム——  同日・午前一時九分(東部標準時)——  直径二センチはあったガンチェリーの胸と背中の傷は、アザゼルの妖術《ようじゅつ》によって完全にふさがった。傷跡《きずあと》がピンク色に盛《も》り上がっているが、じきに治るだろう。 「気分はどうだ?」 「おお、いい感じだぜ」  ガンチェリーは立ち上がり、ぴょんぴょんと飛び跳《は》ねた。痛みもすっかり消えている。 「心配させないでよ」摩耶は安堵《あんど》のため息をついた。「もし、あいつの狙《ねら》いがちょっとでもそれてたら……」 「いやあ、オレも冷や汗《あせ》もんだったけどさ。でもオレ、昔っから悪運だけは強いんだよな」  実際、運が良かったのだ。メタトロンがあれほど狼狽《ろうばい》していなければ、透視能力を使って、トリックを見破っていただろう。 「悪運にも限度があるわよ」 「分かってる。たぶんさっきので、今日の分の悪運、使い果たしたな」彼女はアザゼルに向き直った。「で、戦況《せんきょう》はどうなってんだ?」 「かなり悪い」アザゼルの表情は暗かった。「�神�は予想以上に手強《てごわ》い。ヒンドゥーの神々も歯が立たないようだ」 「じゃあ……」 「そうだ。君たちだけが頼《たよ》りだ」  ガンチェリーと摩耶は顔を見合わせ、無言でうなずき合った。戦いを終わらせる手段は、もうたったひとつしか残っていない。一刻も早く、�神�の玉座にたどり着かなければ……。 「私、自分で飛んで行きますから」  そう言うと、摩耶は夢魔《むま》の装甲《そうこう》をまとい、空に舞《ま》い上がった。アザゼルもそれを追って飛び上がる。 「ほら、ぼんやりしない!」  ガンチェリーは流を小突《こづ》いた。 「えっ、俺《おれ》!?」 「そう! さっさとオレを乗せな!」  地球上空——  同日・同時刻——  ばら撒《ま》かれた六個の再突入体と十数個のデコイは、放物線状の軌道《きどう》の頂点を過ぎ、東海岸めがけて落下しつつ あった。一七機のUFOは次々とそれらに襲《おそ》いかかり、すれ違《ちが》いざまにピームを放つ。SF映画と違って、真空中ではビームが光って見えることはない。レーザーの光条が見えるのは、空気中の埃《ほこり》や微粒子《びりゅうし》によって乱反射するからだ。  もちろん、命中しても爆発音《ばくはつおん》など聞こえない。デコイならば一瞬《いっしゅん》だけ赤く光り、蒸発する。本物ならばもっと明るく、長く光る。命中したかどうかは、その輝《かがや》さでしか分からない。秒速数キロという猛《もう》スピードで展開されているにもかかわらず、恐《おそ》ろしいほど静かな戦いだ。  一発でもビームを命中させられれば、弾頭の起爆装置《きばくそうち》を溶《と》かし、機能を停止させることができる。しかし、攻撃《こうげき》はなかなか命中しないし、命中してもデコイであることが多い。一〇G以上の高加速をもってしても、いったんすれ違《ちが》ったら、Uターンするのに何十秒もかかってしまう。撃《う》ち損じた目標を再び捕捉《ほそく》できる可能性は少ない。  それでも彼らは必死に戦い続けた。  ニュー・エルサレム——  同日・午前一時一三分(東部標準時)——  空を飛翔《ひしょう》し、�神�の玉座に向かう途中《とちゅう》、摩耶たちは同じ方向に飛んでいたマゴニアの船と合流した。その周囲には十数人のシルフが飛び、風を起こして船を押《お》している。 「おーい、摩耶ちゃーん!」  甲板《かんばん》の上でかなたが手を振《ふ》っていた。蔦矢や大樹、聖良や湧の姿も見える。みんな多かれ少なかれ負傷したが、まだ生きている。 (良かった!)  胸の中に希望が満ちあふれるのを、摩耶は感じた。神はまだ私たちをお見捨てになってはいない。最後の最後まであきらめずに戦いつづけろと教えておられる。  その希望こそ、今となっては最後の武器だ。 (もうこれ以上、誰《だれ》も死なせない!)  摩耶は強く決意した。  だが、�神�の玉座にたどり着く前に、まだ障害が待ち受けていた。部下の天使たちと合流したメタトロンが、アザゼルを食い止めるため、防衛ラインを引いていたのだ。何百という天使たちが空中に縦横に展開し、網《あみ》を張っている。 「面倒《めんどう》だな……」  摩耶と並《なら》んで飛びながら、アザゼルは一四の口で舌打ちした。迂回《うかい》していては時間がかかる。 「何かお困り?」  振《ふ》り返ると、後方からグレモリーが追いすがってくるところだった。まだ生き残っていた悪魔《あくま》の軍を引き連れ、マルコシアスにまたがって宙を駆《か》けている。 「いいところに来た」とアザゼル。「急用があるんだ。あれを突破《とっぱ》して先に進みたい。手伝ってくれるか?」 「手伝ってくれるか、ですって?」グレモリーは笑った。「あんたからそんな殊勝《しゅしょう》な言葉、初めて聞いたわ!」  そう言うなり、彼女はマルコシアスを加速させ、アザゼルの前に出た。「いやっほう!」と叫びながらAKMを乱射する。マルコシアスも翼《つばさ》から火の矢を放った。部下の悪魔たちも遅《おく》れてはならじと突入《とつにゅう》してゆく。  たちまち天使たちの防衛線の中央部が崩《くず》れた。その中に、アザゼルと摩耶、それに流にまたがったガンチェリーが突入する。 「行かせはせん!」  メタトロンが翼を大きく広げ、立ちはだかった。アザゼルは回避《かいひ》しない。一直線にメタトロンにぶつかり、七本の首でからみついた。 「行け! 摩耶!」  アザゼルは怒鳴《どな》った。摩耶は全速力で飛び、メタトロンを押《お》さえこんでいるアザゼルの横をすり抜《ぬ》けた。前方に見える輝く巨人めがけて直進してゆく。流とガンチェリーもそれに続いた。少し遅れて、シルフによって加速されたマゴニアの船も、対空砲火《ほうか》を放ちながら天使たちの間をかいくぐってゆく。 「きさまら、何をする気だ!?」アザゼルを振りほどこうと懸命《けんめい》にもがきながら、メタトロンは叫《さけ》んだ。「あの人間の娘たちは……いったい!?」 「ただの人間の娘さ! ただの人間だからこそ、�神�を倒《たお》せるんだ!」  そう言いながら、アザゼルは全身を灼熱《しゃくねつ》させた。このままメタトロンを焼き尽《つ》くすつもりだ。炎《ほのお》に包まれ、身をよじりながら、メタトロンは悲痛な叫びを上げた。 「馬鹿《ばか》な!……生身の人間が……たった二人で何ができる!?」 「それができるんだよ」 「何!?」  アザゼルは一四の口でにやりと笑った。「過冷却《かれいきゃく》って知ってるか?」  数キロ前方、すでにそそり立つ�神�の姿が見えていた。まだヒンドゥーの神々や妖怪《ようかい》たちが果敢《かかん》に戦い続けている。それを目にすると、ジャムは船倉に駆け下りていった。今こそ作戦を発動すべき時だ。  マゴニアの船の広い船倉には、ほとんど人の入りこむスペースもないぐらい、ぎっしりと機械が詰《つ》めこまれていた。コイル、コンデンサ、変圧器、そして発電機——モントークの地下|施設《しせつ》にあったテスラ・ジェネレーターをそっくり運んできたのだ。 「頼《たの》むわよ!」  ジャムはそう言って、ナイフスイッチを力いっぱい押し上げた。装置《そうち》のランプが点灯する。  ぶん……。  低いハム音とともに、テスラ・ジェネレーターが震《ふる》えはじめた。ジャムはダイヤルを片っ端《ぱし》から回し、装置の出力を上げていった。たちまちメーターの針がレッドゾーンにまで跳《は》ね上がり、ぱちぱちと音を立てて静電気が発生した。  あの地下施設の中では、これで妖怪が発生したのだ。だが今、この船の上で新たな妖怪が出現する可能性はない。この船には妖怪しか乗っていないからだ。なぜかは不明だが、古今《ここん》東西、妖怪の想《おも》いが妖怪を生み出したという例はない。妖怪を生み出すことができるのは、人間の想いだけなのだ。  シャドー・ユニバースの波動関数を収束《しゅうそく》させられるのは、人間だけの特殊《とくしゅ》能力である——それがミスターWの仮説であり、この作戦の要《かなめ》であった。 「くっ……!?」  流はうめいた。空中でよろめき、危うくガンチェリーを落としそうになる。天使たちの防御陣《ぼうぎょじん》を通過する際、腹に槍《やり》を受けたのだ。 「おい、しっかりしてくれよ!」  必死に角にしがみつき、ガンチェリーは悲鳴を上げた。だが、傷ついた流はがくんとスピードが落ち、高度も下がっていた。  振り向くと、数人の天使が追いすがってきていた。ガンチェリーは肩越《かたご》しに発砲《はっぽう》し、そのうち二人を撃墜《げきつい》した。これで六発すべて撃《う》った。もう弾丸《だんがん》はない。 「私が運びます!」  摩耶が舞《ま》い降りてきて、ガンチェリーを抱《だ》き上げた。 「頼んだ!」  身軽になった流は反転し、電撃《でんげき》を放って、向かってくる天使たちを迎《むか》え撃った。  もう摩耶たちを阻止《そし》する天使はいない。前方には�神�の姿が見えていた。まだ一キロ以上|離《はな》れているはずなのに、その輝く異様な巨体《きょたい》は、まるで間近にあるようにはっきりと見える。その周囲には何百もの妖怪や神々が群がり、電光や炎《ほのお》がひらめき、雲が渦巻《うずま》き、爆音《ばくおん》がひっきりなしに轟《とどろ》いていた。  だが、二人はもはや何の恐《おそ》れも感じていなかった。どれほど恐ろしい姿をしていようが、どれほど強大な力を持っていようが、あれは本物の神ではない——神の名を騙《かた》る偽者《にせもの》にすぎないのだ。 「なあ、マヤ!」  摩耶の腕《うで》に抱かれて高速で飛びながら、ガンチェリーは言った。 「何!?」 「あの歌、覚えてるか!?」 「ええ!」 「じゃ、歌おうぜ! せーの……」  二人は声を揃《そろ》えて歌いはじめた。 [#ここから2字下げ] 希望を捨ててはいけない 決して 世界が闇《やみ》に 閉ざされようと 心に響《ひび》く 神の言葉に 耳を傾《かたむ》け 信じ続けよう…… [#ここで字下げ終わり]  地球上空——  同日・同時刻——  宇宙人|妖怪《ようかい》たちの懸命《けんめい》の努力によって、、ミサイルから放出された物体は、大気圏《たいきけん》突入までに大半を撃破《げきは》できた。 「二発だけ落ちるぞ」  スコープを覗《のぞ》いて、ノエルは言った。しとめ損ねた二個の物体は、マッハ二〇で大気圏に突入しようとしている。すでに摩擦《まさつ》熱で赤く光りはじめていた。  一個はデラウェア州に向かって落下しつつ あったが、大気圏に突入したとたん、急に速度が落ちた。空気|抵抗《ていこう》のせいだ。すぐにばらばらに分解し、小さな火の粉となって地上に降ってゆく。デコイだったと知り、ノエルは安堵《あんど》した。さて、もう一個は……。  スコープをもう一個の物体に切り替《か》えたとたん、ノエルは恐怖した。速度がほとんど落ちていない。円錐形《えんすいけい》を保ったまま、真っ赤に輝《かがや》き、明るい流星となって落下してゆく。 「本物だ!」 「何!? 目標はどこだ!?」 「ニューヨーク……」  ノエルは口の中がからからに乾《かわ》くのを覚えた。今から追跡《ついせき》しても間に合わない。核弾頭《かくだんとう》の落下を止めることは、もはや誰《だれ》にもできないのだ。 「神よ!」  ノエルは思わず口に出して祈った。  ニュー・エルサレム——  同日・午前一時一五分(東部標準時)—— 「だめか!? もうだめなのか!?」  神々や妖怪たちは絶望に打ちひしがれていた。カーリーは全身を腫瘍《しゅよう》に苛《さいな》まれ、力|尽《つ》きて大地に倒《たお》れている。スカンダは灼熱《しゃくねつ》の炎で焼き尽くされ、ヴァイローチャナも全身を切り裂《さ》かれて血まみれになっていた。かろうじてヴィシュヌとシヴァは戦い続けていたが、ヴィシュヌは四本の腕《うで》のうち三本を失い、シヴァはすでに半身が石化していた。他の国の神々も同様で、トールもスヴァンテヴィトもヴァハグンもすでに倒され、アルテミスやゲーデは重傷を負って戦線を離脱《りだつ》し、ウェウェコヨトルやタンガロアは生きたまま腐《くさ》らされていた。�神�の周囲にはすでに何百という神々や妖怪の死骸《しがい》が積み重なり、大地は数万平方メートルにわたって真っ赤に染まっている。  それでもなお、�神�はほとんど無傷なのだ。  もはや敗北は決定的かと、誰もが思いはじめたその時——  歌が聞こえてきた。 [#ここから2字下げ] その目を閉ざしてはいけない 決して 偽《いつわ》りの夢に 逃《に》げこまないで [#ここで字下げ終わり]  二人の若い娘の声。小さく、まだかすかではあるが、力強く、希望に満ちた歌声。 [#ここから2字下げ] 神の剣《つるぎ》を 心に掲《かか》げ 闇を見据《みす》えて 戦い続ける! [#ここで字下げ終わり]  その歌を耳にしたとたん、�神�はたじろいだ——�神�が初めてたじろいだのだ! 巨体《きょたい》を震《ふる》わせ、迫《せま》ってくる何かから逃《のが》れようとするかのように、ゆっくりと身をのけぞらせる。一度も動いたことのなかった腕《うで》が持ち上げられ、顔をかばうようなポーズを取る。  それを目にして、神々や妖怪たちは驚《おどろ》いた。なぜかは分からない。だが、�神�は確かに恐《おそ》れている。娘たちの声を——それが自分にとって破滅《はめつ》をもたらすものであることを知っているのだ。 [#ここから2字下げ] いつかすべての 邪悪《じゃあく》は打ち倒され まことの神の 王国が築かれる 我らのこの地に! [#ここで字下げ終わり]  少女たちは空を駆け、ぐんぐん戦場に近づいてくる。その後ろには、多数のシルフを率いて、マゴニアの船が続いている。多くの神々は、ほとんど同時に察した。これこそが�神�を倒せる最後のチャンス——あの二人こそが、最後の希望であることを。 「あの二人を守るのだ!」  傷だらけのオーディンが叫《さけ》んだ。  まだ空を飛ぶ力の残っていた妖怪たちが、わらわらと二人の周囲に群がり、ガードした。ヴィシュヌとシヴァは二人の前に強力な結界を張った。他の神々も遺《のこ》された力のすべてを駆使《くし》し、二人の周囲を幾重にも防御《ぼうぎょ》する見えない盾《たて》を張りめぐらせた。  摩耶とガンチェリーは、今や大軍を率いて�神�に立ち向かっていった。 [#ここから2字下げ] Keep your belief! あきらめたら明日はない Never submit! 愛は報われるだろう 楽園の礎《いしずえ》を オレたちのこの腕で 積み上げよう [#ここで字下げ終わり] �神�は必死になって二人を攻撃《こうげき》した。火の雨を見舞い、電撃《でんげき》を放射し、強力な呪《のろ》いを放った。しかし、それらの攻撃は、妖怪たちの捨て身のガードによって阻止《そし》され、あるいは神々の張った結界によって食い止められ、二人には届かなかった。それでも�神�の死に物|狂《ぐる》いの攻撃はすさまじいもので、妖怪たちの防御陣は一層ずつ打ち破られ、剥《は》ぎ取られていった。  あと十数秒ですべてが決する。  摩耶はいったん装甲《そうこう》を解き、夢魔《むま》を自分たちの足の下に実体化させた。二人は今や夢魔の背中に立つ格好だった。 �神�はもう眼前に迫っていた。ガンチェリーは首にかけた十字架《じゅうじか》を前に突《つ》き出した。摩耶が腕を伸《の》ばし、それに手を重ねた。四本の白い腕が重なり、ひとつの力強い祈《いの》りとなった。 [#ここから2字下げ] Keep your belief! この身は傷つき倒れても Never submit! 誰《だれ》かが後に続くさ 楽園の礎《いしずえ》を 私たちのこの腕で 積み上げよう [#ここで字下げ終わり] �神�は悲鳴を上げ、顔を覆《おお》った。  彼が真に恐れているのは、二人の娘ではない。ましてや、彼女たちが手にしているちっぽけな十字架でもない。その背後にあるもの——自分よりもはるかに巨大で、とてつもなく強力なものに対して恐怖しているのだ。  まさにその時刻——  イギリス・スコットランド・グランピアン山脈——  夏休みを利用して山にキャンプに来ていた親子連れが、夜明け前から起き出し、素晴らしい朝焼けに染まりつつある東の空を眺《なが》めていた。 「ごらん」父親は小学生の息子に語りかけた。「神様は素晴らしい世界を私たちにお与えくださったんだよ」  ソマリア民主共和国・首都モガディシュ——  早朝。下町にある産院で、ちょうど女の赤ん坊が産声《うぶごえ》をあげたところだった。真夜中から八時間もかかった難産で、母親は疲《つか》れきっていた。だが、子供が五体満足で元気そうなのを目にし、母親はその顔に優しい微笑《ほほえ》みを浮かべた。 「神様、どうかこの子にあなたのお恵《めぐ》みを……」  香港・牛頭角《ガウタウコク》——  小さな教会で若いカップルが結婚式を挙げていた。貧乏で、親にも結婚を反対されているため、出席者は数人の友人だけ。披露宴《ひろうえん》もない。それでも二人は幸せだった。 「神の名において、この二人を夫婦と認めます」  誓《ちか》いのくちづけを交わすと、友人たちの問から力強い拍手《はくしゅ》が起こった。  アラスカ・フェアバンクス——  四時間前、郊外《こうがい》にある古いアパートでガス爆発《ばくはつ》が起き、建物が倒壊《とうかい》。闇が深まる中、救急隊による懸命《けんめい》の救出作業が続けられていた。 「奇跡《きせき》だ! 生きているぞ!」  救急隊員の間から歓声が上がった。瓦礫《がれき》の間にはさまれ、とっくに絶望視されていた五歳の少年が、ほとんど無傷で発見されたのだ。母親は感きわまって泣き出した。 「ああ、神様、感謝いたします! 感謝いたします!」  メタトロンたちが知らなかった、いや、知ろうとしなかったことがある。彼らが復活した一九四三年という時代は、世界中の人間が憎《にく》み合い、殺し合っていた時代であったこと。世界が戦乱の暗雲に閉ざされ、多くの人間が深い絶望を味わっていたこと。彼らはこの世の終わりは近いと予感し、むしろそれを切望した。最後の審判《しんぱん》と、神による絶対統治しか、この混沌《こんとん》に終止|符《ふ》を打つ手段はないと確信していた。そして、キヤメロン・ハヮードという狂信《きょうしん》的な人物の信念が、それを結晶《けっしょう》化させた……。  だが、今はそうではない。確かに世界の滅亡《めつぼう》を信じ、待望している人間は、全世界に何千万人もいるだろう。しかし、圧倒《あっとう》的多数の人間はそんなことは望んでいない。この世界がいつまでも存続することを願い、自分たちの手で世界を改革していけると信じている。  人々はもう世界に破滅《はめつ》をもたらす天使など信じない。彼らが信じる天使は、人間と同じように泣き、笑い、人間を温かく見守ってくれる天使だ。メタトロンのような残酷《ざんこく》な天使は、もはや必要とされていない。神も同じ。大多数の人々が信じる神は、人間を慈《いつく》しみ、人間の良心を信じ、優しく見守ってくれる神——断じて、人類を殺戮《さつりく》する�神�などではない。  そしてまた、人はこうも信じている。この世に神はたった一人。同時に二人の神は存在できない。どちらか弱い方が消えるしかないのだ。  まさに�神�は過冷却《かれいきゃく》の状態にあった。  マゴニアの船の中では、テスラ・ジェネレーターが最大出力で稼動《かどう》し、ニュー・エルサレムの時空構造を揺《ゆ》さぶって、波動関数を収束《しゅうそく》させやすくしていた。あとはたった一|粒《つぶ》の結晶|核《かく》が投げこまれるだけ——いや、この場合は二粒か。  敗北を確信し、�神�は絶望に身をよじった。それでも最後の力を振《ふ》り絞《しぼ》って、巨大な腕《うで》を振り下《お》ろし、二人を叩《たた》き落そうとした。  だが、その手は途中《とちゅう》で止まった。腕が凍《こお》りついていた。腕だけではない。顔も、胴《どう》も、脚《あし》も、身にまとった長い衣も——時間が止まったように、すべてが瞬時《しゅんじ》に結晶化した。苦悶《くもん》したポーズのまま、�神�は静止した。  その額に向かって、摩耶とガンチェリーは突《つ》っこんだ。  一瞬の静寂《せいじゃく》ののち、崩壊《ほうかい》がはじまった。結晶化した�神�の巨体《きょたい》がばりばりと縦に裂《さ》け、さなぎから蝶《ちょう》が生まれるように、中から新たな光があふれ出した。�神�の発していたぎらぎらする光とは似ても似つかない、温かく穏《おだ》やかな光……。  結晶は粉々に砕《くだ》け散り、風の中の灰のように吹《ふ》き散らされた。あふれ出た光はすべてを呑《の》みこみ、見る見る膨張《ぽうちょう》していった。  ニューヨーク上空——  同日・同時刻——  摩擦熱で真っ赤に輝きながら、一五〇キロトンの核弾頭《かくだんとう》を内蔵した再|突入体《とつにゅうたい》が落ちてくる。空気|抵抗《ていこう》でかなり速度は落ちているものの、まだマッハ一〇以上の高速だった。防空識別システムの不調のため、迎撃《げいげき》ミサイルに発射命令が出るのが遅《おく》れた。二発の <パトリオット> が飛んでくるが、間に合わないのは明白だった。  ニューヨークは厚い雲の下にある。七三八万人の市民はまだ危機を知らず、多くの者は幸福な眠《ねむ》りの中にあった。落下まで、あと一〇秒も残されていない……。  その時、雲の層を突き破り、弾丸《だんがん》のように上昇《じょうしょう》してくるものがあった。四枚の黄色い翼《つばさ》を持つ巨大な鳥だ。頭も脚もなく、くちばしと爪《つめ》が宙に浮《う》いている。それは音速を超える速度で急上昇し、落下してくる再突入体に真正面から迫《せま》った。  ワキンヤン——スー族の伝説に登場する雷鳥《サンダーバード》の一族。それがストラトイーグルの正体であった。 (やらせるものか!)彼の決意は固かった。(絶対にニューヨークは破壊《はかい》させない。この街ではもう一発の爆弾《ばくだん》も爆発させない!)  彼の恋人は七年前、ニューヨークで死んだ。世界貿易センタービルの爆破事件に巻きこまれたのだ。それ以来、彼は社会を混乱に陥《おとしい》れるテロリズムに激《はげ》しい憎《にく》しみを抱《いだ》くようになった。  だから <ベクター・アルファ> に参加を決意したのだ。  もうこれ以上、罪のない者の血を流させはしない。  すれ違《ちが》う直前、ストラトイーグルは全力をこめた電撃《でんげき》を放った。確かにそれは命中し、再突入体がばっと輝くのが見えた。次の瞬間、彼は通過するカプセルの発する強烈《きょうれつ》なソニックブームではじき飛ばされていた。 (だめなのか!?)  ストラトイーグルは雲を突き抜けて落下してゆく再突入体を見送り、神に祈った。だが、その一撃は確かに効果があった。カプセルそのものは破壊されなかったものの、高圧電流によって起爆装置の回路が焼き切れたのだ。無害な金属の塊となったカプセルは、ハドソン河に落下し、水柱を上げた。    北大西洋——  同日・同時刻——  沈降を続けた <ル・トリオンファン> は深度一一〇〇メートルで圧潰《あっかい》した。そのすさまじい轟音《ごうおん》は、三八キロ離れたロシア海軍のヴィクター㈽級原潜 <ワルシャフスキー> のソナーでも、明瞭《めいりょう》にキャッチできた。 「終わったな……」  艦長《かんちょう》のイリヤ・ジュラブリョーワ中佐は安堵《あんど》のため息をつくと、マイクを手に取り、艦内の全員に伝えた。 「諸君、おめでとう。本艦は世界で初めて、原潜を撃沈《げきちん》した潜水艦という栄誉《えいよ》を得た」  艦内にどっと歓声が上がった。  ニュー・エルサレム——  同日・午前一時三〇分(東部標準時)—— �神�の消滅《しょうめつ》とともに、ニュー・エルサレムも崩壊《ほうかい》を開始した。この物理的にありえない世界を支えていた力が失われたのだ。最初に崩《くず》れはじめたのは玉座のあった中心部だが、白い光がゆっくりと膨張を続けるにつれ、しだいに周辺に被害が広がっていった。大地が揺《ゆ》れ、河の水が滝《たき》となって巨大な地割れに落ちこむ。森が大規模に陥没《かんぼつ》し、樹々が雪崩《なだれ》のようにその中へ滑《すべ》り落ちてゆく。その穴の奥《おく》には、無限の虚無《きょむ》がぽっかりと口を開けていた。  すべてが無に還《かえ》ってゆくのだ。 「摩耶ちゃん! 摩耶ちゃんはどうなったの!?」  反転して離脱《りだつ》を開始したマゴニアの船の上で、かなたは半|狂乱《きょうらん》になっていた。摩耶とガンチェリーが�神�に突っこみ、光の中に飲みこまれるのは目にした。だが、それ以後、二人の行方《ゆくえ》はまったく分からないのだ。 「信じるしかないだろ」傷ついて甲板《かんぱん》に横たわり、流は悔《くや》しそうに言った。「今は俺《おれ》たちの身を心配する方が先だ……」  彼らの周囲では、妖怪《ようかい》や神々が大慌《おおあわ》てで撤退《てったい》を開始していた。空を飛べる妖怪が飛べない者たちを背負う。瞬間《しゅんかん》移動能力を駆使してピストン輸送している者もいる。幸い、崩壊の速度はせいぜい秒速数メートルで、かなりの者が生きて開口部までたどり着けそうだった。巨大なニュー・エルサレム全体が消滅するには、おそらく何日もかかることだろう。  かなたはもう一度だけ振《ふ》り返った。  その時、彼女は見た。普通なら決して見ることのできないはずのものだが、妖精《ようせい》の魔法《まほう》の目薬を挿《さ》していたので、見ることができたのだ。  崩壊してゆく大地から、白い小さな光が浮《う》かび上がってきた。何十、何百、何千という数だ。神の穏《おだ》やかな光が降り注ぐ中、彗星《すいせい》のように尾を引き、蝶《ちょう》のようにひらひらと舞《ま》いながら、空に向かって嬉《うれ》しそうに上昇《じょうしょう》してゆく……。  解放された子供たちの魂《たましい》だ。  それがどこに行くのか、かなたは知らない。いや、その答えを知る者はいないだろう。死後の世界が本当にあるのか、死者たちの魂はどこへ行くのか——それは妖怪たちにとってさえ未知の問題だ。  だが、きっと幸せな場所に行って欲しいと、かなたは願っていた。  船の沈没《ちんぼつ》が周囲に大渦を巻き起こすように、一〇の一八乗トンもの質量が消滅した影響は、地球を包むシャドー・ユニバースに大変動をもたらした。その後、何日間にもわたって、世界各地で隠《かく》れ里が現実空間に出現するという現象が続発したのだ。ヨーロッパの空ではマゴニアが何人ものパイロットによって目撃《もくげき》された。南米|奥地《おくち》にはエル・ドラドが、チベットにはシャンバラが、アイルランドの西の海にはティル・ナ・ノーグが現われた。それらの多くはすぐに元に戻《もど》ったものの、小さな隠れ里の中には、そのまま現実空間に安定してしまったものも多数あった。  それが人間や妖怪たちの関係にどんな影響《えいきょう》を及《およ》ぼすのか、まだ誰《だれ》にも分かっていなかった。 [#改ページ]    エピローグ ミレニアム  モントーク基地——  二〇〇〇年八月二八日・午前六時(東部標準時)——  夜明けが近い。ハリケーンは完全に消滅《しょうめつ》し、白々と明けてゆく空には、雲がいくつもちぎれ飛んでいる程度だった。昨夜の激戦《げきせん》が嘘《うそ》のような平和な朝だ。ラジオの天気予報は、今日は快晴になるだろうと告げている。  どうにか地上に帰り着いた幽霊《ゆうれい》飛行船は、ほとんど不時着同然の乱暴な着陸の末、滑走路《かっそうろ》にその身を横たえていた。気嚢《きのう》は傷だらけで大きく歪《ゆが》み、プロペラはねじ曲がっている。回復には何週間もかかることだろう。その傍《そば》にはマゴニアの船も着陸している。 「ガンチェリーとマヤ、どうなったのかな……?」  空を見上げ、ジャムが心配そうにつぶやく。それは誰しも同じ想《おも》いだった。あの脱出時の混乱の中、ついに二人の姿は発見できなかったのだ。 「へい、心配いらねえぜ!」  陽気にそう言ったのはエッジだった。近づく夜明けに備えて予備のヘルメットをかぶり、スチロール製のアイスボックスを大事そうに小脇《こわき》に抱《かか》えている。 「出かける前、これをそこの格納庫の近くに埋《う》めといたのさ。戦いのとばっちりを受けるとまずいからな——ほら」  彼はアイスボックスの蓋《ふた》を開けた。一同はそれを覗《のぞ》きこむ。  薄いピンク色の小さな心臓——それがどきどきと元気よく鼓動《こどう》している。 「あいつは生きてるよ」エッジは愛しそうに心臓を見下ろし、微笑《ほほえ》んだ。「早く返してやらなきゃな……」  ロードアイランド州・ブロック島——  同日・同時刻——  夜明け前の海岸。晴れ渡《わた》った空に、早起きの海鳥たちが優雅《ゆうが》に舞《ま》っている。気温は涼《すず》しくて過ごしやすく、静かに打ち寄せては返す波の音が、子守|唄《うた》のように心地よい。 「なあ、マヤ……?」  疲労困憊《ひろうこんぱい》した身体《からだ》を砂浜に横たえ、アリッサはぼんやりと言った。 「ん……何?」  摩耶も横になったまま答えた。 「セックスって気持ちいいのか?」 「え? うん……そうね」 「そっか……やっぱそうなんだろうなあ」アリッサは空を見上げ、静かに言った。「オレさ、おふくろと約束してんだ。『ドラッグには絶対に手を出さない』『酒とセックスは一八歳まで厳禁』って……オレのおふくろ、ガキの頃《ころ》からドラッグに溺《おぼ》れて、売春までやったあげくに、一五歳でオレを生んだような女だからさ。説得力あるんだよな。オレを妊娠《にんしん》してるって分かった時に、それまでの生活からきっぱり足を洗おうって決意したんだって。それで、オレには絶対に同じ道を歩ませたくないって……」 「立派なお母さんなのね」 「ああ、そうさ。オレは大好きだ。尊敬してる。だから約束は絶対に守る……だもんで、エッジにもあそこにゃ指一本|触《ふ》れさせてねえんだ。その代わり、あいつとも約束してる。『オレが一八歳になったら、思いっきりやりまくろう』って……」 「好きなのね?」 「ああ、好きさ」アリッサは恥《は》ずかしそうに頬《ほお》を染めた。「あいつってバカでさ、軽薄《けいはく》でさ、無知でさ……もともと悪党だったから、その癖《くせ》も抜《ぬ》けてねえし……でも、好きなんだよな。メロメロなんだ——ああ、あいつにはこんなこと言うなよ。増長するから」 「言わないわよ」 「オレさ、昔は自分が女だってことが大嫌《だいきら》いだったんだ。男に生まれたかった。だからわざと男みたいに振《ふ》る舞《ま》って、男みたいな口|利《き》いて——でも、今は違《ちが》う。あいつと出会ってから、女に生まれて良かったと思うようになった。あいつとエッチできるんだもん……世の中に男と女がいるって、やっぱ素敵なことだよな?」 「ええ、そうね」摩耶は力強く答えた。「エッチのない世界なんて、くそくらえだわ」 「『ポケモン』や『サウスパーク』のねえ世界も」 「ゲームやカラオケのない世界もね」 「まったくだ。何がニュー・エルサレムだよ。あんな退屈《たいくつ》な世界のいったいどこが天国だってんだ……あ」  アリッサは何かに気づき、上半身を起こした。 「どうしたの?」 「あれ、フェザーじゃねえか?」  海鳥に混じって、赤い奇妙《きみょう》な影が空を舞っていた。六対の翼《つばさ》、七本の首は、見|間違《まちが》えようがない。  摩耶たちが手を振ると、アザゼルも気がついたらしく、高度を下げてきた。彼が降りてくるのを、摩耶は熱い想《おも》いで待っていた。再会したらすぐ、話さなければならないことがたくさんある。 (アザゼル、あなたは間違ってるわ)  摩耶はそう言いたかった。人類は何千牢も同じ愚行《ぐこう》を繰《く》り返していると、あなたは言った。でも、それは違う。人間は少しずつだけど賢《かしこ》くなっている。自らの愚行《ぐこう》に気づき、それを改めようとしている。世界を破滅《はめつ》させまいと努力する一方、今より少しでも幸せな社会を築こうと悪戦|苦闘《くとう》している。  だから、私が死んだ後も、人類を見捨てないで。あと一〇〇〇年、見守り続けて。アリッサやバレンタイン牧師のような高潔な人たちがいるかぎり、一〇〇〇年後の世界はきっと今より素晴らしくなるはずだから。  そう、本当の神の王国が実現するはずだから。 「そっか、やっぱ、セックスって気持ちいいんだ」アリッサはうなずいた。「だろうなあ。ケツの穴|舐《な》められただけで、あんなに気持ちいいんだもんなあ……」  摩耶はびっくりして振り返った。「そんなことしてるの!?」 「え〜? だって、ケツの穴|触《さわ》るのはセックスのうちに入んねえだろ?」  アリッサのあっけらかんとした口調に、摩耶は吹《ふ》き出した。思いきり笑った。こんなに笑ったのは、この三か月で初めてだった。  アザゼルの巨大《きょだい》な翼が、二人を包みこむようにゆっくりと降りてきた。 [#地付き](了)  [#改ページ]    妖怪ファイル [#ここから5字下げ] [シルバーバレル(妖銃)] 人間の姿:なし。 本来の姿:銀色の銃(コルトピースメーカー)。 特殊能力:強力な弾丸を発射する。手にした者に超人的な体力と反射神経、銃の腕前を与える。八分の一サイズに縮む。 職業:少女ガンチェリー(アリッサ・メイベル)とコンビを組み、妖怪退治をしている。 経歴:西部のガンマンが用いていた伝説の名銃が意志を持った。 好きなもの:勇気ある者。 弱点:自分では動けないので、誰かに持ってもらわないと戦えない。 [エッジ(ミューティレーター)] 人間の姿:一六歳ぐらいのサングラスをかけた黒人少年。人間名ジャド・ディクスン。 本来の姿:同じ。 特殊能力:あらゆるものを切り裂く空気の刃。肉体を傷つけずに臓器を抜き取る。影から影へ移動する。 職業:深夜営業のデリカテッセンの店員。 経歴:白人の都市伝説から生まれた。悪の妖怪だったが、ガンチェリーに会って改心する。 好きなもの:ラップ。 弱点:強い光に弱い。 [ロードレイザー(妖怪バイク)] 人間の姿:赤いライダースーツを着たイタリア系の美女。人間名ジーナ・アルダーニ。 本来の姿:赤いバイク(ドゥカティ)。 特殊能力:高速で走る(バイク時)。右腕を回転鋸、左腕を排気管に変化させて攻撃。 職業:なし。普段はバイクの姿。 経歴:バイクを愛する男の心がバイクに生命を与えた。 好きなもの:走ること。 弱点:ガソリンが切れると動けない。人間的な感情に乏しい。 [サヴェジバイト(化石恐竜)] 人間の姿:陽気なメキシコ系の巨漢。人間名エミリオ・ヒガンテ。 本来の姿:ティラノサウルス・レックスの骨格標本。 特殊能力:怪力。中生代の風景の疑似空間を創り出す。 職業:土木作業員 経歴:ティラノサウルスに対する人間の恐れと憧れが生み出した。 好きなもの:子供。 弱点:特になし。 [シャドーキック(妖怪ニンジャ)] 人間の姿:日本人青年。人間名ショー・チバ。 本来の姿:黒装束の刃著。 特殊能力:カンフー。手裏剣、爆薬、煙幕弾などを投げる。影に身を隠す。高く跳躍し、壁や天井に貼りつく。水中でも長時間行動できる。 職業:カンフー道場を営む。 経歴:忍者に対するアメリカ人の誤った認識から生まれた。 好きなもの:スシ。テンプラ。カメラ。 弱点:特になし。 [パワーフェアリー(森の精)] 人間の姿:一六歳ぐらいの白人少女。人間名シェミー・エイムズ。 本来の姿:同じ。戦う時はビキニ姿。 特殊能力:怪力。超跳躍力。鋭敏な五感と第六感。動物と話せる。 職業:動物園の飼育係。 経歴:アマゾン出身。「ジャングルに白人少女が暮らしている」というデマから誕生。 好きなもの:動物。自然。 弱点:服を着ていると力が出ない。 [ミスター|W《ダブリュー》(幽霊飛行船)] 人間の姿:眼鏡《めがね》をかけた中葉(背船の分身)。人間名リチャード・P・ウィルソン。 本来の姿:全長五〇メートルの飛行船。 特殊能力:空を飛ぶ。姿を消す。強烈な光を発する。いろいろな機械を発明する。 職業:発明家。 <Xヒューマーズ> のリーダー。 経歴:一九世紀末、飛行機械の実現を信じた人々の想いが結集し、生まれた。 好きなもの:機械いじり。クラシック音楽。 弱点:炎。 [ジャム(ネットの天使)] 人間の姿:中国系の若い女性。人間名リリ・カーステアズ。 本来の姿:電気の火花に包まれた人型のシルエット。 特殊能力:回線を通って移動できる。電波感知。電気製品を自在に操る。 職業:ミスターWの助手。 経歴:理想の女性を求めるオタクたちの願望が、ネットを飛び交う情報に生命を与えた。 好きなもの:機械いじり。パソコン。コスプレ。コミックス。 弱点:水を浴びるとショートする。 [ノエル(スペース・ブラザー)] 人間の姿:ハンサムな金髪の白人青年。 本来の姿:同じ。ジャンプスーツを着ている。 特殊能力:光線銃を撃つ。UFOを操縦する。オーラが見える。テレパシー。 職業:なし。地球の平和を守っている。 経歴:一九五〇年代、宇宙人の存在を信じる人の心から生まれた。 好きなもの:人助け。 弱点:特になし。 [ストラトイーグル(ワキンヤン)] 人間の姿:ネイティブ・アメリカンの青年。人間名ヒュー・イエローウインド。 本来の姿:四枚の翼がある黄色い巨鳥。頭も脚もなく、歯と爪が宙に浮いている。 特殊能力:高速で空を飛ぶ。気象を変える。電撃を放つ。 職業:CIAの秘密組織 <ベクター・アルファ> のメンバー。 経歴:スー族の伝説の妖怪。両親は人間で、ヒューは隔世遺伝で生まれた。 好きなもの:アメリカ。 弱点:地下や水中では力が出ない。 [グレモリー(悪魔)] 人間の姿:ボンデージルックの美女。 本来の婆:同じ。魔獣マルコシアスにまたがる。 特殊能力:透視。第六感。人の心を操る。 職業: <ザ・ビースト> の秘密工作員。 経歴:中世の魔道書『ゲーティア』の内容を信じる人の心が生み出した。 好きなもの:人をあざむくこと。 弱点:十字架。聖書の言葉。 [新天使] 人間の姿:人種も性別も様々。 本来の姿:白い翼の生えた男女。 特殊能力:姿を消す。空を飛ぶ。人の心を読む。危険を感知する。 職業:様々。 経歴:天使の存在を信じる人々の心から、近年になって誕生。 好きなもの:人助け。 弱点:力がほとんどない。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  あとがき  どうも、ガシャポンの『ヴァンパイアセイヴァー』でサスカッチがなかなか出なくてコンプリートできず困っている山本弘です。モリガンが余ってるからパテ盛りして黒く塗って摩耶ちゃん夢魔武装バージョンに改造しようかとか、ジャムはキュービイのクリアバージョンを削れば簡単にできそうだとか、ロードレイザーを造るなら右腕のタイヤはバンダイの食玩のライダーマシンから流用したらサイズはぴったりだとか、いろいろ構想はあるんですが、なかなか時間がなくて……。  えー、遅くなりましたが、『戦慄のミレニアム』ようやく完結いたしました。当初は一冊の予定だったんですが、構想がふくらみすぎて急遽《きゅうきょ》二分冊になり、さらに下巻の執筆が大幅に遅れてしまい、大勢の方にご迷惑をかけてしまいました。特に角川書店の主藤さん、大変だったでしょう。ごめんなさい。  でも、読んでいただけると分かりますが、これ、書くのにすごく時間がかかる小説だったんです。下巻の主要な舞台であるニューヨークの描写にしても、正確を期するために、いちいちガイドブックや資料本をめくりながら書いていましたし、世界各国の神話や妖怪伝承について調べたり、潜水艦、戦闘へリ、ミサイルなどについての資料(特に今回はいろんなミサイルが出てくるもんで)を読みあさったり、もう大変。  でも、最もたくさん読んだのは、聖書関係の資料でしょうか。題材が題材だけに、キリスト教に詳しい方から「ここは間違ってるぞ」と突っこまれないよう、なるべくたくさん目を通しておこうと心がけました。読んだものの引用はしなかったので巻末の参考資料リストに書名を挙げていない本も何冊かあります。  いやー、大変だったけど面白かったですね。特にロビン・レイン・フォックス『非公認版聖書』(青土社)や、エレーヌ・ベイゲルス『悪魔の起源』(青土社)などは、知らなかったことがいろいろ書いてあり、読みながら「なるほど、そうだったのか!」と、目からウロコ落ちまくりの楽しさでした。その内容のごく一部は、12章のバレンタイン牧師の台詞《せりふ》に反映されています。  世間一般に信じられていることが正しいとは限らない——その事実を、あらためて思い知らされた気がします。  さて、上巻のあとがきでも書きましたが、これにて『妖魔夜行』第一シリーズは終了ということになります。まもなく、新たな設定を加え、新たなキャラクターによる新シリーズ(ネクスト・ジェネレーションといったところですが)がスタートします。  どんな内容になるかはまだ詳しくお話しできませんが、今回の事件がきっかけで、人間と妖怪との関係に大きな変化が生じますし、消滅した�神�に代わって新たな脅威も登場します。天使だって全滅してはいませんし、 <ザ・ビースト> も健在です。新キャラクターたちはどんな事件に遭遇し、どんな戦いを展開することになるのでしょうか。  もっとも、旧シリーズのキャラクターがいなくなってしまうわけではなく、何人かは新シリーズにも引き続き登場する予定です。僕としては、この長編の中で描ききれなかった <Xヒューマーズ> の番外編(ガンチェリーとエッジのなれそめとか、ロードレイザーの過去とか)を、機会があれば書いてみたいと思っています。  どうかこれからも『妖魔夜行』を応援してください。  さあて、ガンチェリーを造るとしたら、ベースにするフィギュアは何がいいかな? [#地付き]山本 弘  [#改ページ]  参考資料  この小説を執筆するにあたり、以下のような資料を参考にさせていただきました。  なお、作中の聖書の文章は、『トマスによる福音書』についてはエレーヌ・ペイゲルス『悪魔の起源』(松田和也・訳)、それ以外は新協同訳『聖書』から引用したものですが、一部、文意を変えない範囲で言い回しを変更した箇所があることをお断りしておきます。 【天使・堕天使】  マルコム・ゴドウィン『天使の世界』(青土社)  ユッタ・シュトレーター=ベンダー『天使』(青土社)  テリー・リン・テイラー『こんな天使と出会いました』(同文書院)  ジョン・ロナー『天使の事典』(柏書房)  利倉隆『天使の美術と物語』(美術出版社)  ムー謎シリーズ『天使と悪魔の大事典』(学研) 【妖怪】  G・アダムスキ『空飛ぶ円盤同乗記』(高文社)  R・アードス&A・オルティス『アメリカ先住民の神話伝説』(青土社)  コリン・ウィルソン編『超常現象の謎に挑む』(教育社)  アーサー・コッテル『世界神話辞典』(柏書房)  カール・シファキス『詐欺とペテンの大百科』(青土社)  J・H・ブルンヴァン『赤ちゃん列車が行く』(新宿書房)  ピーター・ヘイニング『世界霊界伝承事典』(柏書房)  J・ミッチェル&R・リカード『フェノメナ【幻象博物館】』(創林社)  江口之隆『西洋魔物図鑑』(翔泳社)  斎藤君子『ロシアの妖怪たち』(大修館書店)  笹間良彦『図説・世界未確認生物事典』(柏書房)  中村省三『宇宙人大図鑑』(グリーンアロー出版社)  日本民話の会・外国民話研究会編訳『世界の妖怪たち』(三弥井書店) 【超科学・超常現象】  チャールズ・バーリッツ『謎のフィラデルフィア実験』(徳間書店)  P・ニコルズ&P・ムーン『モントーク・プロジェクト謎のタイム・ワープ』(学研)  荒俣宏『パラノイア創造史』(筑摩書房)  多湖敬彦『フリーエネルギー[研究序説]』(徳間書店)  と学会編『トンデモ超常現象99の真相』(洋泉社) 【聖書・終末論】  イアン・ウィルソン『真実のイエス』(紀伊国屋書店)  ダミアン・トンプソン『終末思想に夢中な人たち』(翔泳社)  グレース・ハルセル『核戦争を待望する人々』(朝日選書)  R・E・フリードマン『旧約聖書を推理する』(海青社)  ロビン・レイン・フォックス『非公認版聖書』(青土社)  エレーヌ・ベイグルス『悪魔の起源』(青土社)  バートン・L・マック『失われた福音書』(青土社)  斎藤忠『イエス・キリストの謎と正体』(日本文芸社)  関根正雄編『旧約聖書外典 下』(講談社)  ひろきちや監修『図解世界の宗教と民族紛争』(主婦と生活社)  『総解説 聖書の世界』(自由国民社)  知の探求シリーズ『キリスト教と聖書の謎』(日本文芸社)  NEW SIGHT MOOK『宗教と民族』(学研)  『新約聖書㈸ パウロの名による書簡 公同書簡 ヨハネの黙示録』(岩波書店)  新改訳『聖書』(日本聖書刊行会)  新協同訳『聖書』(日本聖書協会) 【地震・災害】  デイヴィッド・キース『西暦535年の大噴火』(文藝春秋)  スチュワート・フレクスナー&ドリス・フレクスナー『世界大惨事事典』(北星堂書店)  鎌谷秀男・三枝省三『兵庫県南部地震から学ぶ地震の基礎知識』(修成学園出版局)  小出仁・山崎晴雄・加藤碵一『地震と活断層の本』(国際地学協会)  国立天文台編『理科年表』(丸善) 【軍事・世界情勢】  トム・クランシー『トム・クランシーの原潜解剖』(新潮文庫)  出射忠明『兵器メカニズム図鑑』(グランプリ出版)  江畑謙介『兵器の常識・非常識』上・下(並木書房)  小都元『ミサイル事典』(新紀元社)  坂本明『【大図解】世界の潜水艦』(グリーンアロー出版社)  松井茂『世界紛争地図』(新潮文庫)  三浦正洋他『世界の航空博物館&航空ショー』(ワック出版部)  日本兵器研究会編『世界の軍用ヘリコプター』(アリアドネ企画)  日本兵器研究会編『世界の最新兵器カタログ 空軍・海軍編』(アリアドネ企画)  世界の艦船別冊『アメリカ海軍ハンドブック 改訂第2版』(海人社)  世界の艦船別冊『艦載兵器ハンドブック』(海人社)  別冊宝島『これから起こる戦争!』(宝島社)  「特集 ブラックバードの研究」/『航空ファン』一九九八年二月号(文林堂)  「特集 潜水艦のすべて」/『世界の艦船』一九九九年一月号(海人社) 【アメリカ・ニューヨーク】  賀川洋・桑子学『図説 ニューヨーク都市物語』(河出書房新社)  坪内隆彦『キリスト教原理主義のアメリカ』(亜紀書房)  永沢まこと・宮本美智子『ニューヨーク人間図鑑』(草思社)  末山歩『ニューヨーク ロフト暮らし』(晶文社)  柳沢賢一郎編著『図解アメリカのしくみ』(中経出版)  個人旅行39『ニューヨーク 2000—2001年版』(昭文社)  地球の歩き方38『ニューヨーク』(ダイヤモンド社)  るるぶ情報版海外32『るるぶニューヨーク'00』(JTB) 【その他】  クリス・スカー『ローマ帝国』(河出書房新社)  カール・セーガン『カール・セーガン科学と悪霊を語る』(新潮社)  デビッド・ブラットナー『π[パイ]の神秘』(アーティストハウス)  上撰の旅9『東京』(昭文社)  ぴあMOOK『遊園地+テーマパーク』(ぴあ株式会社)  『imidas2000』(集英社)  『現代用語の基礎知識1999』(自由国民社)  『世界大百科事典』(平凡社)  「特集 脱原子力以外に道はない」/『世界』二〇〇〇年四月号(岩波書店) [#改ページ] 底本 角川スニーカー文庫  シェアード・ワールド・ノベルズ  妖魔夜行《ようまやこう》 戦慄《せんりつ》のミレニアム(下)  平成十二年六月一日 初版発行  著者——山本《やまもと》弘《ひろし》